新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲州、旧「松里」を辿る②乾徳山恵林寺20-03

2020-03-01 | 山梨、里山の美しい四季!

「松里」村・・・「まつさと」・・・、何と響きのイイ地名であったろう! 

しかし・・・、今は、その地名はどこにもない!

その「松里」は、初刊①(2020年2月号)で紹介したあの「松尾神社」の縁りで誕生。

しかし、その名はブランド化した銘品「松里の枯露柿」の中に、現在も活きている!

その旧「松里」地域を訪ねると、何と言っても中心は2月号で紹介した「松尾神社」

武田信玄の菩提寺「乾徳山恵林寺」であったであろうこと、皆周知の通りです。

今号は、その「松里」の中枢にあった名刹「乾徳山恵林寺」を訪ねる!

桜の季節には少々早いが、昔訪ねた時の写真を以て「桜の恵林寺」を紹介する。

※「恵林寺のみどころ」公式HPは信玄公が蘇る「明王殿」公で紹介しています。


乾徳山」は鋭い岩峰の山! 恵林寺の山号になった「乾徳山」です!※この写真は冬の乾徳山。

この乾徳山頂直下の岩窟で夢想国師が19才の頃、禅修行をしたと伝えられている。

その乾徳山登山口(徳和)の古刹「吉祥寺」に、「名僧夢想国師が19才の頃、岩窟

修行した」と言う寺伝が今も伝わる!


「乾徳山恵林寺」はマイカーで訪れる人が多く・・・、今は、この「黒門」から入る人は少ない!

この黒門よりの参道では、毎年4月頃に縁日が開かれているので、その日の古い

写真ですが・・・、雰囲気をご覧下さい。

扁額の「雑華世界=ざかせかい」とは、この門より外は「複雑世界」と言う境目・・・。

この黒門を入ると「複雑な世界」から「静寂世界」に足を踏み入れると言う意味と

心得たい!


長い参道を上がると今は移設されて此処に「下馬石」があり、その先に「四脚門」別名「赤門」がある!

「黒門」から長い参道を歩く人にこそ見えて来る「四脚門=俗称、赤門」である。

徳川家康が再建と伝えられ国の重要文化財。扁額には山号の「乾徳山」を掲げる。

その手前に・・・、往古は、どんな位の人も馬を下りた言う「下馬石」がある。

※この「下馬石」は近年に移設されたらしく、元は黒門の前で下馬したらしい。


赤門こと「四脚門」を入ると、第52世「笛川元魯」住持が再興で築いた美しい「偕楽園」が迎える!

あまり知る人はいないようだが・・・、明治38年の大火災で焼失した伽藍を再興した笛川元魯住持が

再興のために、今で云う大リストラを行い、江戸時代の塔頭等をかなり廃止・売却して再編し、その資金

を活用して・・・、四脚門と三門の間に、庶民が憩える「桜の美しい庭園」を築いている!

「庭園」は第52世(妙心寺派17世)笛川元魯住持により「偕楽園」と名付けられたが、今は呼ばれない!

この「偕楽園」の中の桜は、現在は満開になると見事で、恐らく、これが「桜の恵林寺」と呼ばれる由縁

であったろう!既に、往時は名勝となった山門前の「両袖桜」は朽ちていて見分けがつかないが・・・!?

現代版で新たに「恵林寺十勝」を選ぶと、もっと感心が高まるのではないかと思うくらい見事な庭園!

本山から派遣された第53世笛川元魯住持は、恵林寺第52世(妙心寺派第17世)住持で、道号は笛川

(てきせん=篴川とも書く)、諱号(いごう)は元魯。恵林寺住持は明治11年10月~大正4年4月4日。

注)略歴は省略。筆者は笛川元魯住持が赴任中に「几帳面に日記を残され、筆者にも読めるよう

習字手本のような達筆の日記の中で、庶民の楽しめる「偕楽園」と命名されたことを学んだことがある。


そして拝観客は必ず訪れる「山門」!ご存じ快川国師が織田軍に焼き討ちされた「山門」に至る!

この三門にて信長の焼き討ちに遭った快川紹喜国師は門下とともに「安禅必ずしも山水を須いず、

心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」と言う「碧巌録」第43則の偈を発して、燃えさかる三門の上で

火定したといわれる。異説はあるも・・・、快川国師の遺偈に相応しいと思う。


徳川家康が復興した時に残された復興前の「山門」の「礎石」。気に止める人は今は殆どいないが!

天正10年に信長軍の焼き討ちに遭い恵林寺は悉く焼失している。特にこの「山門」は焼失後、いち早く

甲斐国へ入国した徳川家康によって再建されたと伝わる。本堂、庫裏、伽藍の最重要部で、その再建

の際、痛ましい山門の焼き討ち事件を彷彿するような礎石が残されているが・・・、

山門」を上がって直ぐ左側にあるので、ご覧になると・・・、更に「山門」の感慨が湧く・・・!


その「山門」左手前に「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」があり「快川国師他僧侶」が弔らわれる!

この山門にて信長軍に焼き討ちされた快川国師他門下の僧約百余名を供養するために・・・、

「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」としての墓場がある。※見逃しがちな地味な供養塔!


