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大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマン!第3章!2017-11

2017-11-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!

シリーズ第3章:「古墳時代には、既に里人が住んでいた

石和松本郷の積石古墳鞍掛塚と山神宮」を紹介します!

大蔵経寺山標高715.6mは、往古は「靑獅子山」とも呼ばれた!

獅子が蹲踞(そんこ=うずくまる)しているような山容は・・・、

大蔵経寺山西南麓の天狗山から松本郷の歴史を見つめて聳えていた!

この写真で見る大蔵経寺山への登頂路は、山麓の写真右下部に鎮守の森

見えるところに「山神宮・前宮」があり、そこから登山道が始まる。

ほぼ東南側の尾根に沿って頂上手前に見える濃い針葉樹の辺りに「山神宮」

が祀られ、その直ぐ上部には「積石古墳鞍掛塚」が見つかっている!

特に大蔵経寺山南麓の石和松本(松本郷)から甲府市桜井と横根にかけて

は、古墳時代3世紀~7世紀)の多くの古墳・遺蹟等が発掘されている。

大蔵経寺山の南西山中にも、古墳時代の「積石古墳鞍掛塚」があった!

山梨県文化財発掘調査報告書より抜粋の「大蔵経寺山南麓の古墳群」

注)笛吹市の文化財専門家の作図された調査MAPを抜粋複写したもの。

地図内番号に基づいて主な古墳・遺蹟の名称を記した他、見えにくいが

NO表示があるところは、全て古墳と遺蹟(址)が発掘されたところだ。

もし、IT検索慣れしている方なら、アーカーブを閲覧して下さい。

報告書には一覧表もあって、確認出来るだけで甲府市NO126「横根

桜井積石塚古墳群(古墳時代)」から、NO156「亀田遺蹟」、

NO157「北田遺蹟」、NO158「久保田遺蹟」なども続く・・・。

時代考証は、古墳、奈良、平安、中世、近世の遺蹟が発掘されている。

笛吹市石和町ではここで紹介するNO3「積石古墳鞍掛塚」古墳時代から

NO9「小石田遺蹟」古墳、奈良、平安時代、NO10「畦作遺蹟」

縄文、奈良、平安時代の遺石が数多く発掘されている。

石和町では、特にNO1「清水遺蹟」平安時代~NO61「石和陣屋跡」

近世に至るまでの古墳や遺蹟が61箇所も発掘されているので凄い処だ! 


JR石和温泉駅の新開通した北口から大蔵経寺に向かって歩き・・・、

「国道雁坂みち」へ出ると・・・、正面に大蔵経寺が見えますが・・・、

今回は、雁坂みちを甲府方面へ歩くと「山神宮入口」の信号があるので

そこを横断すると、突き当たりに山神社がある。

あたりは遺蹟の気配はないが、認識して歩く小石田古墳址(現在は

住宅とぶどう園)があった処だが、昔の雰囲気は想像しながら歩く・・・。

注)古墳時代は、弥生時代に続きヤマト政権になって倭国が成立して

いった時代。3世紀~7世紀と云われる古代の里が此処にあったのです。 


信号「山神宮入口」を右に渡る  山神宮前宮(里人の鎮守)

 

山神宮境内の解説版には、次のように紹介されている。

当社は、松本山岸組小物成山字三斗六升の天狗山山央に鎮座する社で、

山神宮(俗称:お天狗さん)と称し、祭神は大山祇命を祝祭し御神体に

御鏡を置く。

安永元年(1772年)に作られた御玉串も保存されていて、火伏の神

家運繁盛の神として広く信仰を集めている。

合祀として□□守護神月読尊、稚産霊命、宇気母智命を祝祭、養蚕守護

として山神宮社とともに祈願者が多い。

弘化二年(1845)3月13日、新祇官統領伯王(公文所)より、

正一位山神宮として奉遷され、天狗の面一面(作者無名)がある。

本殿は、明治12年(1879)4月に再建されたものである。

拝殿に向かう参道は急峻で屈曲激しく、拝殿前の百段余りの階段を登る。

参詣者に霊験自ら灼さを感じさせる。

当社の祭典は当組21戸の鎮守であるところから、古くから21日を祭日

と定め、年のうち2月21日と8月21日の二度の祭典を執行している。

祭典には県内外より参詣者が集まり、国中地方の大祭の一つになっている。

石和町(現笛吹市)と掲げられている。 


「山神宮」の石鳥居を通り、登山道(参道)を登り神殿へ向かう!

