新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲州・塩山・千野を辿る③往古、千野郷の高台は、現東京の成城学園の台地(地形)と似ていた!?21-09

2021-09-01 | 山梨、里山の美しい四季!

塩山・千野・・・、懐かしく、シックな古道と町並み・・・!

今号は、移住して以来、学習した自習NOTEにより、

「美しい千野」の"今"を紹介します!

この学習NOTEは山梨県図書館、塩山市史、千野郷

研究家が残された文献等、多くの方々のえと、

協力を得てNOTEしたものを一部抜粋して紹介します。


「千野」は、”高台地に映える美しい風景”・・・!

息吹く「スモモ」の花の向こう高台に、自然豊かな千野の里!

「千野」は、東京で云えば成城学園のような地形にある閑静な住宅地。


「千野」には”台地にある長閑な住宅風景”がある・・・!

写真西(右)に塩ノ山、東(左)に東山連峰、南に勝沼ぶどうの丘、南に

御坂山塊、その向こうに富士山を臨む!


「千野」・・・、青梅街道や陣屋街道が通った!

「千野村」は「千野千石」とも称して、江戸時代は地域最大の村であった。

中世、甲斐守護第11代武田信成~第12代武田信春が千野に館を遷した。

信虎・信玄時代に「甲斐九筋」として整備され、甲府(酒折)を起点に荻原

として軍事用の関所が置かれ、江戸時代、江戸城を起点して甲州裏

街道として「青梅街道」が整備されたことは周知の通りです。

「陣屋街道」は、筆者の考察によると「千野館」が構えられた時代より・・・、

武田家中興のため、「三日市場」より「千野館」を結ぶ兵糧と財政を賄う

軍用路であったのではないかと考察しています。

注)甲斐国志、塩山市史には、武田・江戸時代「十組屋敷」のあった三日市場を起点に、千野、玉宮

方面へ通じる道を「陣屋街道」と呼んでいたとされるが・・・、甲斐源氏研究家の平山優氏も「千野館」

との関係を述べているが、筆者も同感の至りです。


 「千野村」は、上於曽の北にあり、塩ノ山の北、恵林寺の南東に当たる。

重川の右岸に沿う。青梅往還が上於曽から当村の東部を北進して、

重川に架かる千野橋を渡ると対岸は、上粟生野(かみあおの)村・・・。

地名は”茅野に因む”と云う(甲斐国志)。注)大日本地名辞典による。

江戸時代文化元年(1804)、家数203、人数683人(甲斐国志)であったが、

現在(令和2年11月1日調査統計)、甲州市行政区(千野上、千野下)の合計は、

世帯数549、人口1268と約2倍になっている。注)外国人計6名含む。


甲斐守護第11代武田信成は、「塩山向嶽寺」開基で有名だが・・・、

嫡子武田信春と共に武田氏の本拠地を「千野館」へ遷した功績は大きい。

要約すると「第11代武田信成は一度も敗戦がなく、現笛吹市内の赤甲城

を本拠とするも、甲斐国内平定のため、諏訪に出陣中、赤甲城が落城、

”館”を焼失した後、中興の地は峡東の金鉱(後の黒川金山)開発を考慮

して「武田館」を「千野郷」へ遷した。

現在、地元では「信春館」跡として紹介。それが伝承である。

武田信成公は「千野館」で嫡子信春の元で逝去したが、千野館の北西に

「継統院」殿として祀られていたが・・・、あの”信玄”が「乾徳山恵林寺」を

菩提寺に定める時、信玄が「高祖」として崇めた二人、もう一人は信縄公

であったことが分かった。千野から恵林寺塔頭「継統院」へ遷したのだ!

往古”信玄”は名僧快川国師を恵林寺へ三顧の礼で迎える時、「継統院」

「長興院」の塔頭二軒を兼務させてまで崇めた信成公の「継統院」跡、

そして聖徳寺から位牌「長興院」殿浮山建邦と共に恵林寺塔頭に遷すと

あるが・・・、今はない。(恵林寺略史及び聖徳寺解説)

但し、信玄の死後、勝頼公は「長興院」を(元の現山梨市聖徳寺)に戻し、

信虎公を祀る塔頭「長光院」としたと云う。(恵林寺解説)

注)現在、恵林寺境内には「長光院」跡の石碑のみ”建つ”。

恵林寺も幾度か再建の歴史があり、明治の再興で不動産が売却された

ため・・・、今は跡形もなく(畑地)、地元では忘れられてしまっている。

武田氏代々でも「武田信成」のことが何故忘れられているのか!?

しかも信成公は「大蔵経寺」、「塩山向嶽寺」の開基として名が残るのに!

筆者は、実質的な甲斐国中興の祖と考察しているのだが・・・。

注)安芸国から甲斐国には一度も帰国していない武田氏第10代信武公が武田家「中興の祖」と!?


注)「千野」の「飛大神社」と臨済宗向嶽寺派の慈徳院他、昌寿院、応量寺、新省寺、

廃能智院、廃永念寺、廃常光院等があるが、本ブログ文字制限の関係で省略します。


往古、信成公と信春公が構えた「千野館」が信春公死後遺命で「慈徳院」となる!


信春公の遺命で「慈徳庵」を臨済宗向嶽寺の末寺として「慈徳院」を創建!

 


千野「慈徳院」は武田信春の館跡。応永20年(1413)に没した信春の遺命

により寺を建立し、「慈徳院」としたことに始まると云う。

信春公を埋葬したという石塔があった。(甲斐国志)

往古の「千野郷」は、現千野(塩山千野)付近に比定されている。


塩山千野の中心地、「武田信春館跡」は遺命で臨済宗向嶽寺派「慈徳院」。

千野字八桑田(はちかだ)に甲斐国第12代守護武田信春の館跡がある。

脇に国道(旧青梅街道)が走る。現在、武田信春の館跡は臨済宗向嶽寺

派「慈徳院」として現存する。

「信春公」は父「信成公」と共に現笛吹市赤甲城跡から千野に武田氏の

本拠を遷し、応永元年(1394)に没した父信成(法号は継統院)から甲斐

守護を継承して、同20年2月の乱によって千野館が陥落。萩原山柳沢に

築いたが、同年10月23日死去した(甲斐国志)。

「慈徳院」の境内主郭部は東西100m、南北約147mの長方形を呈し、

周囲に水路を巡らせている。注)北側の「荒井割」跡は今は綺麗な李の花

が咲く畑に変わるも、千野の有志により石標が残されている。

千矢の堀、内堀、鹿子屋敷、女中屋敷、千貫堀、馬場、橋立、馬渡り等、

平城跡を示す石標は有り難い。

遺構の残存状態は良くないが、北東隅には土塁の痕跡が残ると記される。

「千野」台地は、太古から人々が住みやすい台地として見られていたと

思われ、「獅子之前遺跡」と称して、重川右岸の河岸段丘(現国道411号

(青梅街道))に、縄文時代と平安時代の集落跡が発掘され、塩山市内

では、縄文遺跡は初めてと云われた。

現代の不動産立地で云うと「千野」は往古から見定められていて、優良な

住宅地として「東京の現成城学園の地形に似ている」と評価できる。


具に紹介すると、本ブログ制限には無理なので、千野の中心「千野館跡」

周辺と、「千野」の概要のみを主に紹介しました。