新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

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甲州市塩山「中萩原」を辿る⑧「中萩原」は、往古の風景を想い出す!22-03

2022-03-01 | 山梨の魅力再発見!

「中萩原」は、前号の下萩原と上萩原の中心にある!

まさに、慈雲寺の大糸桜など、往古の時代を彷彿する

里山である。瀧本院と慈雲寺を結ぶ古道(現、農道)は、

現在は「塩山桃源郷」と呼ばれ、美しい南アルプスを

背景に甲府盆地を臨む往古の「金の道」に相応しい!

今号は「甲州市塩山中萩原」を訪ねることにします。


塩山桃源郷からの冬の眺望!

甲州市塩山の市街地に、象徴「塩の山」と背景に大蔵経寺山の峰、

その後ろに南アルプス白根三山の北岳・間ノ岳・農鳥岳と望める!


塩山桃源郷から見る滝本院と塩ノ山、大蔵経寺山と南アルプス連峰!


中萩原村=現甲州市塩山中萩原   ※大日本地名辞典参照。

上粟生野(かみあおの)村の東に位置し、南の恩若峰(標高約982m)から、

北西に低くなる暖傾斜の土地(扇状地形)で、西流する重川との間に開ける。

東堺を川幅7間余りの佐野川が北流して重川の支流文殊川に合流する。

名は「なかはぎわら」と呼ばれる。字小山は文安2年(1445)11月15日の

武田信重寺領目録写(甲斐資料集成稿)に、山梨郡萩原郷の内小山と見え、

年貢二貫文の同地は、板垣殿から向嶽寺へ寄進された寺領であった。

・・・と解説される。

今流に言えば、「塩山桃源郷」と呼ばれるような桃の花畑がまぶしい・・・、

甲府盆地の展望が開ける”美しい里山”である。

近年は、里山好きの観光客が大勢訪れている。コロナ渦前ですが・・・。

ただ、山裾の扇状地に開けているため、坂道はきつい。


桃源郷に桃の花が咲いたら・・・こんな風景に・・・!


「荒沢山瀧本院」は、往古、あの武田信玄が度々休んだところと云う!


「荒沢山滝本院」・・・、真言宗醍醐派。

本堂には「不動明王像」が祀られている。

花見のシーズン前、今は本堂の再建中!庫裏はモダンな住戸になった!

創建は明らかではないが、昔、真言の修験僧が開基したと伝えられる。

※一説には、真言宗の普及のため、弘法大師兄姉が訪れて、弟の方が

この地に留まり、布教に務めたと言うのが、この寺の始まりという。

また、この寺の直ぐ上の方に御龍石という大きな石があり、往古、武田

信玄が黒川に行く途中、休んだと云われる。

この寺の奥は”滝ノ沢”と云い,深い山沢である。

奥の瀧には”大蛇の・・・伝説”が伝わる。

応永8年(1401年)千野に武田館を信春公が構えた時、祈願寺として定め、

792坪の寺領地を寄進。武田辰巳不動尊として崇敬したと伝わる。

その後、信玄公の時代、黒川金山の開拓(掘削)にあたり、黒川街道の

道筋にあたり、しばしば立ち寄って休憩したと伝わる。

この地は、風光明媚な寺として伝わり、塩山桃源郷の遊歩道に指定され、

塩山八景にも指定され、年々、訪れる人も多くなっていると云う。


天竜山慈雲寺への野道に、「日向薬師」がある

※以前、春爛漫ノ頃、撮影した写真だが、毎年4月中旬頃になると・・・、

境内は美しい展望の公園にもなる。


桜の満開の季節には、遠望を楽しむ家族ずれが多い!遊具もある公園!

小字向久保組の守護「薬師如来」を祀る! 甲府盆地の展望が美しい!

”お薬師さん”として親しまれ、春は、桜が美しい!

