峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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家族旅行 その2

2011年04月15日 | 家族

鹿児島へ向かう車中、それはそれはにぎやかだった。有紀さんのリードで、子供たちがまだあどけなかった頃のようにクイズやゲームに興じた。
かつて、家族そろって車で出かける際、よく「しりとり」遊びをした。この日も、やはり「しりとりしよう」ということになった。ただし、難しい言葉を用いることが条件付けられた。私と女房どのがそれとも言えないような言葉を挙げると子供たちに異議を唱えられた。
子供は子供であっても、もはやかつての子供たちとは違う、すでに個を確立させた子供たちと、こうして新たな楽しいひと時を過ごせる喜びを感じていた。

九州自動車道が切り裂く山間の所々には淡いピンク色の塊が点々としていた。山桜だ。
午前9時、鹿児島到着。先ず大学に行き、入学手続きを済ませる。次に住まいを決めるため大学生協へ向かった。
アルバイト学生の案内で物件を見に行くのだが、2台のタクシーを連ねるのにはいささか驚いた。部屋をめぐるたびにメーターが上がる。なるほど、客には早く決めなければというプレッシャーがおのずと掛かる。それに、タクシーだと駐車の心配も要らないし、アルバイト生が運転することによる事故のリスクを避けることもできる。また、この時期だけなのだから自前の車をそろえるよりはるかに安上がりだ。一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもなっている。

案内は1度に2件までとなっていたが、最初の2件は私たち4人そろって気に入るものではなかった。2件の中から選ばなければならないというものではないのだが、不思議なことにそのことを伝えるのに勇気を必要とした。もう1度大学に戻り新たな2件を選ぶこととなった。

選び直す際、新築であることを私が提案した。気が滅入るような日もあるだろう。そんな時、帰る部屋が明るければ、いくらか救われもしよう。
幸いにも新築の物件が1件だけあった。再び、タクシー2台に分乗し、目的の部屋に向かった。みなが得心の行く物件だった。それから大学に戻り、契約を取り交わす運びになったが、それ以外にあれやこれやと売り込む生協の商魂のたくましさにはいささかうんざりさせられた。(続く)


話し合う

2011年04月14日 | 町内会長

昨日、新年度第1回目の町内会長会等が開かれ出席した。
会議に先立ち、正午から22年度の保健環境自治連合会の会計監査に立ち会う。昼食をはさみ、午後1時半からの役員会に出席、この日の審議事項について打ち合わせを行う。午後2時から町内会長連絡協議会に出席。役員改選が行われ、引き続き副会長職を引き受けることになる。午後4時から保健環境自治連合会総会に出席、一部事業の見直し等提案する。午後4時から町内会長会に出席、新しい緊急連絡システム事業計画の破綻に関し、執行及び議会の責任を指摘し、その後の状況を質す。

すべての会議が終了したのが午後5時半だった。
今回は、会議終了後の懇親会を自粛することにしていたが、被災地の方々からの過剰な自粛が2次災害につながっているとの声を受け、会長・副会長で相談し、急きょ開くことを決定、事前に手分けして各町内会長さんに連絡しておいた。

懇親会の会場は役場から近い古川集会所を充てた。ビール・日本酒・焼酎にオードブルと助六、それに連絡協議会会長奥様特製の「おでん」。
会費は2千円出しだったが、見込みより参加者が多く、すべての費用を差し引いた残金1万円強を東日本大震災の義援金に当てた。

その後、2次会、3次会とお付き合いした。みなさんと町の在り方について延々と意見を交換し、帰宅したのは監査に立ち会ってから12時間後の深夜12時近くだった。


家族旅行

2011年04月13日 | 家族

先月25日、くるみさんの入学手続きと彼女の新しい住まいを決めるために鹿児島へ向かった。
当初、町内会の総会を始め、年度末で片付けなければならない事柄を多く抱えていた私は同行する予定ではなかった。折りしも九州新幹線博多・鹿児島間が全線開通したばかりで、くるみさんと女房どのは、それを利用するのを楽しみにしていた。
ところが、春休み中の有紀さんも一緒に行くということになり、結局、それではみんなで車で行こうというように話がまとまった。

子供たちが幼かった頃、家族でよく出かけた。平戸の先の大島までドライブした時、帰りのフェーリーに乗ることができず、5人で車中1泊したことなどを懐かしく思い出す。
もはや、5人だけで出かけることはない。絵理子さんには新しい家族ができた。そういえば、先週、絵理子さん一家は沖縄へ旅行したという。天使は水を怖がることなくプールで遊んだらしい。

絵理子さんだけではない。有紀さんもくるみさんも、すでに私たち親元を離れ生活し始めて久しい。4人そろって旅行することも、もうないかもしれないとの思いは皆同じだった。

早朝4時、我が家を出発した。すぐ近くの中里インターチェンジから西九州自動車道にのり、長崎自動車道・九州自動車道と乗り継ぎ一路鹿児島へと向かう。途中、何度かSAに寄り、そのうちの1つで朝食をとった。(続く)