明治38年の大火後、笛川元魯住持が復興の時、庶民憩いの「偕楽園」と言う名園を築いた!

この「東ノ池」には可愛い鴨が住んでいたが、老いた鴨は、今はどうしているだろうか・・・?

目の前の「一休庵」で、お茶でも頂きながら、女将さんに話を聞いてみたいもの・・・!

※写真は筆者が移住直後の昔ですが「桜の恵林寺」を訪れた時に感動した風景の一片です。


昭和年代になり、第55世妙心寺派第20世会元文堂(三光亭加藤会元)住持により再興された!

この恵林寺の庫裏は「拝観受付」にもなっていて、誰でも拝観できます。

受付の直ぐ前にある「大黒柱」は再建にあたり寄進されたと言う見事な支柱・・・!

一見の価値ありです!だから、今でもこんなに堂々としているのだと思います。


再興された本堂(=仏殿=方丈、往古は「拈華宝殿(ねんげほうでん)」とも呼ばれたようです)

仏殿は「拈華宝殿」とも言われ、天正10年の焼き討ち以後、明治38年にも焼失

していて、甲斐国志によると、「仏殿なり、方十間一尺の層楼なり・・・」とあり・・・、

徳川家康による復興の時も武田氏時代のまま堂々とした本堂を再興したと言われる。

元徳2年(1330)創建、臨済宗妙心寺派の古刹で、開基は時の甲斐守護であった

二階堂道蘊(出羽守藤原貞藤)、開山は夢想国師とされる。

開山堂には、①名僧夢想「礎石」国師、②信長焼き討ちで「心頭滅却すれば・・・」

と唱えながら火定した快川紹喜国師、③徳川家康が呼び戻して再興した末宗瑞葛

和尚の三像が安置されている。いずれも名僧である。

注)この開山堂は、往古は現在の墓地内にあった旧蹟(塔頭真空院は廃寺)から、往古の建物を

現状のまま、現在地に移設されたものと伺う。


武田信玄公廟所(墓所)は、「武田不動尊」の真裏にあたる位置にある。ひときわ、立派な墓所である!

甲斐国志によると、往古は慧林寺と書く。※甲斐国志巻ノ七十五、仏寺部第三によると・・・、

「藤木、小屋敷、三日市場村の界にあり、古時、牧ノ庄の内なり 臨済宗関山派京都妙心寺の末・・・、

樹木屋敷と言うこの辺りは二階堂入道道蘊の封邑なり。 出羽守藤原貞藤は元応2年剃髪当寺の

牌に真空院・・・。※「真空院」とは「二階堂道蘊の法号」と言われる。

元徳二年(1330)夢想国師を請じて当寺を創立し、開山第一祖となす。師始めて徳和の乾徳山に入り、

一夏面壁せし事あり、因って乾徳を以て山号と為すと言う・・・」とある。当寺の領主二階堂道蘊(藤原

貞藤)の邸宅を禅院に改めたのが始まりと言う。恵林寺の八右衛門座敷「更衣の間」にも、「開山夢想

国師徳和乾徳山に入りて一夏面壁されし事あり・・・、」と記されている。

注)一夏面壁とは、吉祥寺略記に一夏九旬石上に座禅す乾し柿(九十数)とあることと同義で、

面壁とは、俗世を離れ岩窟禅をすること。※その岩窟禅修行したと言う場所は、近年になって、

山梨市の山岳に詳しい温井一郎氏によって発見(※公式の比定はないが)され、現古川住職が入山式

時、法衣で参拝している姿が数年前にNHKで紹介されている。


明王殿玄関は、この奥に武田信玄自ら仏師に彫らせて寄進したと言われる不動明王像が納まる!

この明王殿に、武田信玄が戦勝祈願に寄進した「不動明王像」が祀られている。

「甲陽軍艦」、「甲斐国志」巻七十五によれば、「武田不動尊像」は、信玄が京から仏師康清を招聘し、

信玄と対面して彫刻させ、信玄自ら頭髪を焼いて彩色をさせたものであると言う。

未確認ながら像内の空洞に、像内納入品を納めてある可能性もあると考えられていると言う。

中尊の不動明王像は像高92.9cm。胸前の状帛(じょうはく)には金泥で武田家

家紋の「花菱文」が描かれている。

注)武田不動尊は、左手に策、右手に剱を持つ造形で、ブログでは写真掲載は遠慮したので、

公式「恵林寺見どころ」・・・、https://erinji.jp/highlightsにリンクしてご覧あれ!

写真⑧で、武田信玄の彫らせた「不動明王像」が公開されています!


武田勝頼公が、信玄の遺言を守り建造した不動明王殿の北に武田信玄公墓所がある!

現在でも、殆どの山梨県人の方は武田信玄は甲斐国の英雄として尊敬している。

拝観する観光客も、この「武田信玄の墓」だけは見逃さないようです!


YS記自習NOTEのMEMO:

特に、あの武田信玄が恵林寺を菩提寺に定めた時、快川国師を招聘して、多大な

寄進の上、恵林寺を拡充したことは周知のことであるが、快川国師を招聘した際、

同時に、武田家当主累代の中で高祖として二人だけを選んで、快川国師に塔頭を

兼帯させがあり、次号ブログでは「恵林寺②」としてその辺りを紹介したいと

思っています。