新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

山梨市を辿る②昔、和名抄では「山梨子郷」と呼んだこともある!22.09

2022-09-01 | 山梨、秘めた魅力の再発見!

「和妙抄」の山梨郡「山梨郷」の郷名を継承する

中世の郷。~山梨県の地名辞典より~山梨市~

延文2年(1357)6月10日、隆「甲斐国

山梨子郷立河常住院」において瑜紙経拾古抄上の

書写を終えた(「瑜祇経拾古上奥書」常陸六蔵寺蔵」)。

常住院は現存しない。現笛吹市春日居立川には平安時代

後期の作とされる丈六の木造不動如来坐像が残り、

通称立川不動と呼ばれるが、かつて寺名などは伝

られていない。あるいは関連するか・・・等。

今号は、筆者も初めて知るが、現「山梨市」を知る

前に、「山梨子郷」の紹介します。


現「山梨市駅前」の街並みは、外観デザインを揃えて素晴らしい!

山梨市駅前の山梨市観光案内所(写真の正面)もお洒落・・・!

山梨市駅前商店街は、欧州の街並みを彷彿!今はコロナ禍で静か!

山梨市営駐輪場も、この奥に・・・!

一人の建築デザイナーに依頼して、外観を揃えているのが山梨市駅前!

日本でも珍しく、特に、欧州の街並みを彷彿する風景が印象に残る。

どちらかと言うと「日本は”自由”ということを自ら勝ち取ったわけで

はないので、特に景観は、私有地に個々が好き勝手に作り不揃いだ!

昔、世界中(先進国)を歩いた経験のある筆者は、この山梨市も気に

入っている。しかし、市中ではなく、せめて山梨市駅前の地域だけでも、

外観を揃えたことは、素晴らしいと思います!

往時の市長さんの勇断は素晴らしいが、今の通りはヒッソリしている。

東京だったら、優れた街づくりの作品だと評価されたかもしれない。


続いて、地名辞典によれば・・・、

なお、年不詳の親鸞門侶交名注文(茨木県光明寺旧蔵文書)に「甲州

山ナシ住」として、源誓およびその弟子七名が書き上げられている。

「山ナシ」が当郷を指すとすれば、源誓は、現勝沼等々力の万福寺

開山、弟子の一人光寂は、当寺の三世に記される(甲斐国志)から、

当郷は現勝沼まで含んでいたことになる。しかし地域的には不自然

で、ここでは郡名単位の広域呼称として、使用された可能性が高い。

・・・と記される。山梨市は、現在も、先に紹介した甲州市よりも

若干行政規模も予算規模も大きく、令和4年度で、山梨市2億

9617(千)円。甲州市2億6240(千)円とほぼ規模的に同等。

人口も山梨市33,725人、甲州市30、222人と均衡している。

さらに、市域の面積も山梨市は289.80平方Km、甲州市264.

11平方Kmと概要は似ている。

地域面積も均衡ですが、山梨市には、三富温泉、乙女高原、西沢渓谷

大垂水峠~金峰山等の名勝もあり、甲州市には、大菩薩峠、連嶺等の

名勝もあり、大和、勝沼等の景勝の他、特に鎌倉時代、夢想国師に

より創建された恵林寺や安田義定が創建したと云われる放光寺等の

古刹もあり「甲州の鎌倉」とも呼ばれて有名である。


「八幡の庄」の象徴「大井俣窪八幡神社」は、現存している。

大井俣神社は、新羅三郎が、八幡に八幡神社を創建する前の元宮!

今はヒッソリとしているが、安田義定が全盛の頃は守護神であった!

