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安田義定ゆかりの甲斐「牧ノ荘」を辿る⑧安田義定は城下に「法喩庵」も開基した!19-04

2019-04-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

山梨市牧丘町に伝わる「安田義定」の伝説を黙々と辿ってみる!

小田野山城下には、東城戸の「普門寺」、西城戸の「旧蹟西源寺」、

鬼門の方位に「無量院」を戦略的に配置したことは、既に発信済み!

それに加えて、往時”牧”の要所にあった卍「法喩庵」と呼ぶ”庵”は、

臣下のみならず、集落民にも仏教の禅の法を諭していたようだ。 

今は廃寺となっているが、「法喩庵」は地名としてのみ残っている!

今号は意外に知られていない安田義定の遺跡「法喩庵」を辿ります。


 旧中牧郷にあった「廃・法喩庵」は、この長閑な里山の中心部にあった。

 

往時の”牧ノ荘”の”中牧”は、この写真風景で想像することが出来る!

上記写真では、往古安田義定が築城した小田野山城の写真左上部(蔵王権現)

から東城戸向けて大手筋が写真中央に下り、中央部の山麓に見える位置に、

往古、安田義定が要害小田野山城を築城の時、東城戸口の守護寺に創建した

「妙高山普門寺」が見える・・・。

注)寺伝によると「妙高山普門寺」は、奈良時代、伝行基が薬師瑠璃光如来像

を安置して開創したと伝わる。平安時代末期~鎌倉時代初期、※推定建久元年頃

注)建久元年は西暦1190年、源平合戦も源氏の勝利をほぼ治めた時期。義定の最盛期と推定。

安田義定は要害小田野山城を築城した時、荒廃した真言寺院を再建して開基

なっている。注)安田義定の没年は建久5年8月28日(普門寺位牌)。

西城戸の在華に建立した「旧蹟西源寺」も建久元年の創建と推定されている。

恐らく「廃法喩庵」も、同年代頃の創建ではなかろうかと考察している。

その目線から続けて・・・、上記写真右中央部へ目線を辿ると・・・、

緑濃い竹藪の群落が見え、その上に高樹木と樹林(鎮守の森)が見えるが・・・、

これが安田義定が集落形成の守護神として勧請したと云う「法喩庵の天神社」。

「法喩庵天神社」と云う神社名は、現在地名(小字名)として残る「法喩庵」から、

「法喩庵の天神社」と云う意味らしい。従って現存の”社”は現代の改築である。

その右並びに、安田義定が開基した「法喩庵」があったと云う。※古写真により推定。

注)現地には史蹟標示はないので確かではないが、通りがかりの里人に伺うと、

恐らく、今ある「法喩庵公民館辺りの土地」ではないかと云うことであった。

今は、その現「法喩庵公民館」の隣から左折すると「天神社」へ通じる道もある。 


 YS記:安田義定は、小田野山城下に「法喩庵」を開創して臣下や集落民の

教育強化策を図ったと見られるが、中世になって各地に発達した「根古屋」

(ねごや)集落の原型であったのではないとも考察している

参考資料によると「根小屋(ねごや)」とは・・・、中世に発達した「豪族屋敷村」起源をもつ集落

であるが、中世の名主や地頭などの居館は主として丘陵や台地の先端などにあり、その麓

家臣団と付属する人々の集落が形成されたと云う。

即ち、小田野山城下にあったと云われる西御所は要害城の山麓に構えられ、往時の城山では

生活ができる環境にはなく、家族を含めて山麓でせるように考えられて集落形成が図られ

と考察している。

※参考資料:「根小屋」は室町時代から戦国時代にかけて、特に関東山麓

地帯に多いと云われ、呼称は各地で異なるが根小屋、堀ノ内、堀籠(ほりごめ)、

箕輪(みのわ)、寄居等の地名のある処はこのような集落の存在を示すと云う。

中国、四国地方では、土居(どい)、山下(さんげ)、九州では麓(ふもと)、府本

栫(かこい)と呼んだ同類型のものであると云われる。

特に興味深いのは、城下東城戸に「普門寺」に隣接して、山麓の小田野集落 

に、山下(やました)家が7軒も残り、上記の山下(さんげ)と云う地名の呼び名 

とは異なるも、その集落に山下家が多いのは、とても意味深であると思われる! 

※集落形成と歴史等に詳しい方がおられたら、ぜひ、ご教授願いたく。  


安田義定は「牧ノ荘」の”牧”を守護するするための要害の位置にあって、

その集落を「根子屋」とする臣下や民衆に禅の法諭すことを目的にして、

「法喩庵」を創建したことは、当時としては高尚な施策であったと着目している!