昔、柏尾山大善寺の薬師如来が”日陰の薬師”であり、この日向薬師が

陽向の薬師と呼ばれたことがあった。※地元旧家の萩原さん方にある聖徳4年の版木。

昔は、陽向堂、薬師瑠璃光如来医王などと称し、病む者、悩む者が、

六角堂に列をなして祈願をしたとも伝わる・・・・・。


この「陽向堂」から、慈雲寺へ下るのが、桜の季節の定番ルートだが、

今回は、めったに行けない地図に載る”八天宮神社や稲荷神社”を訪ね

ようと思ったが、残念ながら、道が解らず断念した。地元民に聞いたが、

「子供の頃の想い出はあるのみで、最近は行ったことがない」と言われる

ほど山の中なので、残念ながら、参詣するのを取りやめた。

「今からでも良かったら、車で案内を・・・と親切に言ってく下さる奥様も

おられたが、まだ、何件かの取材もあるので・・・」と・・・、失礼した。

その神社は、駒形社、大原山神社など、山梨県神社庁の資料によると、

由緒不詳で、間口3尺、奥行6尺5寸の記録のみ有り、撮影を中止した。

しかし、「八天宮社」は山中なれど、石鳥居もあり、参詣して見たかった

が・・・、社伝のツマの軒下に菊のご紋があって、神武天皇から八代の

天皇をお祭りしてあると云う。

山梨県神社庁の資料によると・・・、

「八天宮社」の鎮座地:甲州市塩山中萩原3601

祭神:神武天皇、緩靖天皇、安寧天皇、銘徳天皇、考昭天皇、考安天皇、

    考霊天皇、考元天皇。

例祭日:10月15日、宮司名:今澤茂信、境内地:442坪、氏子戸数:250戸

由緒沿革:創建年月日不詳。

天正2年(1574)武田信玄公より2貫500匁寄進。宝永7年(1710)地頭役、

松平甲斐守により、本殿再興され、同年、信徒により、石段100段、尚

その上10段の石段を築き本殿を安置、文政2年、本殿造営、元治元年

(1884)、昭和57年石鳥居、石段、御手水舎、石灯籠が氏子より寄進。

とあるが、山中にあるので地元民も遠ざかっているようだ!


「稲荷神社」は、写真は撮ったが、私邸の勧請神社にて、地図に載るも、

地元慈雲寺住職にも尋ねたが、ご存じなかった・・・、省略した。


天龍山慈雲寺の現在は「大イトザクラの慈雲寺」としても有名・・・!

近年、数度か訪れた時、筆者の撮影した慈雲寺の大糸桜の満開の写真。

桜の満開は、例年4月中旬頃。大勢車で訪れるので、専用の駐車場は、

檀家のボランティアの方が大忙しだ。できるだけ早朝参詣をお薦めです。


「天龍山慈雲寺」の瀟洒な三門から見る本堂と広い境内地・・・!

甲斐国志:巻之七十五 仏寺部第三・・・以下のように記される。

「天竜山慈雲寺」中萩原村

同宗(臨済宗)同末。黒印七段四畝十二歩。本尊十一面観音。夢想の開林と云う。

末庵二、心華庵・獅子庵と云う。共に除地なり。この辺りに夢想手植えの

西湖梅とて、高さ二丈五尺余。囲一丈七尺余なる古樹あり。

慈雲寺所蔵に康燕四十三年書す校者曰く康燕四十三年は清の聖祖の時

にして我が宝永元年なり。補陀羅迦山普齊寺碑記あり。全文付録に載す。


中萩原の北西部にある。 「天龍山」と号し、寺号は「慈雲寺」。

”三門”を潜ると正面に大イトザクラと本堂がある。その裏に墓地。

その右側に庫裏等あり、樋口一葉の文学碑等が並ぶ。

本尊は聖観音。暦王年間(1338年~42年)に夢想国師の開創と伝わる。

創建時は”鎌倉建長寺末であったが、慶長年間(1596~1615)に雲山に

より再興。その時、京都妙心寺派に転派。(寺記)

鎌倉時代作と云われる絹本着色十六善神像図など所蔵。

江戸時代には、黒印寺領7反4畝余りを与えられ、末寺に心華庵、獅子庵

があったと云う。(甲斐国志)※心華庵(跡)は、江戸時代末期頃、甲州に

黃璧宗が広まり、甲府城代も深くこれに帰依し、同州の信行寺(後塩後)

