峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

晴れ男 晴れの国

2019年07月31日 | 移住
平日は塾があるし、町の委嘱を受けている委員としての会議も控えていたため、22日には加賀美を発たなければならなかった。

途中、寄り道をしながら一般道を走ることにしたが、途中休憩を挟むほか、土産を求めるために三原で道の駅に寄ることぐらいしか余裕がなかった。

結局、加賀美を発ったのが正午過ぎで、佐々の我が家に到着したのは翌日の朝方4時頃だった。都合16時間程要したことになる。
途中、高速道に乗ろうかとも思ったが、山口県に差し掛かる頃には、ここまで来たら一般道で通してみようという気持ちになっていた。

それはさておき、私の晴れ男ぶりには私自身驚くほどだ。
女房どのなど、いかに天気予報が雨でも「降らない」と信じて疑わない。

今回の加賀美行きも、週末から週明けにかけて、ずっと大雨の予報だった。それが時々降るものの、要所要所では降らないのだ。
おかげで草刈も出来たし、祭りも雨にたたられなかった。

これまで幾度となく岡山に出向いてきたが、「晴れの国 おかやま」と相俟って、雨にたたられたことがない。

次のライフステージへと

2019年07月30日 | 移住
21日・日曜日、午後3時から備前市吉永町都留岐大股地区内のお宮で行われた祭りに、寸志と地区内19戸へのご挨拶の祖品を携え、女房どのと連れ立って出席した。

定刻10分ほど前にお宮に着くと、既に14,5人ほどの地区のみなさんがお集まりだった。
早速、自治会費月1,000円と有線テレビ負担金月200円、さらに社会福祉協議会年会費500円を徴収された。

ちなみに、まだ住民票がある佐々町西町の自治会費は月500円。
佐々町社会福祉協議会の年会費も、かつては社協の依頼を受け、自治会を通して社協に代わり年会費500円を集めていたが、半強制的になっていることを憂い、町内会長連絡協議会で問題提起し、話し合いの末に自治会で集めるのをお断りした。現在は、社協独自に会員を募集しておられる。
まあ、郷に入っては郷に従えだ。

祭りの冒頭、区長さんにご紹介いただき、みなさんにご挨拶させていただく機会を得た。
やがて、区長さんを中心に神事が始まったが、間もなく地区の集会所に場所を移し、さらに神事・仏事が続いた。

ひとしきりそれらが続いた後に懇親会が行われた。
酒がふるまわれたが、酌み交わす人は私を入れても5人だ。
それでも、地区の今昔等を興味深く伺った。
女房どのも、ご婦人方の輪に積極的に飛び込み、買い物のことなど色々尋ねたようだ。

いろいろなご縁があって、全くの見知らぬ土地で、新しい人生を始めることが出来る。
ご近所づきあい・野菜作り・薪割り、その他多くがゼロからのスタートとなる。女房どのと二人三脚、新しい舞台の上での新しい人生を楽しみたい。

引き継ぐ

2019年07月26日 | 移住
先月末、備前市吉永町加賀美の新たな住まいの引き渡しを受けた後、地区の区長さん宅へ挨拶に伺った。
その際、21日に地区のお祭りがあるので来ませんかとのお誘いを受けた。
そのお祭りに地区19戸のみなさんが揃うので、私たちをみなさんに紹介しようというわけだ。

19日金曜日の塾を終えた後、女房どのと2人、愛車アルファ159に当座必要な荷物を詰め込み佐々を後にした。
2時間に1度を目途にSAで休憩をとりながら、8時間後の20日午前6時頃に加賀美に着いた。

およそ20日振りだったので、庭の草の伸びが心配だったが、思ったほどではなかった。
早速、作業着に着替え、刈り払い機で草を刈り出したのだが、夢中になり作業をしている途中でエンジンが止まってしまった。4時間は経っていたのだろうか。

Sさんに譲り受けた初めての4サイクルエンジンの刈り払い機なので使い方を十分に把握しきれていなかった。オーバーヒートだったのだろうか。
ようやく庭の10分の1程を刈り終えた程度だったが、仕方がない草刈は中断せざるを得なかった。