歩行時間は、ゆっくり歩きで・・・次のとおり。

標準コースタイムは、上り約1時間半、下り約1時間半。

石和温泉駅前発~(約5分)~山神宮前宮~(約20分)~山神宮石段

~(約10分)~山神宮奥宮~(約15分)~積石古墳鞍掛塚~山頂へ

※積石塚を見ながら、この辺りからは登山道を再確認しながら登るので、

参考までに筆者の場合は積石塚~(約45分)~大蔵経寺山頂着だった。

注)登山記録とマルバマルダモについては・・・

45)古代ロマンの足跡と自然が移ろいを訪ねる”大蔵経寺山”2013-05

http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/7a58c5b7d9d64acfaa3e221068cced32

注)まだ、この頃は、歴史ロマンは調査が始まった頃で、家内同伴で軽い

登山を楽しんだ記録で終わったような気がします。

先ず遊び方と楽しみを方を探すことも大事なレクリエーションの秘訣です。


赤鳥居」迄来ると、これより「山神宮」の神域の雰囲気がある!

 

写真で見るとおり参道は、まさに登山道のつもりがベター・・・!


いよいよ急峻な百段余りの石段を登ると神殿が見えて来る・・・!

 

この石段(数えた人は160段と云う)を仰ぐと、霊験新たかな

山神宮の神殿の境地が、より厳かに迎えてくれる境地に!

あとひと登りだ!登山道好きの人は石段より登山道を歩き石灯籠を目指す。


「山神宮」の拝殿          「山神宮」神殿

 

神殿に祀る祭神は、祭神月読尊(ツクヨミの神=月夜見の神)で、

月の神とも云う。穀物の起源とも云われ、夜見の国を治めた神。

稚産霊命(ワクムスビの神)は、穀物の生育を司る神、

宇気母智命(保食神=うけもちのかみ)日本書記第11の1章に載る神。

合祀の神は古代より食物起源の神話で五穀、養蚕の神として信仰される。

他の食物の神と合祀されることが多い伝説の神である。※YS調べ


 新緑の季節に、山中には優しい「マルバアオダモ」の花が咲く

 

閑話休題:大蔵経寺山中に咲く「マルバアオダモ」は、

以前登った時に調べて知った優しい樹木花で、ASK.COMによると、

マルバアオダモ(丸葉靑ダモ、学名:Fraxinus seiboldiana)

モクセイ科トネリコ属の落葉高木とある。別名:ホソバアオダモ、

トサトアオダモ、コガネアオダモ、コゲナアオダモとも云う。

幹の高さは5~15m。花期は4~5月。白色の四弁花を蜜に咲かせる。

花弁は6~7mm.果実は長さ2~2.7mmの翼果となる。

大蔵経寺に相応しい佛の樹花だ!石和町誌の植物解説にも名が見える。


  「山神宮」周辺と中腹辺りに広範囲に咲く「マルバアオダモ」の花!

数年前、大蔵経寺山へ登山した時、家内に撮ってもらった写真だが、

この時には・・・、まだ、知らないことがたくさんあった!

大蔵経寺山の頂上に古城(新城)があったとか・・・!?

行基上人ゆかりの旧蹟「彌勒平」が山腹「御室山」にあったことなども。

また、御室山の頂上に「旧蹟物部宮」があったことなどを再度踏査して、

いろいろと古代甲斐国の歴史が眠っていることを知り始めたものです。 


笛吹市文化財調査報告書 第26集の報告書抄録によると

「大蔵教寺前に広がる寺の古墳群を主とした調査。

5世紀後半~7世紀代の低墳丘墓の円墳(1~4号墳)高塚系古墳の円墳

(2.3.5号墳)の他、古墳時代、平安末の竪穴住居が検出された。

・・・云々と報告されるように、大蔵経寺周辺は、往古、即ち古墳時代

の5世紀後半~7世紀の遺蹟が多く出て居るので、現在、調査解析中の

「雄略天皇の御代、倭国の東端にあった古代甲斐国の覇権統治のために

遣わされた物部一族が大蔵経寺山南麓に、5世紀後半に本拠地(館)を

構えたのは現大蔵経寺境内辺りではなかったかと推定する時代と一致す。

古代甲斐国の覇権・統治のための本拠地を置いたところはこの辺り!?

その館址が後の大蔵経寺が中興された場所ではないかと、途方もない

想定をして調べています。

現在は、あくまで私的な自習NOTEでまとめていますが、往古からの

未解の伝説も繋げながら調べる必要もあるため、永劫の宿題になること

も覚悟して、大蔵経寺現住職と副住職に楽しい教えを乞いながら調査を

続けています。

山中の旧蹟踏査も重ねてるうちに、何時の日か解明できるのではないか

と願って生涯学習を楽しんでいます。 


「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマン」シリーズを

   第4章以降も引き続きご笑覧あれ!

次号12月号は、発信時期未定ですが「大蔵経寺山山中、御室山に

あったと云う行基上人ゆかりの旧蹟彌勒堂跡、旧蹟物部宮を再踏査した後、

発信することになる予定です。乞うご期待!


 



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