の支配下だったが、後に荒廃し、当地の人々は、その支配を慈雲寺に

願った。当時、心華庵は庚申堂とも云った。

樋口一葉の父大吉も”慈雲寺にあった私塾に学び、明治38年理仁学舎と

として命名された。境内には大正11年(1922)樋口一葉の文学碑を建立。

幸田露伴の撰文、賛助文には、地元有志の他、坪内逍遙、与謝野鉄幹・

晶子、森鴎外、田山花袋などが名を連ねる。また、真下晩松の碑もある。

※中萩原の益田家の出身、文久2年(1862)に江戸に出、幕臣真下家の

家禄を買い、葉書調書調役組頭となり、慶応2年(1866)、陸軍奉行及び

支配に任ぜられたと云う。


重郎原遺跡

甲州市塩山中萩原にあり、国道411号線沿いの中萩原と上粟生の堺

付近、標高551mに位置する縄文時代中期の集落跡。

昭和37年(1962)多量の土器が発見され、発掘調査。住居跡は東西、

2.8m、南北2.8mのほぼ円形をなしており、五角形の石囲炉、柱穴

5基が検出された。付近には、同じ縄文時代中期の北原、柳田、糠

(ぬか)屋敷遺跡、殿林遺跡(※国指定重要文化財大型深鉢が出土)

がある。


神社の殆どが小さく無人、地理も解りにくいので省略。

唯一、「若宮八幡社」を尋ねてみた・・・!

若宮八幡社 中萩原957

「若宮八幡社」※山梨県神社庁

鎮座地:甲州市塩山中萩原957 所属:東山梨支部

御祭神:大鷦鷯尊(オオサザキノミコト=応仁天皇の第四皇子。

      母はナカツヒメノミコト。8世紀後半の倭国の大王。

境内地:352坪 氏子戸数:17戸。


現在の小さな神社所在地を探すのは、難しい!

この”八幡さん”も、中萩原の番地の近くまで来て、尋ねたが分かる人は

なかなか見つからなかった。「子供の頃、はちまんさんという神社へ行っ

たことがあるが、何という神社か解らない。」「その神社の隣の敷地の

居住者の方に辿り着き、ようやく「若松八幡社」は、そこの鎮守の森の

中にある」と教えて頂いて、道も詳しく伺って、辿り着けた次第。


大原山神社ー塩山中萩原1343 国道411号沿い、塩山北中と神部局間。

祭神:大山祗命

由緒沿革は、不詳。境内地152坪。

明治12年の神社明細帳に「本殿間口三尺、奥行六尺五寸」と記載。


駒形社ー塩山中萩原170

祭神:保食神

由緒沿革は不詳。境内地93坪。

いずれも、氏子は20戸余りで勧請。かなり小規模な鎮守神である。


帰路にもう一軒の寺を尋ねるために、元の道へ戻り、旧黒川街道へ

辿り着き、最期の立ち寄りとなった。


昔、二つの寺が合併して、「滝見山法正寺」になった! 珍しいお寺さん!


滝見山法正寺本堂は、現在も立派に輝いている! 筆者は・・・、

もしかしたら、お寺の近代経営のヒントがあるかも知れないと想像した。


「滝見山法正寺」ー甲斐国志 巻之七十五 仏寺部第三によると・・・

浄土真宗西派余間席なり。除地千八十坪。文明中沙門道善という者、

善願寺天台の古刹千野村にあり、福蔵院本村にあり、源誓坊光寂弘法

の寺なり、二寺を合して堂宇を営み、旧号を削り、法正寺と改む。

寺宝に楊州大雲寺の鑑真が持ち来る仏舎利一顆、仏践土二塊、及び

檗本の一切経、武田家の飯椀一具、その他図書等あり、塔中正善寺。

と記される。

即ち、千野にあった善願寺と中萩原にあった福蔵院の二つの寺を合併

して、一つの法正寺という寺を創造した珍しい寺院の経営構造である。


法正寺境内の「庫裏」は、とてもモダンな近代住宅になっている。

恐らく、後継のご子息の意向を汲んで、車や家はモダンになっているの

だと筆者は、勝手に想像して帰路に着いた。

帰路は急勾配の下りなのでブレーキが大事。安全・安心を第一に!