再び都会暮らしに戻らなければならなくなったSさん、彼にとって最早必要なくなってしまった刈り払い機始め、チェーンソー、耕運機等々の農機具や工具類すべてを譲り受けた。
念入りに手を入れた家屋、手入れが行き届いた庭、そして、それらを維持管理していくための道具類、Sさんご夫婦の思いを胸に刻み、大切に引き継いでいきたい。

既に正午近くになっていたので風呂を沸かし、汗を流した。
女房どのが、薪で沸かしたお湯は柔らかいねと湯船から声をかけてくれた。

決して諦めない

2019年07月25日 | 暮らし
今回の参院選の投票率が48.80%だったと新聞が伝えている。つまり、有権者の半数以上にのぼる人たちが投票しなかったということになる。
国政選挙のみならず、近年の地方選挙でも投票率は下がる一方で、軒並み50%を割り込んでいる。

これは、選挙を通じて民意を明らかにし、政治で実現するという現行の民主主義が機能不全に陥りかけていることの1つの表れと見るべきだろう。
もっと多様な、もっと国民が主体的に政治に関わるような新しい民主主義の形が求められている。

ところで、安倍首相は参院選後の記者会見で、「国民から力強い信任を得た」「少なくとも憲法改正に向けた議論をすべきだという国民の審判は下った」と野党に憲法改正の具体案づくりに向けた協議入りを呼びかけ、「与野党の枠を超えて3分の2の賛同が得られる改正案を練り上げていきたい」と語った。

この発言に対し、与党のみならず野党の幹部からも異論が出ている。
参院選後の世論調査においても、国民が安倍首相に望む政策はそこではないことは明確だ。
安倍首相のこの前のめりな姿勢は何なのだろう。

年金などの社会保障の充実、あるいは教育・子育て支援の拡充、また景気・雇用対策と政権に望むことは色々ある。
だが、私が最も望むのは、この国が二度と戦争をしない国家であってほしいということだ。戦争をしてしまえば、元も子もない。

特定秘密保護法や安全保障法制といった重要な法案が現政権下で次々と強行採決されてきているなか、政権周辺からきな臭い言動が目立つ。

15日に札幌市で行われた安倍首相の街頭演説の際、演説中にヤジを飛ばした市民が警官に取り押さえられたという。
また、年金問題に触れた安倍首相に対し、増税反対と叫んだ女性1人も警官5,6人に取り囲まれ、腕を掴まれて後方へ移動させられたという。
まるで、テレビや映画のドラマで見る軍国時代の特高の取り締まりのようであり、一党独裁国家の権力の取り締まりのようで恐怖を感じる。

少し前になるが、国後島を訪れた衆議院議員が北方四島返還に関し、戦争しないと、どうしようもなくないですか」と訪問団の団長に詰め寄ったとされる事件もそうであり、ここ最近の対韓国との関係における勇ましい声も同様だ。

悲惨な戦争を体験された昭和一桁の野坂昭如、大島渚、永六輔、大橋巨泉、小沢正一さんたちは、今のこの国のこのような状況を雲の上からどう見ておられるだろう。
彼らは一様に権力と距離を置き、時に権力を批判し、機会を捉えては戦争の悲惨さを語り、だから戦争をしてはならないと訴えておられた。
彼らを失った今、メディアでそれを語る論客がいないことを憂う。

「戦争は、いつの間にか忍び寄って来る」
彼らは、異口同音にこのようなことを話しておられた。
今が平和だからといって、それが未来永劫続くとは限らない。どんな候補者を選ぶのか、どの政党に権力を与えるのか、私はじっと目を凝らす。

余計なことを1つ言う。
今回の選挙で若い人たちの得票率が低かったというが、若い人たちにこそ投票権を棄てないでほしい。何故なら、未来は若い人たち自身のものだからだ。

