新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

山梨市牧丘・城古寺に建つ二階堂道蘊と足利尊氏の石塔二基~続編~!2017-02

2017-02-04 | 山梨、往古の歴史と伝説!

牧丘・城古寺に建つ「二階堂道蘊と足利尊氏」の宝篋印塔二基!

鎌倉幕府の二階堂道蘊と室町幕府を興した足利尊氏の宝篋印塔が何故並んでいるのか!?

また、牧丘・城古寺に、何故、敵対した武将の供養塔があるのか・・・!?

地元「牧丘タクシー」の親切で、現在窪平・替地にある「常牧山浄居寺」を尋ねて見た。

それは、・・・あの七朝帝師”夢窓国師”が結ぶ由縁があったようだ!

城古寺宝篋印塔二基・・・葡萄畑の中に、ひっそりと中世の歴史を刻む! 

ブログ2016年12月号で、この牧丘・城古寺にひっそりと建つ「宝篋印塔二基」に

ついて教えを乞いたいと発信しましたが、残念ながら応答もなく年を越しました。

年明けに、この地域では抜群の情報通である「牧丘タクシー」社長を通じて、何方か

心当たりを探して頂いたところ、現在、牧丘窪平にある常牧山浄居寺の前住職しか

ないだろうということで紹介して頂き、念願の教えを乞うて来ました。

今号は、その学習と解説をもって興味がある方へのダイジェスト報告と情報開示します。 


 牧丘タクシー」の情報通は、「牧丘タクシーのホームページ」を見ればわかります。

 山梨県の観光情報、地域情報発信サイトにて季節の新鮮な情報提供をされています。

 特に、山梨県の峡東地域(甲州市、山梨市、笛吹市域)のことなら、頼りになります。

 これほどUP・TO・DATEな情報はありません。

 最近、かなりアクセス利用者も増えて、人気度も上がっています。

 ぜひ一度「牧丘タクシー」で峡東を案内してもらって見て下さい。但し、情報通の

 運転手さんをお願いするには、予め観光タクシーの予約をしておいた方がベターです。

 きっと、「山梨の魅力再発見の旅」が楽しめますョ。

 「牧丘タクシーHP」・・・http://www.makiokataxi.com

 JR中央本線「塩山駅」下車。※首都圏からは電車の日帰り旅も可能です。

 塩山駅に「牧丘タクシー」は待機していますが、観光の場合は念のため予約を!


牧丘・城古寺宝篋印塔二基は、あの夢窓国師が結んだ由縁であった!

牧丘・城古寺の宝篋印塔は、二階堂道蘊と足利尊氏が葡萄畑の中に並んで建つ!

注)この辺りはあの夢窓国師が開山した常牧山浄居寺の南端境内跡と云われる!?

  牧丘の地名として、字名「城古寺」、小字名は「石塔」として伝えられている。


 山梨市教育委員会指定有形文化財、城古寺宝篋印塔は、ぶどう畑の中に二基

建つが、解説版の通り一基は二階堂道蘊、一基は足利尊氏の供養塔と伝えられる。

筆者は、2016年に現地宝篋印塔を踏査して、ブログ12月号で紹介した。

牧丘の地に、何故、あの二階堂道蘊と足利尊氏が並んで供養されるのか・・・!?

武田信玄の菩提寺「乾徳山恵林寺」開基の二階堂道蘊は往古の牧荘領主として

認知されて、地元では有名であるが・・・、

注)旧「牧ノ荘」領主は、甲斐源氏安田義定の時代より、二階堂道蘊、武田氏の千野館を築いた第11代信成

  ・12代信春以降の時代へと引き継がれている。

  補足)戦国時代に本拠を甲府躑躅ケ崎舘を遷した武田累代の信虎・信玄時代は、対武蔵、相模の北条等に

  備えて、要害山城と結んで通称「秩父裏街道」と呼ぶ軍用道を中牧に通じ、城古寺城を要衝としている。

しかし、室町将軍・足利尊氏は、何故、牧丘に由縁があるのかは不詳である。

山梨市にも問い合わせをしたが不詳とのことで、本ブログにて詳しく教えを乞いた

いと問い合わせたところ、応答者もなく、続けて文献資料の検索を続けたところ、

山梨流の定番ではあるが、「甲斐国志」と「牧丘町誌」を深読みし直してみると

ともに、改めて牧丘で唯一由縁があると思われる窪平にある常牧山浄居寺の前住職

にお伺いをしてみた訳です。

ご丁寧に、当寺の由緒書を頂戴し、その中に記される旧蹟浄居寺と今も供養される

宝篋印塔について、有り難く説明を受けることができました。

それら再検証の結果、自習NOTEとして次のように記すことにしました。


常牧山浄居寺 往古は臨済宗、現在は甲府・曹洞宗大泉寺末

常牧山浄居寺 山門と本堂   ※現在の所在地は、山梨市牧丘窪平字替地


 寺伝による浄居寺略史を解析すると、常牧山浄居寺は・・・、

第93代後伏見天皇の御代(永仁6年~平安3年、1298~1301年)、

正安年中(1299年~1301年)、元の寧一禅師(※一山一寧)が、

旧城古寺村へ錫(しゃく)を転じ草庵を結び、草創となすも、後に第94代

後二条天皇の御代(※正安3年~徳治3年、1285~1308年)に夢窓国師

が甲斐路行脚の砌り・・・当所(窪平)に錫を留め、金山の西隅に地を卜(居住)

