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古代甲斐国の歴史ロマン第4章御室山にあった旧蹟物部宮! 17-12

2017-12-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

古代甲斐国の歴史は、御室山旧蹟物部宮から始ったとも云える!

現松本山大蔵経寺辺りに物部氏一族の館址があったとすると・・・、

御室山々頂にあったと云う旧蹟物部宮はその伝説の論拠となる!

松本山大蔵経寺蓬莱庭園の縁側に座って目を瞑ると古代歴史ロマンが甦る!


大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!

今号:第4章は、御室山にあった古代旧蹟物部宮を紹介します!

この松本山大蔵経寺は、古代より背後の大蔵経寺山とともにある・・・!

実は、大蔵経寺山(標高715.6m)の尾根筋に御室山頂もあるのです・・・!

5世紀(推定)雄略天皇の御代、古代倭国形成の時代、東端甲斐国の覇権統治

ため、都より遣わされた物部氏一族はその本拠地を大蔵経寺山南麓(現・

松本山大蔵経寺辺り)に構えたと推定している。(詳細は序章、第2章)

2017年9月号: 「大蔵経寺山南麓に始まった古代甲斐国の歴史ロマンを辿る」

 序章:http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/b1162724eacffe908b4e2dd32483dfa1

2017年10月号「古代甲斐国の歴史ロマンが始まった!第2章大蔵経寺山編」

http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/536c0cf94ca8e0f87ae380b684aa1278

2017年11月号:「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマン!第3章~」

http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/c1423725ec21995581548e1f9729bb15

注)古代、物部氏一族の館が現大蔵経寺辺りであったとしても、今や古文献

や遺構を確かめる術はない。

「松本山大蔵経寺は、室町三代将軍足利義満往時の甲斐守護

第11代武田信成公により観道上人を中興開山に迎えて、山中の「彌勒平」

から靑獅子山松本寺を現在地に遷されて中興、大伽藍が建立されたと云う。

それより真言宗に改宗、「松本山大蔵経寺」と改名され、室町時代以降・・・、

その中興開山観道上人を初代として現在に至る。現住職は第37世となる。」

推論の域を出ないが・・・、

「往時、甲斐武田家は第10代信武公の代には、足利尊氏とともに鎌倉幕府

倒幕を果たし、室町幕府開府に貢献したことで、甲斐守護を任じられ、安芸国

より甲斐国復帰を果たしており、嫡子信成公が先んじて甲斐国内へ帰還した

と云われる。

その信成公が第11代甲斐守護を継いで八代に館(現清道院)を構えて国内

平定を図ったと云われるが、真正面に見える靑獅子山松本寺に(現大蔵経寺

境内地の位置と推定する南麓の物部氏一族の館址も含め)広域の寺領安堵

されものと考えており、応安年間、室町幕府は三代将軍義満の代にあり、

その麁子観道上人を中興開山に迎えて松本山大蔵経寺の拡充を図って、

室町幕府における甲斐国の基盤と威信を構築していったものと考えている。

物部氏は宗教戦争において崇仏派(蘇我氏と聖徳太子派)に敗れて・・・、

587年9月蘇我氏の推する崇俊天皇即位の時点を以て没落したとされる。

後世において、記録・古文献などは、往時の朝廷の都合で多々改竄された

云われるところもあり、記録や文献は残されていないようだ。 


 筆者は、甲斐物部氏一族の子孫は宗家滅亡後、一時隠遁し、名を変える

などして、後世は地方各地に存続していたと推測している。

畿内や大和域では”石上(いそのかみ)氏”として復権したえられている。

甲斐物部氏については、唯一「正倉院宝物館銘文集成」の中に・・・、

「巨摩郡青沼郷物部高嶋調一匹」推定天平勝宝4年(752年)が残されるのみ

で、古代甲斐国の物部氏一族の存在は、多くが謎のままである。

もし、現大蔵経寺境内辺りに、古代、物部氏一族が館を構えていたとする

と、現大蔵経寺境内地にある物部神社とその社伝由緒云う旧蹟物部宮が

背後にある御室山頂に祀られた訳が論拠の証しとなる!