日曜日

2011年04月12日 | 夫婦

今朝も裏庭から「ケキョ・ケキョ・ケキョ」とウグイスの春を謳歌するさえずりが絶え間なく聞こえてくる。
日曜日、満開の桜とモクレンに誘われ、昼食を女房どのと2人、裏庭でとった。
みぃちゃんもやって来て、シートにもぐりこんだりして遊んでいたが、たしなめると奥のベンチで横になり、のどかな春の日のひと時、春を謳歌する桜木とモクレン、そしてそのおこぼれにあずかる私たちと共に過ごした。

この日は県議選の投票日だった。
今回も、この候補者にと積極的に1票を投ずる候補者が見つからず困った。しかし、選挙権を放棄するわけにはいかない。
おそらくは、これまで参政権を行使するのに熱心だったのは、特定の組織や地域の利益のみを追求する人々だったのだろう。そして、そのことが私たちの社会を少なくとも好ましいとはいえない状況に追い込む元となった。
それでは、その責任は彼らだけにあるのだろうか。そうではないだろう。主体的に参政権を行使しなかった人々にもその責任は同様にある。選挙権を行使しないということは彼らに加担するに等しい。その意味で、主体的に1票を投ずるのは市民としての権利であり義務でもあろう。

昼食後、投票所に行く直前まで選挙公報とにらめっこしていたが、消極的選択ながらも候補者を絞り込み、女房どのと連れ立って投票所に出かけた。
投票を済ませたその足で、「佐々町少年少女合唱団」の定期演奏会が行われる佐々町文化会館へと向かった。
塾生の中に合唱団に所属している子がいる。また、合唱団の指導者のお一人のお父上と懇意にさせていただいている。そして、そのことがご縁で、年に1度の町内会の敬老祝賀会に合唱団に来ていただき、その美しくも可憐な歌声を披露していただいている。そんなご縁から今回ご招待をいただき、初めて定期演奏会場に足を運んだ。

「佐々町少年少女合唱団」は昨年、広島で開催された少年少女合唱際全国大会への出場を果たしている。想像していたものよりはるかに完成度の高い舞台だった。
特に第3部のミュージカル「折り鶴」は、広島に投下された原子爆弾によって被爆した佐々木禎子さんの生涯を描きながら命と平和をテーマにした作品だったが、脚本・演出共に団員自らの手によるもので、素晴しい出来だった。

いい舞台を見た余韻に浸ったまま、佐々町の牟田原高原という山のてっぺんにある北村製茶さんに向かった。
ここのお茶は有機無農薬で栽培されており、いつもは市販されているものを購入しているのだが、年に数度、気が向いたときに女房どのとドライブがてら直に求めに行く。
この日も、ご主人と、その地を開墾されたお父上におもてなしをいただき、ひとしきりおしゃべりをした後、山を降りた。


それぞれの道

2011年04月10日 | 父親と子

昨朝、目が覚めてハッとした。たしか、一昨日のブログに「罪と罰」の著者を「トルストイ」と記したのではとの思いが何故だか急に膨らみ、眠気が吹き飛んだ。床を抜け出し、すぐにブログを開くと案の定そう記していた。

こんなふうに冷や汗をかくことが日常しばしばある。そもそも私のようなものがブログを記すこと自体、冷や汗ものなのだが。

有紀さんが帰省して間もなく、くるみさんが絵理子さん・研二くん宅から帰ってきた。そのくるみさんがたまたま読んでいたのがその「トルストイ」の「人生論」だった。

ドストエフスキーとトルストイ、期せずして19世紀のロシア文学を代表する 2人の文豪の作品を有紀さんとくるみさんが読んでいたことが彼女らには失礼だが、私にとっては軽い驚きであり、また、ある種の感動であり、感慨へとつながり、そして、そのことが粗忽者を誤らせた。

くるみさんがトルストイの「人生論」を読むきっかけになったのは、高校時代の友人の薦めだった。
読み始めは難解に感じたが、読み進むうちに面白くなっていったという。

有紀さんと、くるみさん、2人が着実にそれぞれの人生を歩んでいる。


読書

2011年04月08日 | 父親と子

3月の中旬、大学が春休み中の有紀さんが数日間、帰省していた。
我が家の子供たちは、みな本を友としているが、中でも有紀さんの読書量はきわだっている。帰省すると、有紀さんからのリクエストに応え必ず女房どのが書店から本を数冊購入してくる。家にいるとき、有紀さんはそれをずっと読んでいる。

そんな有紀さんが、どんな本を読んでいるのかほとんど知らなかったのだが、ある時、読みかけの文庫本のタイトルが目に留まった。ドストエフスキーの「罪と罰」だった。驚かされた。若い作家のものばかりを読んでいると思っていた。