し、草庵を結び、自らを浄居庵と名付け、いつか二階堂四良右衛門道蘊の帰依する

処となり、寧一禅師の由縁の地に一宇を建立し、寺領百二十貫を授与し、国師を

勧して開祖と仰ぎ、常牧山浄居寺と号す。

時に嘉元3(寅戌)1305年8月18日なり、夢窓31歳の時。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

従って、この寺伝の如くに深読みすると・・・「常牧山浄居寺」は・・・、

嘉元3年(1305年)創建、本開山は夢窓国師、開基は二階堂道蘊なるが、

実は、甲斐国志 巻之七十四 仏事部第二「常牧山浄居寺」窪平村によると、

曹洞宗大泉寺の末、除地三畝歩 開山は一山一寧禅師(正安元年化す謚(おくりな)を

妙茲弘済国師の号を賜う)、その後、夢窓国師住す・・・と記す。

※YS注記:牧丘町誌などは、開山を夢窓国師とし、一山一寧を勧請開山としている。

筆者も「夢窓年譜」を解析して見たが、牧丘町誌の解析に考えを惹かれるも、寺伝も重視したいもの。

足利家の興立七堂伽藍、三方下馬禁制等ありしとなん。

旧浄居寺村にあり、天正中築城に因って、本村(窪平)へ移し、替地を賜う。

今にその地を替地と名付く。

戦争の世再、興なり難く、逸見筋浅尾新田に移す、当寺は旧跡たれば、元和中、

陽山宗広再建して、当宗となれり。本尊は正観音、恵心の作と云う。

仏殿に、一寧(開山一山一寧)並びに夢窓(礎石)の宝塔、足利尊氏の牌子あり。

法名:浄居国清寺殿仁山妙義大禅定門としている。

(※足利尊氏は)按に京都にては「等持院」、鎌倉にては「長寿寺」と号す。

豆州名古屋に天長山浄居国清福寿万年禅寺と云う寺あり。

畠山国清の寺なり。関東五山の下十刹の上と云う格式なり。

尊氏将軍を国清寺とは云うべからず。

足利尊氏並びに二階堂信濃守の石塔と言い伝うるあり。

般若経写本二巻、地蔵尊 経蔵の本尊なり、胎内仏弘法作と云う。

また、牧丘町誌でも同じことが解説されているが、浄居寺前住に伺うと、

その法名は、当寺で手向けたものであるとしている・・・と。


二階堂道蘊と足利尊氏は、夢窓国師の縁で並んで供養されている!

従って、本題の二階堂道蘊と足利尊氏が並んで供養されている理由は・・・、

浄居寺では、寺歴上、足利家によって七堂伽藍を造営賜ったこともあるし、

開基を二人として、「城古寺石塔にある二階堂道蘊と足利尊氏の宝篋印塔二基」

を毎年、4月28日に法要を営んでいると云う。

筆者は、あの夢窓国師に帰依した二階堂道蘊と足利尊氏の二人を開基として、

法供養を修する常牧山浄居寺の希少な精神は、永劫に伝えられるべきと思う。


 

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甲斐・一宮浅間神社の初詣は初日の出とともに!2017-01-01

2017-01-03 | 甲斐国山梨の初詣

甲斐・笛吹市の一宮浅間神社の賑あう初詣と楽しみ処~2017元旦!

一宮(いちみや)と言う人もいるが、歴史的由緒では甲斐国の一宮(いちのみや)と呼ぶ!

今号は甲州・重川サイクリングコースで初詣に行った一宮浅間神社と楽しみ処を紹介します。

甲斐国一宮浅間神社への往路、塩山重川サイクリングロードで元旦初日の出を仰ぐ!

富士山の”ご来光”は別格だが、甲府盆地の東端に安堵する新甲州人お気に入りの居住地

好きな風景の一つ・・・、甲府盆地では往古より京の都に学んで・・・”東山”と呼ぶ、

東の山峰から’日の出”が昇る!注)素人写真ですが、自然体で迎えた元旦の日の出です!

”東山”は恩若峰(982.6m)から牛奥を経て鬢櫛川(びんぐしがわ)を結ぶ筋と甲斐

大和の源治郎山(1476.6m)、大滝山(1368m)、棚横手山(1306m)、

、通称甲州高尾山(ピークは1160m)と呼ばれる宮宕山(剣ケ峰)1091.9m、

柏尾山(739m)と柏尾山大善寺を結ぶ山筋が甲斐国東端の二重の要衝として、

古代より甲斐国東端の要衝」して数々の歴史を言い伝えている荘厳な山筋である。

注)この東山に、密かに古代山岳信仰の歴史を伝えるまさに荘厳な”大滝不動尊”もある。


浅間神社一の鳥居~参道から望む冠雪の南アルプス、甲斐国象徴の大パノラマ!

 

鎮守の森の中に遷座された一宮浅間神社は、壮大なパノラマ風景が広がる処・・・! 