現・物部神社は厳かに地域の鎮守神として祀られている

この神社こそ、古代甲斐国の歴史ロマンを辿る道標なのです

現大蔵経寺境内樫群生林の中に鎮座する物部十神祖を祀る「物部神社」!


甲斐国志によると・・・、

物部神社は、「十社明神」松本村 黒印神領二石四斗五升社地。縱四十二間、

横四十間。社記に云うニギハヤヒノミコト、ウマシマジノミコトより物部氏の祖

十神を祀る物部神社是なり。往古は御室山の山上に鎮座ありしを後、今の地に

遷すと云えり。」と記される。

甲斐国社記・寺記 補遺によると・・・、

物部神社十社明神 東山梨郡岡部村松本。

祭神:櫛玉𩜙速日命、味𩜙日命、御名不詳、大椋麻杵命、大新川命、

可美真牛命、彦湯支命、大木食命、伊香色雄命、十千根命。

注)物部氏は𩜙速日命より十代は神話も含まれるので、名は正確ではない。


石和町誌による物部神社の規模・・・、大正元年十月吉日の再建規模と見える。

社殿:7尺×8尺 流造桧皮葺覆屋付。 

拝殿:4間半×3間入母屋瓦葺。

鳥居高:12尺。 通幅8尺木造。

狛犬: 高さ2尺5寸、一対。


物部神社の樫群生林(かしぐんせいりん)

物部神社には、カシ、ツガ、アカマツ、スギ、ヒノキ、ソメイヨシノ

などの大木が生育する。カシ林はシラカシ、アラカシの約40本から

成る。大きなものは目通り幹囲2.2m、樹高約20mと立派である。

シラカシの樹皮・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・

常緑暖帯林樹木で比較的寒さにも強いが、冬の冷え込みの強い甲府盆地

にはもともとカシ林は数えるしかなく貴重な林である。・・・石和町。


文化財天然記念物「樫群生林」の中に鎮座する物部神社!

今や石和の桜の名所になっている物部神社には赤い鳥居が映える!

 

物部十社明神」の拝殿 神殿(背面)!

 


物部神社境内の「御由緒」には、次のように解説される。

御由緒

物部十社明神といい、物部氏の御先祖であるニギハヤヒノミコト、その子

ウマシマジノミコトより十神をお祀りする神社です。

𩜙速日命は、神武天皇が大和国平定の折、勲功を立てそれ以来代々朝廷

にお仕えし、垂仁天皇の御代に物部(朝廷を警護武事を掌りし部族の総称)

の姓を賜り、大連(朝廷の成務を補佐し国務大臣に相当する職)として国政

に参与し、一家一門はこの地を中心に繁栄し隆盛を極めた。

また、物部神社は延喜式神名帳、三代実録等の古典に記録されており、

それによると、清和天皇の貞観5年6月8日に甲斐国従五位下勲十二等。

同8年3月28日正五位下。同年閏3月18日従四位下。同18年7月12日

従四位上を。更に陽成天皇の元慶3年2月8日正四位上、物部神従三位の

位と田三十四町歩を賜る。

往古は、山梨郷の御室山に鎮座したが、後世此の地に遷し祀る。

現在、御室山に旧蹟があり。

古今集にも「神垣の御室の山の榊葉は神の御前に茂り合いけり」と詠じてある。

又、醍醐天皇が延喜の制度を施行された折、”一の宮”として国幣に預かり、

本国屈指の名社のみならず此の地方の鎮守神として古来より上下信仰厚く

文化発展の中心となり、古代の石器土器類が発掘された。

後世徳川家より黒印二石四斗五升を賜る。

旧社殿は、明治22年2月12日夜拝殿より出火焼失。

真言宗大蔵寺は当社の宮寺であった。

御本殿は「流造桧皮葺」拝殿「入母屋瓦葺」である。

奉納の和歌

「甲斐がねに咲きにけらしな足引の山梨岡の山なしの花」 能因法師

・・・続古今和歌集 詠み人知らずなど中略・・・

「物部の神のみいうぞいや高く栄え行くなり松本の里」 賀茂仕人


物部神社は、往古は山梨の郷 御室山に鎮座したとある・・・!

