新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲州市の北端:塩山「平沢」の郷を辿る!21-02

2021-02-01 | 山梨、里山の美しい四季!

初めて、甲州市塩山「平沢」を訪ねた!

昨一年間、ブログ発信した~旧「松里」を辿る~シリーズで、

「滑沢」を訪ねた時、そこで「坂脇峠」1190mが在あることを

知り、そのを越える「平沢」村に繋がることを知った!

その時は「滑沢」の取材だけにし、「平沢」歩きは延期した

昨年秋に取材し・・・、塩山「平沢」は、気になっていた!

「滑沢」集落は江戸時代に”鈴庫山等の鉱脈を探していた

山稼の人達が築いたのではないかと考察されたが・・・、

この「平沢」集落も、古くは同じように築かれたのでは!?

と・・・、一度、探訪して見ることにした

家内も同行すると言うので、運動を兼ねて自転車で往復!

もちろん、上りはキツい坂を歩いて、下りは楽々だった!

今号は甲州市に移住して以来、今も尚続く山梨の探訪!

”新甲州人”が初めて探訪した「塩山・平沢」を紹介します!


塩山玉宮の「平沢村」も甲州市域!自然のままの長閑な里であった!

甲州市(264.11k㎡)塩山玉宮平沢の長閑な里は、今も自然豊かな里!

この山の先に竹森山(=別名水晶山)がある。現塩山竹森1425番地に

現在、雨宮慎一氏所有の通称「水晶山」は、葡萄畑の中に「立入り禁止」

の標識と竹森水晶産地の概要を記す看板が表示されていると云う。

ここでは、歴史記録や伝承が残っている話だけを学ぶことにした。

標識には「特に明治5年(1872)、藤村紫郎知事の就任により開発が

進み、先代故雨宮大吉氏の代に盛んになり、「滑沢」と同じく・・・、

江戸時代には先陣の山稼が集まって、集落を形成したと考察できる!

特に明治5年以降、水晶山の開発許可が出て以来、平沢集落は盛ん

なったようだ!

何度も尋ねた福生里の北奥に位置~玉宮の「ザゼンソウ公園」の直ぐ、

上だったのに、今回、初めて尋ねることになった里山です!


この地に小倉山(954.8m)があり、山麓に「ザゼンソウ公園」がある。

園内の解説によると、名前の由来は「毎年2月頃、ザゼンソウは咲き、

その名の通り、仏炎包という大きな覆いの中小さな花が密集して咲く

姿が”僧が座禅をしているように見える”ことからです。また幸福を呼ぶ

縁起の良い花とも云われている。開花する時、発熱し自ら周囲の積雪

解かすため、早春にいち早く見ることができる。」※甲州市解説版記。

花好きの家内と運動を兼ねて何度も自転車(上り約3時間、下り1時間)

を漕いだことがある。JR塩山駅から路線バス「玉宮」行が運行されてる。

バス停から歩いて5分くらいなので、一度はバスで行ったこともあるが、

登山スタイルで行った時は、小倉山々頂の展望台に登ったこともある!

小倉山とザゼンソウと小倉山の大展望は、古いバックナンバーだが・・・、

「43)春一番、割って開花する甲州・玉宮のザゼン草!」2013年3月号、

同号「15)小倉山と玉宮ザゼン草群生地の里山ハイク」でも紹介している。

冠雪の南アルプスと富士山が一望の素晴らしい展望台を紹介しています!

写真もバチバチ撮った!自転車でも数回行った!往路は上り坂で約3時間、

帰路は殆ど下り坂!車も少ない・・・、自転車も1時間の快適サイクリング!


元気な家内と竹森へ!今、竹森は、”蛍の再生”を目指している!

背景にある「玉諸神社の旧鳥居」は、塩山竹森の中心地に至る目印です!

竹森の「玉諸神社」は、現「玉宮小学校」、「JA」等、玉宮の中心地にある。

朝、往路、その玉宮小学校の元気な登校途上の子供達にも出会いました!


地名「玉宮」の語源と云う現在の「玉諸神社」本殿・・・!

この「玉諸神社」は、古代より石器として用いられた水晶(六角柱状結晶)

を祭神とする神社で、上竹森と下竹森の境近くにあり、玉宮村の象徴で

もあった。江戸時代末期までは「玉宮神明神」と呼ばれ、神体が水晶の

玉石であることで知られている。室町時代中期の第14代甲斐守護武田

信重が「神垣にかかやく玉の光をそ身の行くすえにかけて頼まん」「跡垂

れし神の恵みも世にしるく玉の光の数そそひゆく」と、社記に伝えている。

当社、奥宮のご神体も水晶の結晶であった。勧請の寺記は不詳だが、

新羅三郎義光によって社殿が造営され、文安年間(1444~49)に、

第14代甲斐守護武田信重によって再建されたと云う。※伝社記。

江戸時代は、竹森、福生里(ふくおり)二村の鎮守。社中は1200坪。

東の竹森山(水晶山)の中腹に奥宮があった※記甲斐国志

※奥宮は、現在、雨宮氏により私有されているので、立入り禁止域。

考察すると、社記にある新羅三郎創建となれば、平安時代後期には

創建されていた由緒ある「玉宮明神」、現在の「玉諸神社」である!


玉宮の「高森院」、塩山「向嶽寺」の伝開山抜隊禅師が庵を開いた?