右端に映る尾根は石和の大蔵経寺山々麓、その向こうに薄雪の甲斐駒ケ岳、その左に

南アルプス鳳凰三山(地蔵ケ岳、薬師岳、観音岳)、その奥に冠雪の白根三山

(北岳、間ノ岳、農鳥岳)が連なる。左端奥に冠雪の荒川三山や赤石が広がり奥深い。


一宮浅間神社 一ノ鳥居(第一宮の扁額がかかる) 二ノ鳥居と随身門


平成29年 丁酉(ひのととり) 浅間神社の初詣のしおりにより・・・

浅間神社の由緒と神さま  

浅間神社は富士山の噴火を鎮めるため、山宮神社(やまみやじんじゃ)より、木花開耶姫命

(このはなさくやひめのみこと)をお迎えし、建てられた神社です。

木花開耶姫命は桜の花が咲いているようにたいへん美しく、別命を桜大刀自命

(さくらおおとじのみこと)と言われ、その心にも美徳を持った神様です。

古来より、山火鎮護、農業、酒造の守護神、婚姻、子授け、安産に御神徳があり、

近年では、会社事業の繁栄、縁結び、恋愛の成就にも御利益のある神様と崇敬され

ています。・・・とある通り、筆者もお気に入りの神社の一つです。


筆者の初詣はどの神様にも「健康第一家内安全」と「笑門来福」の誓願をしています。

お陰様で、日頃より健康管理に注意して、つつがなく過ごせているものと思いますが、

お礼参りも兼ねています。健康管理の一貫で、夫婦ともにまだ元気だけはあることで

、東京から移住する時、馴染みの自転車屋さんに進められ、山梨は、上り下りの多い

(平坦な道が少ない)ところなので軽快な自転車に買い換えて来たのが正解でした!

日常交通手段として、軽スポーツ車(タウンスポーツ車)で快適に往来をしています。

もっぱら散輪(さんりん)と称して、散歩方々、健康サイクリングを楽しんでいます。

最近は、甲府盆地の範囲内は(塩山~富士川町、甲府、石和辺りは地図なしで走れる

ようになり)、殆ど自転車サイクリングで往来しています。

運動になるし、いつまで乗れるか?・・・チャレンジです!早や高齢00才ですから。

初詣も、もちろん運動を兼ねて自転車サイクリングで行って来ました。

注)甲州市塩山から重川に沿ってサイクリングロードが通じている。

山梨鴨居寺橋を渡り~田草川橋~山梨市中村~上栗原交差点~矢作橋~相興交差点~

浅間神社~国道20号線沿い(歩道が広く歩行者がいないので走りやすい)を下り、

鷺堂の里の駅いちのみや~一宮町竹原田は満願寺橫を通る下り道があって走りやすい。

坪井橋~坪井工業団地に「目的の桔梗屋本社工場」がある。

そこから帰路は、様々なアレンジで、車も人もいないのどかな里道を走るのが楽しい!

※ぶらぶら散輪の場合は、時間を気にせず走ります。

敬老タイムでは、下り1時間の場合、上り1時間20分を見て走ると楽々です。

石和へ買い物に行く場合も、笛吹市石和の市役所前迄のサイクリングロードは快適です。

注)首都圏と違って殆ど自転車に出会うことはありません。たまに自転車と会うことが

ありますが、マナー(交通ルール)が徹底されていないので、かえって要注意・・・!


 初詣参拝の行列は、午前10時頃から昼頃には二ノ鳥居を越える!

 

浅間神社 拝殿(市文化財)      行列の参詣者

現拝殿は、江戸時代、寛文12年(1672年)造営。

桁行7間、梁間3間の一重入母屋造、破風向拝付で銅版葺・・・と解説がある。


一宮浅間神社は、「延喜式神名帳」で名神大社に列格する「甲斐国八代郡浅間神社」

の論社の一社であるとされる。

社伝では、垂仁天皇8年(BC22年)正月に神山の麓(現摂社山宮神社)創建され、

貞観7年(865年)旧暦12月9日に現在地に遷座したと云う。

平安時代末期より甲斐国一宮とされたとしている。

神道では、神に日本酒を「御神酒」として奉納するが、一宮浅間神社では、戦後、

昭和40年(1965年)から山梨県で産出されたワインを御神酒として奉納されている。

浅間神社は近隣のワイナリー等の隆盛によって支えられて、社が良く整備されている。


塩山~重川サイクリングロード~鴨居寺橋~浅間神社初詣の後は・・・、

里の駅いちのみや」笛吹市一宮町東原 鷺堂交差点側へ

「里の駅いちみや」

注)殆どの山梨県特産品のお土産が調達できる道の駅ならぬ「里の駅いちのみや」

お正月イベントでは来店客へ信玄餅の「おしるこ」無料サービスを馳走になった。

シーズン通常は、この広い駐車場もほぼ満車状態になる人気店です。

詳しくは・・・、http://www.satonoeki.com/


桔梗信玄餅の桔梗屋本社工場

桔梗屋本社工場の正月イベントは大人気!

筆者もお気に入りの一つのお店です。

桔梗屋の本社工場は、いつも観光バスやマイカー観光客で賑わっています!

特に、桔梗屋信玄餅製造ラインの見学など工場行程とは云え、信玄餅は包装も

手際よく「人の手」によってなされている様子は感動ものです。

筆者は桔梗屋黒密ときな粉を買って、つきたて餅を調達、信玄餅風の美味しい

甘味茶菓子を楽しんでいます。2/1ショップのアウトレット商品も楽しい!

詳しくは、http://www.kikyouya.co.jp/enjoy/more4/


 

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山梨・牧丘に何故「足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔」が並ぶの!?16-12

2016-12-04 | 山梨、往古の歴史と伝説!

 往古、源平合戦で天下の副将軍であった安田義定は甲斐牧ノ荘の領主!

牧ノ荘の領主を後継した二階堂道蘊は、夢窓国師に帰依して恵林寺を開基!

名僧夢窓国師は幼少の頃甲斐国で育ち、牧丘に初めて旧蹟浄古寺を開いた!

往古の山梨市牧丘は、あの夢窓国師のゆかり深い地であったようだ!

山梨市牧丘に「中牧城(浄古寺城)跡」がある!眼下に広がる風景は壮大・・・!