かつて読んだときはなかなか頭に入って来ず途中で挫折したそうだ。だが、今回はスッと入ってきたという。私の知らないところで有紀さんが成長している。


心の思うがままに

2011年04月05日 | 父親と子

先月の21日、A大学の後期入試の合格発表があり、くるみさんは理学部生命化学科に合格した。
彼女が願書を提出した後も、後期の受験先を知らなかったのだが、2,3日前、なぜA大学だったのかと尋ねたところ、「理学部」で「生命化学科」のあるところで「A判定」で「個別試験のないところ」という条件にかなうのが同大学だったということだった。

前期、くるみさんが受験したB大学医学科の昨年度の合格者に占める既卒者の割合は8割を超えている。そんなことから、来年再チャレンジするのではとみる向きもあったようだし今もあるが、くるみさんに医学科進学への執着は見られない。
同じように大学に対するこだわりもまったく感じられない。たまたま担任のパソコンの画面に「A大学理学部生命化学科」の文字を見つけたことから同大学への進学が決まった。

長女・次女同様、くるみさんとも特に高校生の頃からいろいろなことを話し合ってきた。進路に関しては、いつもその時々で心の思うままに進んだらいいと言ってきた。
人は同時に2つの道は歩めない。岐路に立てば、右か左かいずれかの道を選ばねばならない。先のことは誰も分からない。ならば、その時その時の心の思うがままに進んだらいい。そう言ってきた。

くるみさんは高校入学当初、薬学か理学における研究者の道を考えていた。しかし、周囲の進めもあり、人と係わりあうほうが自分に向いているのではと思うに至り臨床家、中でも地域医療に携わる道を目指した。彼女が高校3年生になってから、寮の彼女の部屋を訪ねたことがあったが、部屋の壁には「医者になる」と大きく書かれた書が貼ってあった。

それほどの思いでくるみさんは、おおよそこの2年間を過ごしてきた。だから、まったく臨床家に対するこだわりが消えたというわけではないだろう。しかし、「今」の彼女の心は研究者への道を選んだ。
その道を進む途中でもし、彼女の目の前に岐路が現れ、その時、臨床家への思いが膨らめば、そこからその道を歩めばいい。今は、そう話している。くるみさんも、もし、進路変更することがあるとすれば、それはどうしても医者になりたいという思いを抑えきれなくなったときだろうと話している。

前期の発表が済んだ後も、くるみさんの様子にほとんど変化はなかった。「お姉ちゃん(くるみさんと有紀さんは、長女の絵理子さんをこう呼ぶ。ちなみに次女の有紀さんをくるみさんは有紀姉ちゃんと呼ぶ)」一家の所へ泊まりに行ったり、中学生時代の友だちと遊んだり、高校時代の友だちに会うために大村まで出かけたりしていた。また、後期はセンター試験の得点だけで合否が決まるので受験勉強をする必要はなかったが、それとは異なる英語・化学・生物・数学等の勉強も続けていた。


もう少し

2011年04月03日 | 町内会長

その時々に感じ・思い・考えたことを時の流れの順に記していこうと思っているのだが、時にはそれらが醸成してくるのをぼおっとして待っていたり、時には処理しなければならない事柄の多さにかまけたりしていて、それがなかなか追いつかない。。

昨日は月に1度の町内会清掃の日、朝7時にそれを有線放送で告げることから始まり、担当班の集会所の清掃作業が終了するのを確認し戸締りをして帰宅する頃には時計の針はすでに8時半を回っていた。
帰宅してブログを開き書き始めたのだが、この日は10時からのお隣の町内会の神社の例大祭に出席する予定があって、間もなくその準備にかからなければならない時刻となりやむを得ずブログを中断した。
しばしばこんなことがあり歯がゆい思いをするのだが、私のような頭の回転の遅い者はいたしかたないと受け止めるしかない。

例大祭の後の「なおらい」は午後2時頃まで続き、居合わせたみなさんといつものようにまちづくりのことを中心にいろいろと意見を交換させていただいた。

帰宅すると、それまでの緊張感が失せ一気に酔いが回ったようだった。
外で気を遣っている分、どうしても家の中でその反動が出てしまう。そのとばっちりを女房どのがいつも食わせられる。最も気を遣うべき対象は家族だと承知しているのに、それができない自身の未熟さに苦しんでいる。私は自業自得なのだから大いに苦しめばいいのだが、気の毒なのが女房どのだ。申し訳ないと心の中で手を合わせ謝るだけで済まされるものではない。
なんとしてもこれを乗り越えなければならない。そのためには、私自身がもう少しマシな人間になるよう努める他ない。

お隣の町内会の集会所を出てからの記憶がなかった。目を覚ますと、自宅のコタツで寝ていた。すでに夕方になっている。この日は、午後7時から臨時の班長会を開くことにしていた。目覚めた後、ややあってそのことに気付き、急いで準備にとりかかった。

班長会は午後7時から8時半までかかった。
新年度にあたり町内会の運営方針を述べ、役員・班長のみなさんのご理解とご協力を願い、1年間の行事・活動を推進していく柱となる各部への所属を決めていただいた。それぞれ仕事を持たれたり、事情がおありになる中、難しい役を始めとしてどなたもが気持ちよく引き受けてくださった。

なんだか言い訳じみた記述に終始してしまった。