参院選の投票日が迫った18日、女房どのと連れ立って期日前投票をしに役場に出かけた。
投票日の21日に投票所に足を運ぶことが出来ないことは、投票用紙が届く以前から分かっていた。
期日前投票に行こうねと女房どのと何度か話していた。なのに、なかなか行けなかった。行く気にならなかった。
ただ、選挙権を放棄するつもりはなかった。

社会が今よりも、よりよくなっていくのを諦めたくはない。
次の、そしてその先の世代の人たちへの責任として。

「コーヒーストップ」という感じ

2019年07月18日 | 移住
コーヒー本来の味と香りを楽しむために、自宅でコーヒーの生豆を焙煎するようになって4年が経った。
3人の子供たちの私の焙煎するコーヒー豆に対する評価は高く、彼女らのリクエストにも応えている。

コーヒーは、元々コーヒーノキという植物のコーヒーチェリー(果実)から出来ている。
コーヒーチェリーの中の種子がコーヒーの生豆であり、コーヒーチェリーから種子を取り出す工程は精製と呼ばれる。

精製されただけの生豆は薄い緑色をしていて、青臭いにおいがする。農作物そのものといった感じだ。ただし、梅干しの種のようにやたら硬い。歯で噛んでも簡単には砕けない。

この生豆に熱を加え、焙じて煎る工程を焙煎という。
焙煎することで生豆に化学変化が起こり、あの独特の風味が生じてくる。
ただし、コーヒー本来の風味は2週間ほどで損なわれる。

そこで、そこそこ頻繁に焙煎することになるのだが問題が1つある。
焙煎時、チャフと呼ばれる生豆の薄皮が剥がれ周囲に飛び散るため、焙煎作業は勢い屋外でということになるのだが、その都度、必要な器具類を取り出し設置し、終わると収納しなければならないのだ。

そんなことから、移住した暁には焙煎専用の工房を持ち、そこに業務用の焙煎機を据えたいと思ってきた。
ついでに、カフェのようなものが出来たらいいなとも思っていた。

ただし、その「カフェのようなもの」の具体的なイメージは持てずにいた。
「カフェ」ではないし「コーヒーショップ」でもなければ「喫茶店」でもなかった。

加賀美に移住することを決めた後のある日、いつものようにくるみさんとビデオ通話をする中、加賀美で開こうとしている「カフェのようなもの」の話になった。

機会を捉えては海外に出かけているくるみさん、外国のカフェテラス文化がたいそうお気に入りで、折々それについて聞かされていたのだが、加賀美で開こうとしている「カフェのようなもの」について、テイクアウト形式でテラス席を設けたらどうかと提案してくれた。

その一言で、もやもやしていたものが瞬時に吹き飛び、頭の中のスクリーンにそれは鮮やかに映し出された。

スペシャリティコーヒーの提供を主に、立ち飲みやテイクアウトの形をとる「コーヒースタンド」というカテゴリーがあるが、それとも異なる、他のどこにもない、あの場所だからこそ出来る独自のスタイルのコーヒー屋を1つの文化として加賀美の地でひっそりと花開かせることができたらいいな。

感性が刺激されて止まない。

感性を刺激されて

2019年07月16日 | 移住
加賀美の家での2日目の朝、目を覚ますと、驚くことに女房どのが庭を散策しているではないか。
これまで、デパートの中を歩きまわっている彼女の姿を想像できても、自然の中に身を置く彼女の姿は想像できなかった。
そんな人が早朝、うっとりとした様子で草木を愛でながら歩いているのだ。意外だった。
いわゆるシティ派の女房どののハートさえ、がっちりつかむ加賀美の家の庭、それほど魅力的なのだ。

教育には環境からの感化が大きいと言われるが、人間の暮らしぶりそのものが環境に感化されるところ大なのだろう。

何処に何があるのか、少しずつ家の周囲の状況も把握していこうと、この日は先ず自宅から山手の方に向けて4㎞程の所にある「八塔寺ふるさと村」を訪ねた。

その後、和気町へ買い物にいったのだが、夕食はバーベキューにしようかと女房どのが言い出したのには、これまた驚いた。
これまで、シティ派の女房どのが自らバーベキューをしようなどと言うはずもなかった。
夏の夜に家族みんなが揃ってバーべーキューするときなども、早々と1人抜け出して屋内に戻っているほどだった。