 今号ブログは、あの安田義定の時代(平安末期~鎌倉初期)に開かれた

「牧ノ荘」の要衝であった「現在の牧丘」で気になる『足利尊氏と二階堂道蘊が

並ぶ供養塔二基』のことを少しだけ紹介してみます!

牧丘がとても魅力的な山里であることは2013年7月旧バージョンのバックナンバー『47)にほん

の里100選「牧丘」乙女高原にレンゲツツジが彩る初夏』で紹介した。注)新ブログ引越のため削減画面容赦。

牧丘は杣口(そまぐち)筋を主に紹介したブログは、如何に牧丘が山岳信仰と大自然の奥深い処

であるかを紹介していますが、あの安田義定が領主であった牧ノ荘は戦略的要衝でもあったようだ。

牧丘には、源平合戦で源義経の副将軍として名を馳せた安田義定の詰城跡や開基寺院もある。

あの名僧「夢窓国師」が嘉元3年(1305年)に寺院として初めて開いた浄古寺もあったりして・・・、

足を留めてしまい、時間をかけることにしました。れから随分時間が経ちましたが・・・、ご容赦!

また、安田義定の詰城であったと言われる小田野城跡へ登ることが、なかなか実現できず・・・、

現在まで宿題を残したまなになっています。

現在課題に取り組んでいる「物部神社と大蔵経寺山々麓から辿る古代甲斐国・・・!?」の自習

NOTE編纂を何とか収拾して、安田義定開基と伝わる普門寺境内のルートから登りたいものです。


牧丘の宿題「足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔(供養塔)が並んでいる」訳?

牧丘の城古寺と云う処に「足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔(供養塔)」が並んでいる。

筆者は、山梨市教育委員会の現地解説版があるのだが、「足利尊氏と二階堂道蘊の供養塔」が

何故、並んで存在しているのか?」という疑問が生じたために、山梨市にも問い合わせしたが、

もし分かったら教えてもらえるようにお願いをしたものの、そのまま回答は得られておりません。

その間に、どなたか詳しくその理由(または文化財調査資料)をご存知の方がおられましたら、

教えを乞いたく・・・、今号のブログへ発信したものです。 よろしくお願いします。

注)お正月明には、夢窓国師ゆかり深い常牧山浄居寺へ伺う予定です。

もし、寺伝などを教えて頂ければ、続編として2月号でお知らせいたします。


今号では筆者の自習中である推論を以て紹介してみます。ご寛容に・・・!


足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔は、ひっそりと葡萄畑の中に並ぶ!

足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔(供養塔)注)不詳だが左が足利尊氏の供養塔!?


この宝篋印塔の側に山梨市教育委員会の解説版・・・。

山梨市指定有形文化財」城古寺宝篋印塔(じょうこじほうきょういんとう)

管理者:城古寺区 所在地:山梨市牧丘町城古寺319番地 

昭和51年3月30日指定

「この場所の字名(城古寺字石塔)の由来となった二基の宝篋印塔で、

足利尊氏、二階堂道蘊の供養塔と伝えられています。

東塔は相輪の一部と塔身を欠くものの、室町期以前にさかのぼる市内屈指

の大型で均整のとれた宝篋印塔です。

笠は軒上四段、軒下三段で、隅飾突起は輪郭をもち、二孤で描かれ、わずか

に外反しています。基礎は上部三段とし、各面に格狭間が彫られています。

西塔は塔身を欠き、笠は軒上四段、軒下二段で、隅飾突起は輪郭をもち二孤

で描かれ、外反しています。基礎は石質が異なり、上部の段は大きく下部は

極端に短くなっています。笠の軒を反らせ軒下に隅木を入れている点は特異

です。」山梨市教育委員会・・・と、以上の解説があります。


「何故、足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔が並んであるのか?」

筆者の宿題となったのは、単純な疑問と興味ですが・・・!

①足利尊氏は鎌倉倒幕で室町幕府を開いた人。宝篋印塔は中央の大きいのが足利尊氏!?

②二階堂道蘊は鎌倉幕府の政所執事を務め、安田義定の領地「牧荘・高橋荘」を後継した

  と云われる人物。二階堂道蘊(出羽守貞藤)は1330年(元徳2年)に鎌倉に居た名僧

 夢窓国師を招いて乾徳山恵林寺を開基した人。注)この時、道蘊は幕府引付頭であった。

●この二人は、鎌倉倒幕で敵味方になった二人ではないのか・・・?並ぶ理由が知りたい!

●牧丘の人々が、何故、鎌倉・室町幕府の立場の異なる二人を並べて供養するのか・・・?