この「高森院」は、”抜隊禅師”が結んだ”庵”とは異なるが・・・、以下の項に

往時の庵跡は、現在は地名「寺平」のみで、平らな雑木林が残ると解説。

臨済宗向嶽寺派開祖とされる”抜隊得勝”は、俗世は「藤原氏とされる。

天平13年(1358)、出雲・雲樹寺の弧峯覚明(三光国師)に印可を受る。

塩山竹森に庵(向嶽庵)高森の草庵には不便もあり、弟子の周旋で・・・、

第11代甲斐守護武田信成の寄進を得て、旧蹟庵から移転し、康暦2年

1380)「塩山向嶽寺」を開き、臨済宗向嶽寺派の祖と位置づけられる。


塩山平沢の長閑な里の風景!中央に見える赤い屋根が「法泉禅寺」!

「平沢」は、この写真のように・・・、長閑な風景の郷である!

写真中央部に見える赤い屋根の建が、臨済宗向嶽寺派「法泉寺」

注)塩山向嶽寺の開祖と崇める抜隊得勝(ばっすいとくしょう)

禅師は、平沢地区域の現ざぜん草公園に至る道の途中手前に、

「①乞食岩、②休息石、③達磨石、④富士見石、⑤寺平「旧蹟

”庵”の跡は、平らな雑木林。現在の所有者は広瀬博氏」と・・・、

昭和52年4月玉宮の高森院檀徒一同の調査記録が掲示されている。


平沢集落民の菩提寺とされた臨済宗「法泉禅寺」の現在の様子・・・!

現在は無住のようで、建物の一部が児童図書館に使用されていた。

塩山平沢655は、「玉宮」終点のバス停から82m、徒歩1分

の位置に有り、「平沢」の中心拠点に相応しいと思った。


船宮神社の鳥居と本殿の全景!

甲州市塩山平沢113にある。随分、寂しいところに祀られていた。

御祭神は、瀬織津姫命。境内地816坪。氏子34戸。

明治12年の神社明細帳によると「勧請不詳、正徳卯年松平甲斐守検地

の時、免畑八畝二六歩寄附、享保元申年社宇再建。明治3年社領上地、

同7戌年3月、村社に定められる。また神社名は船宮神社」と記載される。

今は、あまり里人も訪ねないようだ・・・!?


船宮神社の本殿!

甲州市塩山平沢113の「船宮神社」は、以前「玉宮ざぜん公園」に行った時、

平沢地区の散策図に見たので、初めての山道を散策する感じで歩いて見

たが、わかり憎く、寂しい処にあった感じが印象に残っている。

この境内地に、「山梨県天然記念物指定の大ヒノキ」がある。


現在は殆ど使われることがないと言う、平沢村「公民館」・・・!

近所の方に伺うと「今は平沢公民館は使うことがない」と云う話であった。

有効利用できそうな建物に見えたが・・・!?どうやら、明治時代以降、

平沢地区が栄えて、塩山市に合併された頃、備えられ、昭和時代にも

立て替えられたようだが、今は時代を経て、集会は殆どなくなったよう!


「平沢」集落には、道祖神が3箇所ある。①「湯原」の二段縁石丸石3個

棒状石1個、②「板屋・上手組」二段縁石内丸石1個、③「清水」切妻唐

破風付石祠内丸石1個が、現在も年初に祀られ、里人に守られている。


「塩山・玉宮」は、古くから、石英の産出地で、「和名抄」でも「玉井郷」と

記載が見える処。石英、水晶等の職人がいち早く住み着いた処で

ないかと言われる。「玉諸神社」は「玉宮明神」と言い、ご神体に高さ

7尺、周り6尺8寸程の巨大水晶を祀ったことから名を「玉宮明神」、

後に「玉諸神社」としたと云う。奥宮は竹森山(水晶山)の中腹に鎮座。

今は、その山麓は、私有の葡萄畑になっていて立ち入り禁止地域だ!


大日本地名辞典では、「平沢村」は塩山市平沢、現甲州市塩山平沢。

福生里(ふくうり)の北、重川の支流、竹森川の上流域に位置し、市域

北端にあたる。元禄六年(1693)には「竹森村之内平沢」※枝郷

として年貢が割り付けられていて、同16年には「平沢村」と記される

ので、元禄11年幕府領になってから、一村として独立したと推定され

ている。

宝永2年(1705)甲府藩領、享保9年以降、幕府領になって家数33軒、

寺1,宝暦10年(1760)には、家数37軒、人数(人口)141人とされ、

山稼は、平沢、福生里、竹森、千野の四ヶ村入会の鈴庫山により、

用水は沢の水に依存したとある。山稼の他、煙草と養蚕があった。

文化年間(1804~1838)には、家数:41軒あり、江戸時代末期には

慶応4年(1868)、家数38軒と減少している。明治8年福生里と合併、

玉宮村となり、その後、変遷を経て、現在は甲州市塩山平沢になる。


※平沢の古老に伺うと、恐らく明治~大正期に大量の水晶を算出した

竹森水晶山の南麓で竹森川東岸の丘陵地にある縄文時代中期の集落

跡「乙木田遺跡」があるように、竹森山(水晶山)とも近く、大量の算出を

した時期もあるので、先祖の時代にはこの地に住み着いたのは山稼が

目当てだったのではないかと伺った。縄文時代中期の水晶加工として

石器工房の跡のようなものが見つかっているので、古代から里人が住

始めたのかも知れない。人類が住み始めた歴史のロマンは奥深い!

その謎は、永久に続くのだろう・・・!