新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

やまなしの花が咲く山梨市を辿る①山梨駅前の街づくりは美しい!2022-08

2022-08-01 | 山梨、秘めた魅力の再発見!

山梨市駅前には、全国でも珍しく、統一された建築

デザインが美しい!そして純白の”やまなし”の花が

咲く・・・!今号は、先に紹介した甲州市の西隣に

位置する美しい街並みの山梨市を紹介します。

山梨市駅前、”西沢渓谷”行きのバス停に、春”やまなし”の花が迎えてくれる。


山梨市は山梨県のほぼ中央部、甲府盆地の北東に位置し、北は東山梨

郡牧丘町、東は塩山市(現甲州市塩山)東山梨郡勝沼町、西から北西

にかけては、東山梨郡春日居町と甲府市、南は笛吹川の支流日川を挟

で東八代郡一宮町。中央部を笛吹川・重川が北東から南西へ流れる。

この三川が合流して笛吹川本流となり、甲府盆地を南西流する。

南北8.5km、東西10.8kmで、標高差は1123m。

笛吹川とほぼ並行して国道140号線(通称:雁坂道)、山梨市南端

を国道140号線がかすめる。東西にJR中央本線が通り、山梨市内に、

東山梨駅、山梨市駅が設けられている。市名は昭和29年(1954)、

三町、五ケ村が合併した際、古代以来の郡名を採用した。


モダン建築デザインの「山梨市役所」庁舎。

元民間の上場会社のモダンな建築ビルを買収。現山梨市役所に利用。

山梨市役所広報より写真を使用。


山梨県の地名辞典:山梨市編によると・・・、

山梨市は、歴史資源こそ古いが、モダンで美しい街並みである!

【原始・古代】は、昭和36年であるが、江曽原字ヤナ崎の兄川の

河床からナウマンゾウの化石が発見されている。

放射性同位炭素によると3万~4万年前とも測定され、大型獣を

追う人々が生活した可能性が指摘されている。

縄文時代の遺跡は、20ケ所を数える。

遺跡は七日市場、下石森、および兄川、窪川(弟川)流域に集中し

おり、中期に属するものが多い。

【奈良・平安時代】遺跡は60ケ所を越え、ほぼ全域に集落が拡散

した状況(小原東、八日市場の日下部遺跡)を呈している。

【律令時代】山梨郡に属し、「和妙抄」は、山梨村を東西に分け、

諸説あるも、山梨市は、山梨西郡に属したとみられる。

【中世】平安末期に、東郡一帯に勢力を伸ばしたのは、牧の庄を

拠点とした安田義定(昔、源義経のファンであった筆者)である。

※バックナンバーになるが、2018.09.01①~2019

「安田義定ゆかりの甲斐国「牧の庄」を辿る」と云うタイトルの

①~⑯、シリーズで深堀紹介しているので、ご笑覧ください。

下井尻の「雲光寺」には、安田一族の墓とされる五輪塔がある。

※鎌倉時代、牧の庄の領主は二階堂道蘊の招きにより、夢想国師

が、現甲州市塩山に乾徳山恵林寺を(1330)開山したと云う。

西後屋敷の清白寺も夢想国師開山としている。

【近世】山梨市域は東山梨郡に属した。

山梨の村は、落合、岩手、下石森、笛吹川を境に、西は万力筋、

東は栗原筋に所属、慶長古高帳では25ケ村。宝暦6年(1756)

版の三村高帳では、万力筋14ケ村、栗原筋16ケ村の計30ケ村

で構成された。・・・。

享保9年(1724)、柳沢吉保、吉里親子が、大和郡山に国替え

を命じられ、甲斐国一国は幕府領となり、石和代官支配となった。

延享3年(1746)、三卿の田安家領3万石が山梨県、八代郡に

設定され、市域の村からは、落合、岩手、下石森、上石森、中、

歌田、一丁田中、大野、上神内川、小原西分、小原東分、西後屋敷、

東後屋敷、上栗原の15ケ村八千200石余りが編入された。

一丁田中に、田安家の陣屋が置かれた。

宝暦12年には、三卿の清水家領が設定され、上岩下、正徳寺、

山根、上万力、八幡南、八幡北、市川、江曽原、大工、堀内、

七日市場の11ケ村六千石余りが編入された。


享保9年~宝暦3年まで在籍した甲府勤番野沢成方は、「裏見寒話」

のなかで、この地方の名産として、八幡の藺畳表、東都の枝柿、

栗原、勝沼の葡萄、切差の牛蒡、笛吹川の鮎などをあげている。

【近現代】明治2年甲府県となった。明治4年山梨県に統合された。

明治5年大切小切税法廃止法案反対を要求して、万力筋、栗原筋から約6千人

が立ち上がるという大小切騒動が起きている。明治7年、石森村、後屋敷村

が成立。明治8年1月八幡村、平等(ひらしな)村、神内川(かのがわ)村、

明治8年2月日下部(くさかべ)村、明治8年6月日川(ひかわ)村が成立。

明治8年7月には、神内川村、石森村、大野村が合併し、加納岩村となる。

明治11年郡区町村編成法により山梨郡は東西に分割され、現市域の村は、

東山梨郡に属した。郡役所は、平等村に置かれた。

明治22年平等村、上万力村、八幡村、岩手村が組合村を結成している。

昭和7年7月加納岩村、明治7年12月日下部村が、それぞれ町制を施行。

昭和16年平等村、上万力村が合併し、山梨村となる。

昭和29年加納岩町、日下部町、山梨村、岩手村、八幡村、後屋敷村、日川村

が合併し、「山梨市」が成立した。

明治9年1月市域の戸数は2984戸、人口は1万4518人。往時は、7割

~9割が農家で、生糸、繭などを作っていた。特に平等村の場合、その95%

、370戸で養蚕業を営んでいた。・・・。

明治36年、国鉄(現JR)中央本線甲府~八王子間が開通。日下部駅が設置さる。

その駅名が、昭和37年に改称された現在の「山梨市駅」である。

東山梨郡誌によると、大正2年の年間乗降客数は、239498人であった。

また、昭和32年には、現東山梨駅が開業している。

明治40年8月には大水害があり、主に日川が被害にあっている。

明治43年には集中豪雨があり、被害が重なっている。

市域の農業の中核をなす養蚕業は、昭和初期に最も発展を遂げたが、第二次

世界大戦中に一時衰退した。昭和26年頃からようやく立ち直ったが、

その頃から化学繊維の普及などにより、代わって葡萄、桃、李等の果物栽培

が昭和35年頃から盛んになる。

平成3年~9年、笛吹川フルーツ公園プロジェクトに取り組み完成している。

筆者も訪ねたことがあるが、甲府盆地の南に、御坂山塊と富士山が望め、

富士屋ホテルもあり、日帰り温泉を楽しみ、笛吹川フルーツパークは、一日

楽しめる公園だと思うので、一度は、訪ねてほしい山梨の魅力です・・・!


 



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