注)牧丘町誌、第2章古代と中世 三、夢窓国師と二階堂氏の項の末尾に次のような記述。

  ・・・尚現在、曹洞宗大泉寺末となっている窪平の浄古寺仏殿に、夢窓国師の宝塔と

  浄居国清寺殿仁山妙義大禅定門と法号を記す足利尊氏の牌子が祀られており、また

  往古の浄古寺旧蹟には足利尊氏並びに二階堂信濃守道蘊と伝えられる石塔がある。

      しかしながら、足利尊氏の法名は「等持院仁山妙義大禅定門」であって「国清寺殿」

  の文献は見当たらない。この点については、既に「甲斐国志」でも「尊氏は京都にて

  等持院、鎌倉にては長寿寺院と号す。豆州名古屋に天長山浄居国清福寿万年禅寺と云う

  寺あり、畠山国清の寺なり。関東五山の下、十刹の上と云う格式なり。「尊氏将軍を

  国清寺とは云うべからず」と指摘している。国志の云う畠山国清(号道誓)とは、

  足利氏の一門で南北朝前期の正平8年(文和2年、1353年)から同16年(康安

  元年、1361年)まで関東執事を務めた武将である。

  いずれ浄古寺の牌子は、後世足利尊氏との混同があったものと思われるが・・・。

  注)常牧山浄居寺では「牌子の法号は当寺で手向けられたものとしていると聞く。

  以下、推論も記されるが、何れにしても牧丘浄古寺址に夢窓国師ゆかりの往時の

      牧荘領主二階堂道蘊の宝篋印塔があるのは納得するも、足利尊氏の宝篋印塔は、

      筆者の推論で記すように夢窓国師に足利尊氏が帰依した縁からか、 理由不詳だが。

  往時の牧丘では(後の教育委員会)では、足利尊氏と二階堂道蘊を選んで宝篋印塔

  が建立されたとするしか、現在のところは・・・考えるしかなさそうである!?

)二階堂道蘊と足利尊氏の縁・・・!?さらに牧丘町誌より推論のネタを探す・・・。

  元弘元年(1331年)元弘の変では、道蘊は公式の和議のために奔走したり、

  北条高時に対し、(後醍醐)天皇と戦うことの不臣を諫めたが受け入れられず、

  結局、戦になり、幕府方だった足利尊氏、新田義貞らが官方側に従ったため、

  鎌倉幕府は敗退、ここに鎌倉幕府は滅亡する。

  この時、道蘊は政所執事に任用されていた。

  道蘊は一時、幕府の元凶として捕らわれの身になるが、その賢才と正中の変の際に、

  後醍醐天皇の身を守ったことで、罪を赦され、建武元年(1334年)には、

  建武親政下において、北陸道を管することになったが、しかし、いきなり道蘊に

  陰謀の科がかぶせられ、京にて一族は誅殺され道蘊68才であった・・・とあるが

  どうやら、足利尊氏と二階堂道蘊が牧丘で2人揃って供養される由縁はなさそう

  なので、やはりあの夢窓国師が取り持つ縁で、牧丘・浄古寺ゆかりの方が夢窓国師

  に帰依した二人を供養したのではないかと推論することにしたものです。


牧丘には、中牧に字名で「城古寺」と云う地域がある。

その要衝に、そこに信玄・家康が築いた「中牧城」があった。

地元の伝承では、往古は牧荘領主の安田義定の居館があったと云う。

その後、鎌倉時代には、領主を継承した二階堂道蘊も中牧を要衝と

したと云う。

その城古寺には、あの夢窓国師が初めて開山した「浄古寺」があった。


山梨市オフィシャルサイト~市指定有形文化財「木造釈迦如来坐像」の項に・・・

「浄古寺は、嘉元3年(1305年)夢窓国師が寺院として開いた初めてのものです。

当初は、現在地より北方の城古寺地区にありましたが、天正年間(1573~1592年)

に内藤氏による浄古寺城築城のために当地(山梨市牧丘町窪平154)に遷り、元和年間

(1615~1624年)に陽山宗広が再興して曹洞宗から臨済宗に改宗しました」とある。

実は、城古寺には、あの夢窓国師が開いた浄古寺の旧蹟があったのです。

往時、安田義定の後、牧荘を領地とした二階堂道蘊は、元徳2年(1330年)、夢窓国師

を招いて乾徳山恵林寺の開基しているし、南北朝時代、足利尊氏・直義らは北朝を擁立して

室町幕府を開き、夢窓国師に帰依して天竜寺船など献策の恩恵も受けている云われるので、

二人は牧丘浄居寺にゆかりがあった夢窓国師との繋がりで宝篋印塔が建立されたものとする

推論にたどり着いた。

注)従って、筆者はかつて「夢窓国師の乾徳山岩窟禅修行と乾柿伝説」とその由縁を調べた

ことがあるので、夢窓国師ゆかりの地域の人々が、往時の二階堂道蘊と足利尊氏を選んで、

供養塔を建立したものと推論するものです。注)浄居寺では二人を開基としていると伺う。

この宝篋印塔は、いつの時代に建立されたものかは不詳だが、往古、旧蹟常牧山浄居寺が

あった頃、開基二人の供養のため、往時の境内地(南端)に建立されたのではないかと推定。

また、少なくとも徳川家康が中牧城を築城した後か、江戸時代になって浄古寺旧蹟が現在の

浄古寺(窪平)の場所に遷された後、夢窓国師の旧蹟のゆかりを偲んで、江戸時代になって

地元にて、供養塔(宝篋印塔)二基が建立されたものではないかと推論することにした。

注)恵林寺開基二階堂道蘊は、今恵林寺開山堂には、木像の姿すら見当たらない・・・!?

注)現在でも、この供養塔は、夢窓国師開山と云われる牧丘の浄居寺が供養している!?


城古寺に伝わる「中牧城跡」別名浄古寺城は今も古城跡の風情が残る!

今は、八幡神社が古城跡に静かに佇んでいる!

