新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲州・旧「松里」を辿る⑪総集編(里山歩きを振り返る)20-12

2020-12-01 | 山梨、里山の美しい四季!

甲州・旧「松里」をつぶさに歩いて良かった・・・!!

不詳が故に謎も残って、生涯学習の宿題になったもの!

移住11周年で初めて訪ねた処や学んだものもあった!

何よりも・・・、新たに真摯な里人との出会いがあった!

2020年は甲州・「松里」をつぶさに歩いてみたことで・・・、

まさに「”人”が暮らす郷里の生活」の”心境”を学んだ!

今号は甲州・旧「松里」を歩いて見た総集編を紹介します。

代表的なものは、やはり「松里」の名を唯一伝える「松里

枯露柿」だとも痛感した!

旧「松里」の中心は、現地名も伝える「塩山三日市場」、

「塩山小屋敷」、「塩山藤木」辺りだと思われた・・・!

筆者に、不詳のため生涯学習課題として残されたもの、

特に、感じたものなどを要約・抜粋して紹介します。


「小屋敷」から”長閑な里”と尖鋭の「乾徳山」を臨む!

この尖鋭の「乾徳山」こそ、名刹「乾徳山恵林寺」の山号となっている!


この「乾徳山」は、名僧夢想国師が若い頃、岩窟修行をしたと伝わる!

「小屋敷」は、写真の右に見える恵林寺山から尾根続きに現在も「滑沢」

まで「塩山小屋敷字滑沢」と広範囲に小屋敷であることに驚いた・・・!


お茶処「一休庵」は”京都大好き”の筆者にとっての憩いのお茶所!

一休庵の創業者は、関西で修行て、”良い味”を楽しませてくれた・・・!

お茶(コーヒー)も美味しい!お茶一杯でも・・・、もてなしてくれる!

山梨県内で唯一・・・!あの京都の寺巡りで味わえる唯一の”お茶処”です!

経営者の八木さん夫婦と星河さんには、とにかくコロナ渦を乗り越えて、

頑張り続けて!・・・と、恵林寺(仏)の御利益を祈るのみ・・・!


長閑な「松里」から臨む「冠雪の富士」は癒やしの風景である・・・!

富士山は、国民の祈りの山、癒やしの山・・・、崇高な山・・・!

筆者は若い頃から登山が好きで、この風景を何度眺めたことか・・・!?

この風景が気に入っていたせいか、今は、朝ベッドで目覚めると・・・、

部屋から、真正面に、富士山を眺めている処に暮らしている!

それだけではない、恐らく、日本で唯一、部屋から「日本百名山が七坐」

も望める処に移住して11周年・・・!ヒッソリ(黙々)と暮らしています!


現甲州市には、「松里」と云う地名は・・・、今は”ない”。

注)本ブログでは、甲州・旧「松里」と称している。

「松里」・・・、地名の起点は「明治時代に『松里村』があったこと」による。

※塩山市史によると、平安時代「和名抄」の「於曽鄕」にもあったようだ。

この於曽鄕の範囲は、旧塩山町、松里、日下部、玉宮、神金、大藤、奥野田

の諸村で、笛吹川以東で重川以北の一帯であると記される。

その後、平安末期から、荘園の発達に伴い、この地域は「牧荘」に含まれた。

・・・と記されるも・・・、随分、昔から「松里」の名は馴染みがあったようだ!

明治8年2月3日、現塩山・上井尻、三日市場、小屋敷、藤木の各村が合併

して「松里村」が誕生。明治23年に下藤木村が合併した。

そして明治41年、旧柚木村の一部であった「滑沢」が加わった。

この時の「松里村」が、今は地名がないものの現在に引き継がれているよう!

村名は、氏神の「松尾神社」からとったもので、残念ながら、昭和29年(1954)、

塩山町(塩山市⇒後に現甲州市)合併したことで、消滅したと言う。

今は、往時の地元農家が、銘品「松里の枯露柿」として、唯一「松里」の名を

継承している。銘品「松里の枯露柿」は、今もブランド品として継がれている。

何故、響きの良い「松里」という地名が消え去ったのか・・・!?忍ぶしかない。


2020年の柿畑(甲州百目柿)は、豊作ではないようだが・・・!