※「法喩庵」の喩は”例え”と云う意味であるが、禅を例えにして、臣下や民に

対して法(義定の考え)を諭す高尚な手法を構築していたものと敬服している。

※証しは何もないが、筆者は安田義定に敬意を評すが、これほどの智将とは!

以上・・・、YS記自習NOTEの範囲での”自由人の視点”と心得てご覧あれ。


「法喩庵」は明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、「法喩庵天神社」はあった!

旧中牧鄕の小田野「法喩庵天神社」は・・・、

上求寺旧記によれば「安田義定公館(西御所)の鬼門除けとして祈願せり」とあり、

祭神は菅原道眞公。人皆、立身出世の守護神として仰げりと云う。

YS記:「法喩庵」は、安田義定が要害小田野山城を築く時、小田野城下や要所

集落を形成し、仏教の禅の教えを通じて、団結力を促す集落を形成しようと

したようで、安田義定の”善政”として賞賛されるべき史実ではないかと思われる。

但し、今は廃寺で、地名以外は何も残らないのが残念・・・。

従って「小田野山城直下で且つ御所の鬼門除けにあたる要所に法喩庵を創建し、

その周辺の臣下と民にも禅を通じて法を(義定の集落形成の精神と方針も含め)

諭す”庵(いおり)”を創建するとともに、往時、立身出世と学問神(菅原道眞公)

勧請して、集落を形成しまとめていく施策を取り入れたものと考察している。

尚、境内解説版の続きには・・・、

天正年間、法喩庵組火災うち続き、困難の余り、元武田家の家臣の臣族岡宮

内之介総代となり、京都北野天満宮に参拝、天正11年3月拝殿を建立。

貞享元年、明細帳では法喩庵組の支配にて御見捨地。・・・と記される。 


YS記:「天神社」は西の御所の鬼門除けに法喩庵集落の鎮守として勧請され、

創建されたと考察する。 ※YS記推定によると・・・、創建は建久元年頃!?

何故なら「法喩庵」の地は小田野山城と西御所の鬼門除けの要衝としても

重要な戦略的な位置にあり、安田義定が最盛期の少なくとも建久元年頃迄

には、創建を着手したものと考察している。

注)義定の戦略的集落形成の鎮守としての配置検証は、後編で行う予定。

参考:鎮守(ちんじゅ)とは・・・、土地ないし集落を疫災から守護する神。

もとは鎮守守護の意で鎮守府、鎮守使など一般的に形容語とするが、日本で

は、平安時代以後は、独立の守護神を指す。

もとは大乗仏教の思想により、寺院の守護神として勧請したもので、

辺境等に軍隊を派遣駐屯させ、平穏の鎮守としてその地を守ることを神の力に

頼ったことも伺われる。

注)YS記自習NOTE「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!」

の「山梨岡神社」の項で学んだ「往古、山梨岡神社の境内に駐屯していた鎮目

軍団」の伝説は、往時、春日居に置いた「国府」を鎮守するためのものであった。

従って、安田義定が勧請した要所集落の神社は、城山、館、寺院、集落など

一定の地域で地霊を鎮め、その地を守護する神であったと考察できる。


「法喩庵」は明治の廃仏毀釈で廃寺になったが、その名は地名で残っていた!

※実際に訪ねると、バス停名は確かに「法喩庵」とある。地名は残っていた!

ここから細い道を上がると、法喩庵公民館があって、法喩庵跡は分からなかっ

たが、下記に添付する昔の写真に見るように、位置的には、現法喩庵公民館

辺りと隣地の農地のようだが、往古を知る確かな里人から確証を得る迄は、

YS記自習NOTEの”推定”にしておきたい。 


牧丘町誌(昭和55年頃)に掲載された往古存在していた頃の写真複写。

 

注)写真の左側に鳥居が見えるのが「法喩庵天神社」、

写真右側に茅葺屋根が見えるのが「廃法喩庵」。

※YS記自習NOTEでは・・・、

 写真位置からして概ね現公民館と隣地辺りとしている。


「法喩庵」は今は農園に変わっているが、安田義定の偉業の跡・・・!


PDF:この資料は未だ自習中であるが、見識ある方にご教授賜りたいため、

補足添付させて頂きました。注)安田義定の神社の勧請と配置については別記述。

~安田義定の”牧”の「要害小田野山城」における戦略的な守護寺院配置~