中牧・八幡神社 祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)と応神天皇である。

 

中牧城二の丸跡に、諏訪神社(現在は隼)があったと云う。

戦国時代武田信玄の頃、天文17年(1548年)、徳川家康の頃、天正17年

(1589年)の築城の時も、城内鎮座社として祀る。牧丘町教育委員会

・・・と古い掲示板が掲げてある。

注)この境内に、宝篋印塔二基 この南300m先の台地にありと標識。


 秩父裏街道(武田信玄の時代甲斐と武蔵を結ぶ軍用道)の要衝中牧城跡

中牧城跡:主郭付近と天守台跡碑 往古養蚕の里であったので蚕影山の碑も建つ。

浄古寺城 別名:中牧城、城古寺城、東郡城とも云う。※国指定文化財

浄古寺城は、WEB城郭図鑑によると、平安末期~鎌倉初期 安田義定の舘が

置かれた地であるとも記され、弘安年間(1278~1288年)には、二階堂

道蘊が浄古寺城を修築したとも云う。※筆者も伝説ロマンを賛同するので記載。

戦国時代、天文17年(1548年)武田信玄の時、甲府躑躅ケ崎舘から要害城

を経て、俗称秩父裏街道を経て、秩父往還に繋がる甲斐国と武蔵を繋ぐ軍用道と

して甲斐国にとって要衝の城であった。在地豪族の大村氏に修築させたもので、

大村加賀守・伊賀守が城主となるが、武田氏滅亡後、一時、無主状態になって、

天正壬生の乱が起こり、徳川家康は相模北条氏と対峙したが、北条氏は郡内を征し、

秩父往還沿いの浄古寺城を本拠とする大村党が北条方に帰属する事態が生じたため

天正17年(1589年)徳川家康は、家臣の内藤三左衛門が城代として築城大修

復を命じている。それほど戦略的に重視された城であった。※現地解説版と諸資料参照。

遺構は、郭跡、土塁、空堀が見られたが、現在は農地(葡萄畑)になっている。

武田信玄の時代、甲斐国から武蔵国へ通じる秩父往還沿いに置かれた要衝であった。

甲府躑躅ケ崎舘の詰城として要害山城が置かれたが、その要害山城から秩父裏街道

と呼ぶ間道を開き、秩父往還(雁坂道)を結んで武蔵へ通じる軍用道の要衝とした。

牧丘の「中牧城」は甲斐の要衝にあったので徳川家康も重視していたことがわかる。

現在見られる天守台跡などの形跡は、徳川氏になっての築城跡ではないかと云われる。


浄古寺城天守台跡から望む塩山と御坂山塊 北西には倉科の長閑な里が広がる

城の規模は、東西約330m、南北約430mで本丸と天主台跡、二の丸、三の丸、

大手門、搦手門跡、城内鎮守八幡社周囲の塹壕も一部分は昔を偲ぶことはできる。

付近には城にまつわる地名で屋敷、堀之内、替地、請地、田屋(胎屋)掘端などある。

平成16年12月牧丘町教育委員会 現地解説版より。


快晴なら、牧丘から見る富士山は、荘厳に御坂山塊の向こうに聳える!


 

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紅葉の絶景ポイント!清里の東沢大橋と八ケ岳高原大橋!16-11

2016-11-08 | 清里から望む八ケ岳の...

山梨の絶景ポイント!清里の東沢大橋と八ケ岳高原大橋の紅葉!

今号は、山梨県北杜市「清里高原」の紅葉の絶景ポイントを紹介します!

清里ピクニックバスで巡る八ケ岳連峰の絶景「東沢大橋」の展望ポイント!

 


「清里」・・・、今の山梨県内では、富士五湖と人気度を競っている!

   首都圏では、「清里」は知名度が高く”自然豊かな清里高原”のイメージがある!

   だが、中高年の記憶は未だ冷めない1970年~80年代にかけて「an・an」、

   「non-no」に代表される女性誌が頻繁に掲載したため、いわゆる「アンノン族」

   が大挙押し寄せて、清里ブームが起こった。その後バブル期に入り、バブル成金

   も便乗して、 清里、特に清里駅前通りの町並みをメルヘン調に様変わりをさせて

   しまい、それが、今では空き屋群(ゴーストタウン)化しているのが寂しい。

   しかし、清里は、かつてアメリカ人宣教師ポールラッシュが導いた「清泉寮」や

   「キープ農場」、工芸家ギャラリーを集める「萌木の村」などは、今も大人気!

    ポールラッシュの開拓精神は今も引き継がれて、蘇りつつある。

   特に、高原観光開発は二度と同じ轍踏まないようにしたいものです。(YS記)


 清里駅前と清里周遊”ピクニックバス”!

人気の小海線ハイブリットカーで清里を訪れるお客さまのために、出迎えてくれる!

但し、清里ピクニックバスの運行期間は2016年は、4月29日~11月6日・・・。

例年、ゴールデンウイーク~11月初旬の週末まで運行しているので、小海線に乗って

清里ピクニックバスを利用して清里を巡ると、また、”旅気分”が倍増するものです!

筆者は、11月4日、まだ間に合うかと思って出かけて見たが、東沢大橋付近は紅葉の

最盛期であった。しかし、異常気象の影響もあってか・・・、以前見た紅葉シーンには

及ばなかったが、相変わらずダイナミックな八ツ岳連峰と幽邃の大自然の紅葉シーンに

圧倒されて多くの観光客は歓声を上げていた。16年秋の紅葉写真を紹介します。


清里案内と清里ピクニックバスのことは清里観光振興会の綜合サービスHPを参照。

http://www.kiyosato.gr.jp/sougou/bus.html


清里一の紅葉の人気スポット!「東沢大橋展望ポイント」!

東沢大橋展望台より八ケ岳連峰を望む! 