加賀美の地に来て、というよりあの場所に出会って、彼女の中で何か変化が起こっているように思われる。
それは女房どのだけではない。私も同様だ。
これからやりたいことの具体的なイメージが湧いてきている。あの素晴らしい環境に出会ったからこそなのだ。

移住 初めての夜

2019年07月15日 | 移住
先月の28日、Sさんご夫妻、不動産屋担当者Iさん他数名、司法書士、それに私たち夫婦がそろい、和やかに最終的な決済を行うことが出来た。

ご事情があって愛知に戻られるSさんご夫妻は、この日最後の荷物をワンボックス車に詰込み加賀美を後にされた。

電気・水道・ガスを名義変更し、そのまま継続して使用できるよう手配してもらっていたことから、取り敢えずその日から3日間、入れ代わり私たち夫婦は加賀美で過ごすことにした。

加賀美の家で最も楽しみにしていたのが薪風呂だった。
先ずは薪割りに挑戦。斧を振り上げ輪切りにしてある丸太を目指すが、なかなか芯を捉えることが出来ない。
入浴1回分くらいはバケツ一杯の薪があれば十分だと聞いていたが、面白くて止められず、3,4日分の薪が準備できるほど斧を振るい続けた。

風呂を焚きつけるのも面白い。
中学生の頃まで五右衛門風呂に入っていた。石炭が燃料だったが、火をおこすのに苦労した。

初めに新聞紙に火を付け、その上に枯れた小枝を乗せる。小枝から次第に太い枯れ枝へと炎を大きくし、火の勢いが出てきたところで石炭をくべる。
何度も何度も失敗しながら火をおこしたものだ。
それでも、中々上手くいかないところが逆に面白く、風呂番は買って出ていた。

先に女房どのに入ってもらった。
窓一つ隔てた焚口の方で、浴室の中の女房どのに湯加減を聞きながら、薪をくべる。
加賀美の家での初めての夜は、ゆったりとした時間が流れているようだった。

女房どのの決断

2019年07月14日 | 移住
吉永町加賀美の「別天地」からの帰途の新幹線の車中、ほっと胸をなでおろしつつ、缶ビール片手に岡山名物駅弁「桃太郎の祭りずし」に舌鼓を打っていた。

そこがいかに素晴らしい所であったとしても、さすがに独断はためらわれた。優先権が保証されたわけではなかったが、女房どのの意向を確かめた上で返事をするということでIさんに了承いただいたのだ。

実のところ、その時点では女房どのが気に入るかどうかは否定的に感じていた。なにせ「ぽつんと一軒家」まではいかないものの、街中でもなければ集落の中ですらない一軒家である。
近くにコンビニはおろか商店もない。買い物に行くには車で15分はかかる。
そもそも、女房どのは自然が好きなわけでもなく、虫を見れば、きゃあと悲鳴を上げる方だ。どちらかと言えば不便な田舎暮らしより、便利な都会暮らしを望んでいるに違いない。

夫婦の関係というのは微妙なものだ。互いの価値観や思想をとことん議論すれば、一緒に暮らせないという結論にさえ達しかねない。
大抵は、互いがどこかで譲歩したり、諦めたりすることで同じ屋根の下に暮らせているのかもしれない。

帰宅すると早速、スマホに収めてきた加賀美の家屋内外の写真を女房どのに見せた。
すると、女房どのは写真を見るや否や「いいね!」と好ましい印象を示すではないか。
本当のところ、いい反応が帰ってくるとは思っていなかっただけに驚いた。
多少の妥協が入るにしろ、2人揃って得心しなければ購入するつもりはなかった。

むしろ、女房どのに背中を押されるようにして、すぐにIさんに購入の意向を示すと、折り返し買付証明書が送られてきた。それに署名・捺印して送付すると共に、手付金10万円の振り込みを済ませた。

