「乾徳山恵林寺」は旧「松里」村の”中枢”にあった!
旧「松里」村の小屋敷にある「乾徳山恵林寺」は、今も訪れる人が多く、荘厳さを保つ!
1330年(元徳2年)、時の領主二階堂道蘊が屋敷を提供して、あの夢想国師を開山
に迎えて創建されて以来、天正年間以来、幾多の運命の変遷があったが・・・、
その都度、京の妙心寺派より名僧を迎えて見事に「恵林寺」は再構築されている!
現在の「恵林寺」も、臨済宗妙心寺派の関東の主要な”名刹”です!
因みに、現在の住職は開山夢想国師以来第57世となり、妙心寺派第22世となる!
恵林寺の三門は歴史的な変遷を伝え、今春も庭園の桜は満開です!
2020年3月23日、既に恵林寺の桜は満開になっています!現住がFACEBOOKにて3/24に発信済!
注)掲載写真は、このような時期なので・・・、筆者が以前撮影したものでご容赦・・・!
恵林寺、三門の桜は、江戸時代には”恵林寺十勝”として見事な「両袖桜」と呼ばれた!
現在の「乾徳山恵林寺」の本堂!右側に建つ「大庫裏」が拝観の受け付です!※前号と重複掲載!
注)注目は、受付台の処にある「大庫裏」の黒光りする”大黒柱”です!太く、頼れるのが大黒柱!
昭和24年7月、第二次世界大戦の敗戦後、人々も恵林寺も疲弊して頂点にあった時代・・・、
現在の大庫裏と本堂等伽藍は、妙心寺派第20代会元文堂(三光亭 加藤会元)住持の入山により、
見事に再興されて、現在に至ると云う!
恵林寺略史によると、現開山堂の移転改築、三重塔の建立、四脚門の解体復元、名勝庭園の整備、
本堂回廊の全面改修、方正池の整備、信玄公宝物館の建設等を矢継ぎ早に成し遂げられたと云う。
その再構築の手法については、今の企業経営者も見習うべき手法があると・・・教えの一つです。
その時、招聘されて一緒に来られたのが、現一休庵の主(あるじ=社長)だと云う話です。筆者も納得!
だから「一休庵」は、まるで京都の古刹を訪ねるような、”味覚ともてなし”があるのだ・・・!
恵林寺拝観の際は、ぜひ「一休庵」で、ひと休みをお勧めです!心地よくお茶やお食事も頂けます!
何より一休庵の女将さんの”おもてなし”は、筆者(元ホスピタリティ産業のプロ)がお勧めできるお店です!
筆者は50年前、京都で結婚式を挙げたほど京都大好きで、本ブログではグルメは殆ど紹介しないが・・・、
今春、桜の花が満開の恵林寺境内散策にかこつけて、お茶と食事処「一休庵」を紹介します!
今春は、不運にも世界的な新型コロナ問題があるので、桜見物の人出は殆ど見られなく静かですが・・・!
客足も減る中でも、法事など恵林寺と同じ心構えで、皆さんは頑張っておられます・・・!
レストランやグルメ情報はネット情報でご覧になれますので・・・、筆者は別の視点で紹介します!
2016年の恵林寺空撮から見ると、境内の現状が良く分かる!下段の注釈は必読です!
昭和55年、開創650年記念(南条大学住持の時)で発刊された「恵林寺略史」を参照すると・・・、
「乾徳山恵林寺」は、1330年(元徳2年)時の領主二階堂道蘊が屋敷を提供して、あの夢想国師
を開山に迎えて創建された名刹です。
あの有名は快川紹喜国師が第36世住持、妙心寺派第1世として再任以来、妙心寺派の代表的な寺院!
天正10年(1582)3月11日、織田信長の甲州討伐軍の焼き討ちにあい、快川国師他門下僧約百名が
山門で焼死された話は無残であるが、現在も三門を潜る人は多く、「安禅必ずしも山水を須いず、
心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」と、今も、人々はこの口上を心に刻んでいる!前号で解説!
快川国師他門下僧の方々の墓が三門の左手前にあるも、今は殆どの人が気づかず通り過ぎている!
天正10年7月、織田信長が本能寺の変で戦死した後、いち早く甲斐国へ入国した徳川家康は、
甲斐国の武田信玄に一目置いていたこともあり、大和に武田勝頼を弔う「景徳院」を開基し、
その足で、天正十年7月25日恵林寺の焼け跡へ立ち寄り、現存の塔頭「岩松院」に守られていた
開山夢想国師の像と武田不動尊が焼失を免れたことを喜んで恵林寺の復興を約束して行かれた!
その時、家康は恵林寺の住職が決まるまで、寺領二十五石、寺域三万六千四百坪、山林一里四方
を寄進し、※YS記自習NOTEにより追記すると、その時、家康は恵林寺を再建するために、
東代官と西代官を任命して配置しされたと考察している。
その東・西代官の子孫は現在も、地元では「表土屋家、裏土屋家」と呼ばれて存続している。
注)近所の方は表・裏土屋家と呼んでいるが、筆者は元東代官、元西代官としてご先祖を偲ぶ。
注)両家を訪ねて江戸時代の恵林寺境内古絵図を拝見したことはあるが、その頃の恵林寺は、
甲斐国志に記されるように塔頭十三を構えていて、更に大きな伽藍であったことがよく分かる!