嘗て、「夢想国師の乾徳山岩窟修行の伝説」を学習したことがあるが・・・、

~夢想国師が乾徳山修行で”命の糧”にした乾し柿は”アマンドウ”だった!

”アマンドウ”と云う小柿はいったいどんな柿か?徹底的に調べて見ると、

山梨地方の”方言”であった。標準語は「豆柿」。山梨の歴史書「甲斐国志」

に「信州の小柿は干して食す」と記されているのに、山梨県の地元では

見逃したのであろうと考察している。現在まで気づかないできたようだ。

その結果、解ったことは、松里の殆どの柿農家で「枯露柿」を栽培するのに、

今も「甲州百匁柿」なる柿の木の台木が殆ど自生原種の”アマンドウ”で、

あったので、何故、松里の枯露柿が銘品(美味、滋味)なのか解ってきた。

※山梨県(往時は甲斐国)の殆どが武田信玄推奨の蜂屋柿を移入して改良

されたと云われるが、筆者は「徳和山吉祥寺略記」の「夢想国師と毘沙門天」

に伝わる恵林寺を開山した夢想国師が若い頃(19歳頃)、乾徳山で岩窟修行

した。修行中に出会って、初の弟子にした「道満」が運んだ滋味「乾し柿伝説」

があったので、その乾し柿を辿って見ると、筆者は「松里の銘品枯露柿」の

滋味は恵林寺を開山した夢想国師の導きであったと考察したのだ。

従って、松里の民に奨励したのは、恵林寺開基の二階堂道蘊となり、1330年

以前となると考察している。


この「甲州百匁柿」は、とにかく大きく、「枯露柿」にすると超ウマい・・・!

枯露柿の作り方は、移住して直ぐ、地元の方に教えて頂き、今でも、

我が家の好物になっている!最近は首都圏に住んでい娘家族の処でも

吊るし干しして作っている。家内が教えて作っているが、娘夫婦とも気に

入ってくれているようで、もう数年間、暮れの定番好物になっている。

干してから約40日間を要するが、面白いのは、吊している時のもみほぐし

と、平置きにして、形を整えながら、「コロコロ」と裏返すことだ。

この「コロコロ」から『枯露柿』と言う名前になったと言う話もあるようだ。


銘品「松里の枯露柿」になる収穫の柿の山・・・!小屋敷の町田家にて!

この「甲州百匁柿」は、近年になって品種改良されたようだが、渋柿でも

形は良く、大きい。豊臣時代、甲府藩主であった浅野公が、現在の広島

(安芸藩)へ転封(転勤)される時、この柿を気に入って広島へ移入して、

現在は「西条柿」として、重宝されていると云う。


本場「松里の枯露柿」の生産中のあんぽ柿・・・!

吊るし初めて、約20日間くらい経つと「あんぽ柿」状態になる。

この「あんぽ柿」も、とても柔らかく甘くて美味しい。少量だとすぐなくなる。

農家の方は、食べるのを我慢して、「平干しにして、コロコロと形を整え、

『枯露柿』にして、約40日後に出荷する。」大変な仕事だが・・・。美味しい!

もし、首都圏に住む方で興味がわけば、コロナ渦が治まるまで待って、

JR塩山駅の北口前にある甲州市重要文化財「甘草屋敷」にて、11月頃、

「枯露柿」の作り方を教えて貰えるので、参加して見たら如何ですか?

※参加費は以前は500円程度(干し柿4個付)でしたが、希望の方は、

甲州市役所のネット情報を直接、確かめて下さい。


「甲州百匁柿」で「松里の枯露柿」生産で有名な柿農家「岩波農園」!