八ケ岳連峰の主峰「赤岳(2899.2m)」は、東沢大橋からは良く間違えら

  れるが、正面に緑が濃い三角峰は牛首山(2280.1m)で、その真後ろに

  少しだけ冠雪している赤岳が稜線に沿って覗いている。

  参考:八ケ岳(八ケ岳連峰)は、日本百名山では南八ケ岳のみを指す。

  東沢大橋から望むと①主峰赤岳(牛首山奥の主峰赤岳は2899.2m)向かって

  左側に、②旭岳(2672m)、③権現岳(2715m)、④編笠山(2523.7m)

  と並ぶが、実は峰が八つあるから八ケ岳と言うのではなく神話を始め多くの

  説があって面白い。筆者は「たくさん」という意味で八とした説を、神話から

  見ると、分かりやすい説だと思う。

  注)富士山と背比べをして、蹴り飛ばされて八つの峰になったと言う神話。  

  赤岳の奥に⑤阿弥陀岳(2805m)、赤岳の北側尾根に⑥橫岳(2829m)、

  ⑦硫黄岳(2760m)などが連なるが、ダイナミックな連峰は類を見ない。

  八ケ岳連峰は、小渕沢~清里~野辺山の展望ポイントによって大きく山容が

  変化して、どこから見ても見応えがある!

  往古の山岳信仰の名残があちこちにあり、特にその山名はそのゆかりを語る。


清里の観光パンフレットの写真はもっと紅葉が美しいので参照して下さい。 


八ケ岳高原大橋から望む八ケ岳連峰は、「赤岳と連峰」がダイナミック!

この八ケ岳高原大橋の展望ポイントは、清里駅寄りの駐車場辺りが良いが、

マイカーの人達は殆ど先を急いで通り過ぎることが多い!ジックリ眺めたい処!

八ケ岳高原大橋は、通称「黄色い橋」とも呼ばれ、橋から北に「八ケ岳」、

南西に南アルプス(甲斐駒ケ岳、鳳凰三山、北岳)、南に富士山、南東に奥秩父

山塊に属す「金峰山」が望めて、360度の大パノラマが展望できる。

注)紅葉の見頃は例年、10月下旬~11月中旬。

  主な樹種は、ナラ、ブナ、ナナカマド、カエデ、カラマツの紅葉が広がる!


八ケ岳高原大橋から八ケ岳連峰の他、南アルプス、富士山、奥秩父山塊が望める!


 右に甲斐駒ケ岳、左に鳳凰三山地蔵岳の間に覗く冠雪の高山は北岳(3193m)

注)北杜市からはここだけが北岳ビュー!


八ケ岳高原大橋の車道の向こうへ渡ると、こんな富士山の遠望が望める!

 

注)但し、大橋の歩道は清里方面に向けて左側にあり、この風景を撮るには、

  反対側で危険!横断は走行車がない時、安全を確かめて渡るしかありません。


 せっかく大橋の歩道の反対側に行けたので、日本百名山「金峰山」も撮影!

 


八ケ岳高原大橋と呼ばれるだけあって、やはり八ケ岳連峰の展望は清里随一!

 


 この辺りには、中村農場の地鶏料理の他、ダイワロイヤルホテルや一般的な

ドライブインレストランもあるが、ここでは、少々ランチタイムは少々並ぶが

「中村農場」の名物地鶏の親子丼などがお薦め、産みたて卵も多彩で栄養豊富!

八ケ岳高原大橋の手前、ピクニックバス停「八ケ岳高原大橋・中村農場前」


 

清里ピクニックバスは、1日周遊620円。

筆者は、東沢大橋で途中下車をして、散策路を歩いて下り清泉寮に立ち寄り小休止。

次のバスに乗り継ぎ、八ケ岳高原大橋・中村農場前で下車。先に八ケ岳高原大橋を

撮影して戻り、早めに並んで昼食は中村農場(地鶏食堂)へ早めに並んで中村農場

の地鶏料理、名物「親子丼」(単品¥980)を食した。

味は各自の好だが、卵は新鮮で味も濃く、栄養満点の気がして満足感はありました。

注)いつもここだけはシーズンは平日でも並んでいるので、待ち時間にゆとりを

持っていた方が良いが、ピクニックバスを乗り継ぐ場合は、十分過ぎる位の時間が

あるので、事前にバスの時刻に合わせた旅程表を組み立ててから、バス旅のコツを

心得て、多いに楽しんで来られたらベターです。マイカーのような危険が伴わない

だけ、凄く、フリーでゆっくり旅が楽しめますよ!


 参考までに、「萌木の村」のROCK ”名物カレー”は・・・、

 残念ながら、16年夏に火災で焼失したため、しばらくの間我慢です。

 舟木社長や従業員の皆さんも、すっかり立ち直って再建を始めていました。

 帰りにお土産だけは、「萌木の村」で買い求めました。 

 注)逞しく再建が始まった「ROCK」。

 もちろん、ホテルと村内のレストランは営業中なので立ち寄りもOKです。


 

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甲州・枯露柿の里「松里」に秋の訪れ!16-10

2016-10-05 | 甲州に秋が来た!

甲州・枯露柿の里「松里」に秋が訪れました!

10月初旬、美しい里山の「紅葉風景」の先陣を切って、甲州百目柿の色づき

が始まった!今号は、筆者の大好きな「松里の秋の訪れ」をお伝えします!

銘品松里の枯露柿になる甲州百目柿は、こんなに色づいてきました!