その後、明治初頭の廃仏毀釈の危機を乗り越えた笛川元魯(篴川=てきせん、無孔笛)住持が、
明治11年妙心寺本山より第17世として入山され、不運にも明治38年、伽藍の大火にあったが見事
に再興されている。そこで前号でも紹介したように、今で言う大リストラを行い、江戸末期まで
あった塔頭や境内地を一部売却され、見事に現在の伽藍や庭園「偕楽園」等を再興されたとある。
注)筆者の学んだこの時、武田信玄が高祖に選んだ「継統院」と「長興院(後の長光院)」は
再興されていない。深く学習すると「継統院」の武田信成公は甲斐国の実質上の再興者であり、
石和の「大蔵経寺」の再興、峡東では、臨済宗「塩山向嶽寺」の開基、また「千野」の「信春館」
も「継統院」即ち武田信成公あっての”館”であったのに、千野にも武田信成公の名は残らない。
武田信玄が「継統院」を「恵林寺」へ遷したこともあるのか!?地元でも「信成公」が忘れられ
ていることは大変残念であるが、流石に、武田信玄が選んだ高祖二人は筆者にも納得出来る!
江戸時代の古絵図が残されていたので拝見したら、家康は武田信玄公を尊敬していたこともあり、
境内の塔頭は概ね信玄時代のように元通りに復元されているようだが、以前、武田家歴代当主
(即ち累代の甲斐守護)を学んだことがあるが・・・、
今もPCエクセルに入れてある「武田家累代当主略史」を辿って見ると、武田信玄が恵林寺
を菩提寺に定めた時、また快川国師を三顧の礼で招聘する時、高祖(尊敬する先祖)は2名だけ
に絞られて、同じ甲州市内にあって、臨済宗向嶽寺派の本山としての「塩山向嶽寺」を開基した
武田信成公と信玄の(信虎の父)祖父にあたる武田信縄公のみ奉って本堂に近い位置に塔頭
として建立し、恵林寺の塔頭として「継統院」及び「長興院」を建立し、信玄は快川国師に
兼帯(兼務)を要請していることが記されている。筆者は救われた気がした。
しかし、残念ながら塔頭「長興院」は信玄を後継した武田勝頼によって「長光院」に変え、
祖父信虎を崇めたと云う。しかし「長光院」の名残と石碑は今もヒッソリと残されている。
残念ながら「継統院」のことは、今は「一休庵」の裏の畑になっていることもあるが、完全に
忘れられている。※筆者は何故、武田信玄は二人の高祖だけを選んだのかを解析したが、一部だけ信玄を覗いた気分!
注)YS記で調べたが謎であった「長興院」は「正徳寺」に位牌を還されていることが分かった。
笛川元魯住持は、その偉業の後、大正4年4月本山妙心寺管長として栄転されていることを知る。
凄い住職がおられたものだと感心するばかりである。達筆の住持日記を今に残され、熟読した。
仏教界も一流企業最前線と変わりないと思ったが、心ある僧により仏教界もより栄えるであろう
と思う次第! 一般企業的には「顧客ニーズの変化に対応しなければならない」と・・・。
その笛川(篴川)元魯住職を気にとめて見ると、大庫裏の前にある風呂場にも"讃"が掲げてあり、
臨済宗妙心寺派管長に出世されても、偉大な業績は忘れず、笛川(篴川)元魯住職の名を覚えて
おきたいと思った。※妙心寺管長に栄進された笛川(篴川)元魯住職のことは前号でも紹介している。
但し命名された「偕楽園」は分かりやすい呼び名であるが、先に水戸の「偕楽園」があったので、
呼ばれなかったか否かはわからないが!?
少なくとも、今は「桜の恵林寺庭園」として庶民が楽しんでいることだけは事実です!
往時、笛川住職が庶民に開放して楽しんでもらいたいと云う「桜の恵林寺のベース」を築いて
頂いたのは笛川元魯住持であったことは忘れないでいたい!特に、桜の季節だけは・・・!
筆者は移住後に恵林寺に興味が深まり、興味目線が広く深くなっていることもあるが・・・、
今でも「恵林寺」は境内への参詣の楽しみと、境内の「一休庵」の憩いを楽しんでいます!
「恵林寺の桜見物」の時は、「一休庵」で一休み!
「一休庵」は、やはりあの有名な「一休さん」の○印に”もてなしの心”がある!
3月号でも早々と恵林寺の桜として紹介した「偕楽園」の東ノ池の桜とその向こうに見える一休庵!
「恵林寺」境内の「偕楽園」の桜を愛でる散策は最高です・・・!
「一休庵」は何時でも暖かく迎えてもらえるので、京都で50年前に結婚式を挙げた
ほど京都大好きの筆者も家内も、時々ですが、お茶などを頂きに伺っています!