上記朱文字部分に記されている通り、旧蹟物部宮は御室山山頂にあった。

注)大蔵経寺累代の寺伝でもある。

この御室山山頂こそ、物部神社発祥の地であり、古代甲斐国の歴史ロマン

を辿る原点になる・・・!?

推定するに、5世紀中の話・・・である。

雄略天皇の御代、大連物部目氏が命じられて倭国形成のため東端甲斐国

の覇権・統治のために遣わされた物部氏一族が、若彦路を越えて、甲斐国へ

入国した時、花鳥山展望地に立ち、最初に眺めた往時の甲斐盆地の正面

に浮かぶ現大蔵経寺山の山容が都の御神体山”三輪山”を彷彿し、山麓に

本拠を構えたと推定している。

推論しかないが・・・、序章、第二章でも述べている下りである。


物部神社境内は桜の公園として石和市民の憩いの場所になっている!

 


御室山山頂の旧蹟物部宮は、現在は樹林帯の中にある!

山梨岡神社の創建時、春日居から見た山容から御室山と呼ばれるように

なったと云う説が濃厚だが、実は、序章で述べたように現大蔵経寺山

全体を見て本拠の館を構え、旧蹟物部宮を祀った山を御室山(御神体山)

と称したのが、初代の物部氏一族であっても不思議ではない。

むしろ、物部氏一族の旧蹟物部宮が置かれた時代から御室山と呼ぶに

相応しかったのではなかろうか・・・!?

御神体柱が立つ神岩が御室山頂の目印で旧蹟物部宮が祀られていた!

この御室山山頂は大蔵経寺山の中腹に位置し、昭和年代に植林された

針葉樹林帯の中に御室山山頂の印に御神体柱がある。

その御印の双頭の神岩に現住職が復元した石祠「物部宮」が祀られている。

筆者もこのような石祠が、往時は神祖ニギハヤヒを祀る旧蹟物部宮であった

ろうと想像している。


旧蹟物部宮の石祠は今はない。この石祠は現住職の代に祀られた祠。


旧蹟物部宮の置かれた双頭の岩石は御室山(御神体山)山頂の象徴!


 古代、物部氏一族が本拠館を構えたと想われる現大蔵経寺の境内!

桜の花が美しい高台から大蔵経寺全景を臨む!

この大蔵経寺境内の全景を眺めると雄大な盆地を臨み、

かつ荘厳なスケールを有している。

この辺りにヤマト王権より遣わされ、古代甲斐国の覇権・統治

のために物部氏一族が館を構えていたのかと想像すると・・・、

如何にも感慨深い!

また、前述の御室山頂に祀られた旧蹟物部宮の近くの適地に・・・、

養老六年(722年)に行基上人が仏教の普及を図るため、山上に「彌勒堂」を

建立したと伝わる里人は後世まで「彌勒平」と呼んで崇めていたと云う。

ここに修行僧が籠もる「彌勒堂」があったと云うが、さぞかし、甲斐国中からは

どこから見ても象徴的な伽藍を供えた大寺院に見えたことだろうと想像する。


 12月中には、現住職と副住職の案内で、その「彌勒平」を再度踏査する予定。

寺伝ではこの山上に靑獅子山松本寺が開かれたと云われる。

中世、武田信成公が現在地に遷し、中興する迄は山上の彌勒平に伽藍があったと

云われ、甲斐の象徴寺院であったろうと想われる。

次号では、あまり知られていない松本山大蔵経寺のルーツとなる「彌勒平」と

最初に建立されたと想われる今は甲斐国志にも記された「彌勒堂」の礎石跡など

の証しは残っていないようだが、この「彌勒平」のことを紹介できると想います。

楽しみです!