 


松里の「甲州百目柿」と銘品「松里の枯露柿」

松里で実った「甲州百目柿」は、往古、山梨県が甲斐国=甲州と呼ばれていた頃から、

甲府盆地周辺で栽培されたことで、「甲州」の名が冠されている。

その「甲州」でも、松里地域は江戸時代より「松里の枯露柿」としてブランド化されている。

枯露柿の歴史を辿ると起源は不詳なれど、あの武田信玄の時代に岐阜より蜂谷柿などを

輸入して柿の生産と保存食や非常食に枯露柿の生産を奨励したと伝えられています。

そのルーツを辿ると、実は乾徳山恵林寺を開いた夢窓国師が奈良東大寺で受戒後、

19才の時、後に恵林寺の山号にした「乾徳山」に籠もって岩窟禅修行を行った際、

一日一果半の乾柿を食して90日の満願を達したと言う伝説があります。

この伝説は乾徳山麓の徳和山吉祥寺に伝わる。

鎌倉時代末期、その話を知っていた往時の甲斐牧荘領主二階堂出羽守貞藤(道蘊)は、

元徳2年(1330年)9月、往時の名僧夢窓国師に深く帰依し、自邸を提供して、禅院に

改めて、夢窓国師の開山で恵林寺の開基を成し遂げているが、招聘を始めてから長い

年月がかかっている。

高僧夢窓国師を招聘するに際して、領主二階堂道蘊はあらゆるもてなしを尽くしたが・・・、

その一つに、明らかな証しはないが、領主二階堂道蘊は現恵林寺を中心とした後世の

松里(現在の甲州市塩山小屋敷、藤木から三日市場、上井尻周辺)地域農民にその話

を吹聴し、高僧夢窓国師を迎えるために乾柿の生産を呼びかけて”もてなした”のが始まり

で、開山の年の暮れに、夢窓国師に教わった枯露柿製法の乾柿で”もてなし”たのでは

いかと推定されている。

そして、その乾柿製法は、もちろん、夢窓国師が18才の時(乾徳山岩窟修行の前年)に、

受戒に行った奈良で乾柿製法を学んだものを、甲斐に帰郷して直ぐ試し、会得している。

往時甲州には自生のアマンドウかヤマガキしかなかったため、滋味のあるアマンドウを

乾して食したと思われる。その後、その製法を農民に伝えて行ったものと云う。

ここでは詳しく述べる機会がないのでごめんなさい。


今年の甲州百目柿の収穫は、あと僅か、11月には枯露柿作りが始まる!

窓国師と松里の枯露柿(乾柿)の係わりは、史実では証されていないが、とても興味深い。

筆者は興味貪欲に、夢窓国師が岩窟修行で食した干し柿は、一体何であったであろうと調べ

てみたところ、何と往時は唯一の自生柿「アマンドウ=標準語はマメガキ」を干したものである

ことが推定されました。筆者が調べた「夢窓国師の乾徳山岩窟修行と乾柿伝説」については、

また、機会が有れば解説したいと思いますが・・・、

実はそのアマンドウですが、今は殆ど自生はなく、殆ど忘れられています。

標準名で、「豆柿=マメガキ」と言われるように、小粒ですが熟すと葡萄のような色になり、

木になっているのを子供の頃食べた記憶のある高齢者は少なくありませんが、今は殆ど

ありません。しかし、筆者が出会った八代の農家には、庭に植えたアマンドウが毎年実る

ようになったので、現在でもアマンドウの乾柿を作って下さっています。

一度食して見てもらえると・・・、その滋味を引き継いでいることが良くわかります。

その滋味(エキス)を台木に接いで育ったのが、実は「松里の枯露柿」なのです。

筆者の編集NOTE「銘品松里の枯露柿の滋味は、夢窓国師の導きにあった!」は、

そのことを詳しく解析しています。

甲州百目柿と枯露柿のことは、特に夢窓国師との係わりは、奥深いので・・・、

これくらいにしておきます。


庭先に咲く朝顔もイイが、畑の至る処に咲く朝顔は”色鮮やか”・・・! 

鮮やかな「マルバアサガオ」が、つもの散歩道に咲いていた!

英語名もある「Morning glory 」と言う。「栄光の朝」とでも訳せば、とても元気が出る!

学名は、Ipomoea indica と言う。アサガオは、マイホームの軒先で良く見かけたが、

花ことばは、「明日もさわやかに」「愛情」「平静」などとてもお気に入りです。

但し「はかない恋」とも言われるので、若い人の初恋のような意味なのかもしれない。


 松里に”ナツメ”が実っていた!

 

塩山藤木の一角に、子供の頃の懐かしい「ナツメの実」が鈴なりになっていた!

丁度、お庭にはご当主がおられたので、声をかけたら一枝頂けたので懐かしく熟れた

ナツメの実を食べさせてもらったら、リンゴのような味がしました。懐かしい味です。


 「セイタカアワダチソウ」は、花言葉の通り”生命力”のある野草だ!

セイタカアワダチソウはキク科アキノキリンソウ属の多年草で、高山歩きをする筆者

にはアキノキリンソウ属と言うだけで、自然界の野草を思い起こすが、

この種は北アメリカ原産で日本では切り花用の観賞植物として導入され外来の帰化植物

であるようだ。ススキなどの在来種と生け花界では競合しているようだ。

同じような帰化植物のブタクサと良く似ていて、一時は花粉症の元凶だと考えられた

ことがあるが、誤解が晴れた現在は、切り花の世界でも鑑賞食物として、ハギ(萩)

の代用として用いられている。

英語では、カナディアンゴールデンロッドと言う堂々とした野草である。


珍しくなった秋の味覚”いちじくの実”や”アケビの実”も実っている! 

 


 松里はほんの道草散歩のつもりが、こんなに楽しい”松里野道”なのだ!

里山は一日歩いたら食物図鑑ができるほどに・・・、畑や野に・・・、

春に咲く花や秋に実る果実は、とても心豊かにしてくれる!


 

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