新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

「現甲州市「旧於曽鄕」を辿る!@塩山上於曽に「塩山向嶽寺」が開山21-04

2021-04-01 | 山梨の魅力再発見!

「塩山」の地名の発祥・・・、「塩ノ山」でもある!

「塩ノ山」は塩山市街地の中央に位置する孤山。

標高554.7m。旧塩山市教育委員会の解説版は始まる!

甲州に移住して以来、温故知新のため筆者は数々の

古文献や歴史文献を読んだ中で山梨新報社斉藤氏の

「興味深い」文章を見つけた!

それは、古代甲斐國の初代國司”田辺史広足(たなべのふみ

ひろたり)赴任して、巡視に出掛けた時、あまりに

塩山の風景が往時の都の「耳成山(みみなしやま)」に似て

いるので郷愁を感じ、「塩ノ山」南麓に別邸を構

えた。と、云うように書かれていたことを想い出す。

今号は、於曽鄕の象徴「塩ノ山」と南麓に開かれた

「上於曽」を紹介します。


塩山」の名の由来となった「塩ノ山」は古都の風景を彷彿した!?


移住者の新人は、先ず「塩ノ山」へ登り、真面目になって、南麓

に「田辺史広足(たなべのふみひろたり)」の別邸遺跡ないものか探した。

そして、作者(斎藤氏)を訪ね・・・、教えを乞うた!

何と「想像した・・・!」と、有り難く”創作”を教授頂いた!

その時、温古の勉強をするには証しばかりが全てではいことを学び、

移住地(甲州市塩山)の興味の範囲を大幅に広げていった次第!


現在甲州市塩山上於曾にある「塩ノ山」の名前の由来は諸説あるが、

平地にポツリとあるので「四方から見える山~しほうのやま」が、

語源として定説と云われている。

さらに天授6年(1380)抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師が向嶽寺(庵)

を開山した際、「しほのやま」に「塩山」の字を充てた音読みの

「えんざん」を山号とした。注)往時、南朝は天授6年、北朝は康暦2年。


「古今和歌集」に「志ほの山差出の磯に住む千鳥君が見よをば八千代

とぞなく」と歌がある。そのために宮廷歌人にとっては、塩ノ山と

差出の磯(山梨市)は「桃源郷」のような理想郷の如く扱われ、

多くの歌人が好んで引用した地名となり・・・、全山を覆っていた

赤松は天然のもので、学術上価値が高いものである。

この赤松林をぬってハイキングコースが設けられており、四季折々

の風景を楽しめる場所となっている。※平成13年9月塩山市教育委員会


向嶽寺の山号となっている塩ノ山山頂から臨む甲府盆地と南アルプス方面


塩ノ山の南麓に創建された臨済宗向嶽寺派本山「塩山向嶽寺」!


歴史を語る総門、中門、仏殿、大方丈、庫裏、禅堂等が堂々の全景!