京のような”味覚ともてなし”と”笑顔”を頂きに・・・! 筆者お勧めのお店です!
「一休庵」での休息は、まるで京都の名刹を訪ねる”もてなし”がある!
流石、ご主人(社長さん)は、昭和の恵林寺再興に貢献された第56世
妙心寺派20代会元文堂住持(加藤会元住持)に招かれて来県され、
今も”京の味”を提供して貰えるので・・・嬉しい!
筆者は、京風出しの味を楽しむため、時々”素うどん”を特別にお願い
して食べさせて頂いています。本当に美味しい京風の味が楽しめる!
ご主人(社長)は板場で包丁を裁き、女将さんは表のサービスを
仕切る名コンビで夫唱婦随で見事に「一休庵」を経営されている!
こんな外出自粛の時代にも、法事の宴会があるので休まず頑張って
おられます。今年の桜の写真は、間に合えば後で差し替えますが、
お店のメニューは、お茶類の他、うどん、そば、山梨名物ほうとう
はもちろん、精進料理をベースにして、色々楽しませて貰えます。
「偕楽園」東の池の前にある一休庵の全景!茶店のように気さくです!南に大宴会場棟がある!
江戸時代まではここに「栖松軒」と言う塔頭があったらしい、笛川住持の時に、大宴会場を有したこと
で、恵林寺の行事が盛んに行われるようになったと、笛川元魯の住持日記に記されている。
戦後、昭和24年加藤会元入山によって、大規模再構築が行われ、その時、家康が再興で招聘した
末宗禅師の塔頭「望月庵」を現一休庵の大宴会場南側に遷し、現在も表札を見ることができる。
現在の「一休庵」は、何度か新装・改築され、現在に至っている。現役の食事処である!
「一休庵の玄関」にはいつも暖簾が掛かる!○の暖簾はあの有名な一休和尚の”もてなし”の印!
季節により暖簾は変わるが、如何にも、そば処、お食事処などの”幟”が気さくに迎えてくれる。
表玄関にメニュースタンドはないが、お茶も、コーヒー400円より~、ランチも1000円程度で提供される!
お勧めは精進料理の信玄弁当(1200円)です!筆者も気まぐれに立ち寄り、気軽に頂いています!
”うどん”や”ソバ”も関西風味付けで大好きです!都会からの客も「一休庵」があるので癒やされます!
施設、料理、サービスの三拍子揃った、且つ気軽なお勧め「和風カフェ・レストラン」です!
本格的な精進料理がベースで、気さくに”もてなし”て貰えます。宴会も3~5000円前後の予算で相談可!
桜の開花の季節には、どこの席に座るか迷うほど・・・!一休庵の中庭の咲くしだれ桜は見事!
女将さんは、花や植物を愛しているので、玄関や店内では、生け花も楽しませて貰える!
それも都会から訪ねると珍しい野花が多いので、筆者はお茶を飲みに伺い物知りの女将さんに
色々と教えて貰いました!玄関の大きな花瓶も季節の野花で迎えてくれます!
春、桜の花が咲き、天気がイイと中庭も賑わう! 京の寺巡りのように縁台も心地イイですよ!
注)お客さんがいっぱい座ってお茶を頂いている様子を想像して下さい。お客様の写った写真は遠慮しています。
一休庵の中庭から見た、通称「能舞台」の小上がりにはこのように垂れ桜が垂れる!
赤いモーセンではないが、いつも綺麗にして迎えて貰えますよ!
能舞台風の小上がりには、垂れ桜が満開になると、まるで桜が覆い被さってくるような雰囲気になる!
もちろん、天気が良く、暖かい日は、中庭の垂れ桜の下で、お茶を頂けたら・・・、最高です!
江戸時代は、まだ甲斐国牧ノ庄と言われた「乾徳山恵林寺」のことを伝える古絵図が今も伝わる。
この掛け軸は、徳川家康の甲斐国入りに際して、恵林寺再建を指示された時に、西代官に任命されて、
恵林寺の再興に貢献されたと言う現在の土屋家(通称裏土屋)に所蔵されるものです。
筆者は以前、拝見した時、恵林寺全図を描かれている古絵図を撮影させて頂いたものですが・・・、
古絵図全体は掲載を省略し、江戸時代の恵林寺境内の様子は要点のみ文章で解説するのみです。
その時の目的は、武田信成公の「塔頭 継統院」の所在場所を検証するためでしたが、全て古絵図
のお陰で判明しました。※古絵図は、江戸時代末期(作図年代不詳)の私物なので公開されていない。
しかし、この土屋家には、名僧笛川元魯住持が、大正天皇の即位式に土屋家の先祖を招いて出席され
ている証し(直筆の掛軸)が残されており、流石、京の妙心寺本山の管長に昇格されただけの方である
ことを知りました。注)ここでは紹介の目的が異なるので、表題文字が見える一部だけ割愛して紹介しますが・・・、
残念ながら、本部ブログにも文字制限があり、特に画像を加えると、殆どフルなので簡単に紹介した次第。