この枯露柿農家「岩波農園」は、今は甲州市の観光には欠かせないコース

なっています。

□恵林寺拝観後、最寄りにあり、そして花の放光寺を巡るのお薦めです。


具体的には、旧「松里を辿る」バックナンバーを読んで頂くしかないが・・・、

①恵林寺には、嘗て塔頭が13軒もあったらしいが、今は、廃寺の処が

多い。特に甲斐国で尊敬に値する「武田信成」※あの信玄が高祖と崇敬

し、恵林寺を菩提寺にした時、信成公と信縄公を供養する特別の塔頭を

建立したのに・・・、今はすっかり忘れられていて旧蹟の場所さえ知られない。

特に「信成公を祀る『継統院』が史蹟も残されていない」など、気になる処

もあったが残念と云うのみ・・・!注)「塩山向嶽寺」も武田信成公の開基

と言うに・・・!往古、「継統院」は、千野郷より武田信玄が恵林寺に遷し、

快川国師に兼帯させたのに・・・と思うと忍びないが・・・。

②恵林寺の塔頭は、往時、寺領地であった現塩山三日市場にも二箇所

「精神庵」、「獅子吼庵」があったが、何れも廃寺になっている・・・。

残念ながら、今は・・・、庵跡を訪ねる事も叶わない。

特に「三日市場」には、甲斐国志に「廃桂林寺」があったと記されるも・・・、

地元の物知りに伺っても「名前すら、わからない」とのことで、古文献等を

博学にて学ぶ筆者には、生涯学習の課題になるものと考えている。

③甲州市に移住して11周年を過ぎたが、初めて「滑沢」を訪ねて見た。

 甲州市の最北端でありながら、今は里人は住まず、まるで山間地の別荘

 地帯の様相。とても不便な山間地にあるが、何故、甲州市に含まれたか

 が関心あって調べて見ると、何と「住居表示」も「甲州市塩山小屋敷滑沢」

 であることは、時代考証再検討の余地があり、小屋敷に含まれたのは、

 中世、武田時代、武田信実に治領地として守護させた名残ではないかと

 見ている。その先(現川浦溫泉周辺)は、武田二四将の一人「山県昌景」

 を配置して、統治させている。以上から、武田時代の名残とみている。

④「松里」の地名であるが、塩山市史(※編纂は昭和時代)によると・・・、

  平安時代、「和名抄」で既に「於曽鄕」の中に入っていると記される。

  旧塩山町、松里、日下部、玉宮、神金、大藤、奥野田の諸村で、笛吹川

  以東の重川一帯である。・・・と記されるも時代考証は一考を要する。

  注)必ずしも、明治8年の諸村合併による「松里村」が起点か・・・?

  再考察を要する。何故なら、枯露柿は必ずしも武田信玄の時代が起源

  ではなく、恵林寺開山の夢想国師を迎えるために、二階堂道蘊が奨励

  した可能性もあるからだ・・・!

⑤「下井尻」だが、古文献によると、「下の諏訪」と呼ばれた「鈴木明神」は、

  現在、地元で訪ねるも、誰も知らないと云われた。現在はないらしいが、

  せめて、跡地やら、伝説くらいは探せると良いので、課題として残す!

  等々、書き切れないので、この程度にしておく。・・・生涯学習は続きます。


清々しい旅、楽しい旅・・・、散策とは、”ひたすらに尋ね歩く”ことなり・・・!

歩いたからこそ・・・、初めて出会う人、初めて巡り会えるものもあり・・・!

筆者は、予め、文献で調べて歩くが、誰に尋ねても解らないものもあるが

・・・、それは、里人に長い年月が経って忘れられたもの! もったいない

もあるが、里人に感心が薄れた結果であろうと思うことにしている!


「松里を辿る」シリーズバックナンバーは:

①明治時代、現甲州市には「松里」と名付けられた豊かな郷があった!

  2020年2月号:新シリーズは、松里の語源、「松尾神社」を紹介。

②3月号:「小屋敷」の「乾徳山恵林寺」

③4月号:「〃」「桜の恵林寺」とお茶と食事処「一休庵」

④5月号:「藤木」の里と花の「放光寺」

⑤6月号:北西端の里「下柚木」

⑥7月号:北西端の山里「滑沢」

⑦8月号:「三日市場」

⑧9月号:「三日市場②」

⑨10月号:「三日市場③武士原」を歩く。

⑩11月号:「下井尻」

⑪12月号:「総集編」⇒最終章。次は2022年新年号。初詣に行けそうです。

・・・紹介していますので、恐縮ですが、詳しくはバックナンバーでご覧下さい。

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検索は・・・、「新甲州人」または「山梨の魅力再発見」でも見つかると思います。

バックナンバーは、ブログ右枠欄の下段に⑪、⑩、⑨・・・と並び、

更に>>もっと見るクリックして頂くと、松里シリーズの最上段に①が、

ご覧頂けます。