写真左一番手前の「仏殿」は、天明6年(1786)の大火災後・・・、

再建された建造物で、「由緒記」によれば「合棟仏殿開山堂」、

号して「祥雲閣」と記されているよう。

東側に昭和42年(1967)再建の庫裏。

そして、平成9年(1997)方丈、書院の再建。

平成2年(1990)に発掘調査が行われ、ほぼ原型に近い状態で発掘、

修復工事が行われ、平成6年(1994)国の名勝に指定されました。

※嘗ては、石に沿って水が流れていたようです。

※山梨県に残る古庭園の典型として学術資料としても重要視される。

※甲州市発掘調査報告書より、普段、厳粛に修行中の本山にて拝観ができない。

方丈(本尊は京の大仏師江里康慧師作の聖観世音菩薩像が安置されている)庫裏、書院

(平成9年落慶)※筆者は国文祭の時、唯一拝観したのみで、建造物内や古庭園内は紹介不可。

 臨済宗黃檗禅の公式サイトにて明らかなことのみ紹介。


「塩山向嶽寺」:開山の抜隊禅師は、永和4年(1378)に武蔵横山

(現八王子)より甲斐国に入り、竹森(塩山寺平)に草庵を建て、約2年

にわたり庵居していたが、あちこちから道俗が集まり、その中の

昌秀庵主というものが、時の甲斐国主武田刑部大輔信成公に請うて、

塩山の地を寄進され、天授6年(1380)正月20日、竹森から塩山へ

移り開山されたと云う。

「伝匠社=石川工務店」HPによると・・・、

「向嶽寺」は、臨済宗にあって大本山の一つ。・・・、

「向嶽寺」と言う寺名の通り、富士山を真南に仰ぐ、宗教的な立地

にあり、方丈から仏殿、三門、中門に到るまでの建造物と参道は

一直線に富士山へ向かって並んでいます・・・。とあるのは、

近燐随一の宮大工「石川工務店」HPの書出しです。

「近年、その伝匠社により「総門」の復元工事が施行され、風格

蘇った。注)その一番表にある総門だけは、富士山に向かう方向

から僅かに西にずらしてありますが、これは富士山に対する畏怖

の念の建築的な現れでしょうか。この大きくて豪快な仏殿は約200

年前、文政年間に弊社一族石川源三郎により建造された。

火災で重層部分の屋根が焼失したのを大正15年2代前の社長石川

孝重が修復し、今回の大規模修繕を経て、現在に至っています。

屋根の隅が下がって波打っていたのを直し、屋根の軒の照りの強い

禅宗らしい屋根が蘇りました。※臨黄ネット塩山向嶽寺より

http//goo.gl/Oq×Ug


平成12年春に国文祭記念で公開された時の「合棟仏殿開山堂」

このように「向嶽寺」は門前に「伝匠社:石川工務店」の宮大工が

歴代続いてこそ現役を続けて残せているのであろうと考察、感謝!

宮大工は、山梨県内でも競合は僅か!勝ち抜いて欲しい「伝匠社」!


「塩山向嶽寺」の中門、http://www.rinnou.netには、

総門が行く手を遮ります。・・・と記されています。


復元された塩山向嶽寺の「総門」!・・・少しだけ西にぶれている!


向嶽寺は開創以来、幾度も火災に遭遇したが中門」は残った!

室町時代の建造物で、禅宗様四脚門の代表的遺構として「重要文化財」

の指定を受けている。

檜皮葺き(ひわだぶき)で、彩色や装飾要素がなく、入り妻屋根の

簡素な造りです。この門の東西には、漆喰製、瓦屋根の築地塀が配

されています。

由来によれば、この付近の岩塩から「にがり」を作り漆喰に混ぜて

築地を強化してきたと伝えられ「塩築地」とも称されています。

主要建物が南北一直線上に配置されている伽藍の配置上、見透かし

を避けるために設けられたものと考えられ33.5mあります。

・・・、と臨済宗黃檗禅 公式サイト「塩山向嶽寺」の項にある。


近年、整備された室町時代の風格がある「中門」※重要文化財!

注)「中門」は室町時代の四脚門切り妻造り。重要文化財。


最近、「伝匠社石川工務店」によって復元された向嶽寺の「総門」


往古の歴史を語る「塩山温泉郷」

塩山向嶽寺の開山抜隊禅師が開いた「塩山温泉郷」の老舗「廣友館」


塩山向嶽寺開山の抜隊禅師が温泉源を

発掘したと伝わる往古の「塩山温泉郷」


あの有名な武田信玄ですら”高祖”と崇めた時の領主武田信成公の帰依

を得て、天授6年(1380)に抜隊得勝が開山した。

諱号は「慧光大円禅師」。天文6年(1547)武田信玄の上奏により朝廷から賜る。

また山麓に湧出する鉱泉「塩山溫泉」は、抜隊得勝が熊野権現の

霊夢により発見したと伝わる。

今、「塩山温泉郷」は、古く、寂れてきているが・・・、

もともと塩山の南麓に沸き出でた「塩山溫泉」の歴史そのもの!

現在、広報では4軒見えるが、どうやら3軒は存在する。

その主たる旅館は、写真の「廣友館」明治時代に建造された建物。

とても往時の溫泉らしさが残る「湯元」でもある。はす向かいに

ある「宏池荘」は経営者夫婦は高齢、どうやら閉まっているみたい。

筆者の友人が嘗て泊まったことがあるが、その時、「長く続きそう

にない旅館」と聞いていたが、歴史の変遷なのか・・・!?

従って、現在、下記3軒が塩山温泉郷を代表する旅館になるのか!?

①廣友館、②ゆばた、③中村屋旅館(本町商店街筋にあり、江戸末期

に商人宿として礎を築いてきた旅館で180余年の歴史を持つ。最近、

市の指定文化財にしてされた!)※筆者のお薦め旅館の一つ。

往古、最盛期には30軒くらいあったらしいが、移住した10年前は7軒

の旅館が競っていた。全てが古くなり、歴史の宿命を辿ったか!?


「塩山溫泉の基本情報」によると・・・、

「JR塩山駅より徒歩で約15分、小中規模の湯宿が点在するこじんまり

した温泉地。街を見下ろすように構える「塩ノ山」は「古今和歌集」

はその名が登場する宮廷歌人憧れの地・・・と宣伝PRされる。


泉質はとろみがあり、ほんのり硫黄の香りが漂う硫黄泉・・・!

滑らかでしっとりと馴染むような湯さわりであるとPRされている。

是非、立ち寄り湯もOKなので、試してみられたら如何!?

効能は神経痛、疲労、胃腸病、冷え性、皮膚病、貧血などと表示される。

アクセスも良く、散策の起点として理想的な場所にあり、お薦めです。

施設は古くても、”昔ながらのもてなし”を楽しむのも、また一興です。