その後、とんとん拍子に交渉がまとまり、女房どのと共に売買の契約をするため加賀美の地を再び訪ねた。
ただし、女房どのは写真を見ただけだったので、実際に現地を訪ねてみて気に入らないということもあるなと若干の気掛かりがあった。
しかし、それは全くの杞憂に終わった。

上郡町へ向かう県道から里道へ入った途端、目に飛び込んでくる別天地の景色に女房どのは「うわぁ~、すごい!」と歓声を上げたのだ。
全てが決まった瞬間だった。

別天地

2019年07月13日 | 移住
「峰野さんにぴったりの物件が出ました」
突然の彼からの電話だった。

それは、HPに掲載される前の「他の不動産屋」に入りたてのホットな情報だった。
彼曰く、HPに掲載されたら、たちまち売れる程の良い物件で、既に他の営業マンも客に情報を流しているので早く物件を見てもらいたいとのことだった。

返事を保留し、電話を切った後で女房どのに電話の内容を伝えると、すぐ行っておいでよと即答だった。
早速、彼に見に行く旨の電話を入れ、取り敢えず私1人で出かけることになった。
良かったらどうする?と女房どのに聞くと、決めてきたらと、いとも事も無げに言うではないか。

高速バスで博多へ出て、新幹線で岡山駅へ。そこから山陽線に乗り換え、彼との待ち合わせの吉永駅まで。
吉永駅が近づくにつれ「良かったら、どうしよう」との思いが次第に募ってきた。
良かったら、購入を決定しなければならない。1人で決断を下さなければならない重圧を強く感じていた。

吉永駅で迎えに来てくれていた彼の車に乗り込む。
駅から北に走り、八塔寺川ダム公園を過ぎて間もなく、東に向かって上郡町へ通ずる県道に入ってすぐ、県道から直に引き込まれた里道の先に目的の物件があった。

現地では、当時、まだ住んでいらっしゃったSさんご夫妻が笑顔で迎えて下さった。
Sさんご夫妻は、私たち夫婦と同様の年齢で、7年前に愛知県から移住して来ておられた。
この地に永住するおつもりで5年前に家をリフォームされたということで、実にきれいにお住まいだった。

何より、約千坪の敷地に家屋と繋がって広がる野芝が張られた庭と、敷地を取り囲むように植えられているコナラの高木他、栗や桜の樹々、それらを含め、これまで想像すらできなかったロケーションに息を呑む思いだった。

運命の出会い

2019年07月12日 | 移住
徳島を発つ直前に「他の不動産屋」に電話を入れ、待ち合わせの時刻を決め、明石海峡大橋経由で待ち合わせ場所・赤穂市の古民家を目指した。

国道2号線を西へ、たつの市、相生市とまたぎ、赤穂市に入り、有年駅前の交差点を左折し、うねうねと続く山道を登り下った所の集落の一角にその古民家はあった。
しかし、それは残念なことにHPに掲載されている写真とは全く異なる佇まいだった。

待ち合わせの時刻より1時間近く早く着いたこともあり、キャンセルして家路を急ぐことにして担当者に電話を入れると、よければそこから遠くない場所の物件を見ないかと誘われ、それではと応じた。すると、自分は行けないので、他の社員をよこすがそれでもいいかと問う。異存がないことを伝え、待ち合わせのたつの市へと向かった。

待ち合わせの場所に現れた営業マンは若い男性だった。
好感の持てる対応で、端から打ち解けて何でも話せた。また、こちらの予算とか、移住して何をやりたいのか、広さはどのくらい必要なのか等々、具体的に私たちが求めている住まいの形を上手に聞き出してくれた。実は、これが今までありそうでなかった。

結局、この日、彼に2軒案内してもらうことになったのだが、やはりこれだという古民家には出会わなかった。

別れしな「いい物件があったらご連絡します」と彼が言った。
不動産営業マンの常套句とまではいかないが、たまに聞くフレーズではある。しかし、これまで、そのようなことはないに等しいことだった。 

ところが、それから1か月近く経った頃、あったのだ。その彼からの連絡が。