「安田郷」ー山梨郡八幡の庄内の郷名。現塩山竹森の野尻剣之助氏所蔵の応安

2年(1369)5月11日の大般若経巻235奥書に「山梨郡八幡庄安田郷

下井尻村延命禅寺」とある。これまで安田郷の存在は知られていなかったが、

平成5年(1993)、この大般若経の発見により、初めて確認された。

安田義定の本拠とみられる。義定は、源義清の四男で、平家討伐の際に甲斐

源氏武田信義と並んで活躍、遠江守護、遠江守になるなど勢力を誇ったが、

建久5年(1194)、源頼朝により謀殺された。義定は広域の「牧ノ庄」

を本拠とし、現小原西にあった妙音寺跡が館跡と伝わる(甲斐国志)が、

義定の安田姓が、当郷でその勢力が八幡庄全域に及んでいたとすれば、現

山梨市以北、笛吹川流域が勢力圏であったことになり、強力な勢力をもった

一端を知ることができる。

延命禅寺は現存しないが、同地の寿仏庵跡に、安田義定及び子義資と義季の墓

と云われる五輪塔が残る。寿仏庵は延命禅寺と関係するか?と記している。


「小原庄」・・・、

現小原西交差点と妙音寺跡(甲斐国志によると、安田義定館があったとされる)

現小原西・小原東村付近に「安田義定館」があったとされる荘園。

建治元年(1275)10月以前に出された関東評定事書(陽明文庫

本式目追加)に甲斐国小原庄が諸入越訴停止を命令した際の事例とし

掲げられている。小原西の妙音寺跡は、「安田義定」の館跡と伝え

安田氏の名字の地と云われる安田郷は(野尻剣之助氏所蔵大般若経奥書)

八幡庄域内であるが、当庄と八幡庄の関係は判然としない。

往古、安田館のあった妙音寺跡は、今は幼稚園と空地(写真左下)

写真正面の鎮守の森が「大井俣八幡宮」!

2019年甲斐源氏安田義定ゆかりを辿る⑬のブログに撮影した写真。

少し前は元気だったのだ!貪欲に学んだ記録でもある。


今回は、現山梨市の中心地になる山梨市駅前~小原西~大井俣神社

のあたりの写真を紹介したが、如何ですか・・・!?


甲斐源氏安田義定は、長承3年(1134)甲斐源氏安田冠者刑部

三郎武田義清の四男として若神子(現須玉町)に生まれ、元服(推

定久安9年(1156)の後、在庁官人の三枝氏を抑えて、山梨郡に

入り、加納、牧庄の二庄を始め、加納庄(現小原西)に安田館を構え

「牧庄」の中牧に西御所を構え、小田野山に要害城を築き、現・峡東

地域を統治したことは、既に周知の通りです・・・。

本項のテーマである「安田義定が本拠に構えた小原西の安田館は、

大井俣八幡神社の前、特に牧ノ庄の”牧”(現牧丘西保下)と一ノ瀬

高橋周辺の”砂金脈”の管掌に、広域を具に分析すると、頗る良い立地

環境として考えられる。YS記では、この安田館の立地こそ、後世に

”牧”に通じる道「後世、秩父往還(雁坂道)」となり、”砂金脈”に

通じる道「萩原口」(後の青梅街道)への起点分岐になったのではな

いかと見ている。・・・と「小原西」については、2019年9月号

にて、題名「甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧の庄」を辿る⑬義定が小

原西に安田館を構えた小原西の立地」・・・について紹介している。

安田義定について、興味があればバックナンバー①~ご覧下さい。

現山梨市小原西の安田館跡(廃妙音寺跡)は、正面に大井俣大神社

「安田館」を構えた時期は不詳だが、武田義清の一族として、本拠を

構えたものと考察できる。


そして、時代の流れから何度か笛吹川が氾濫し、「大俣大神社」は、幾度も

水害に遭うこともあり、新羅三郎の代になって、現在の八幡に八幡宮を勧請し、

遷宮されたたことは、周知のことである。以後は、武田家累代の庇護により、

八幡の神社が有名になり、現在に至っていることは、知る人ぞ知るである。


「大井俣大神社」は、現在はヒッソリとしていて、場所はそのままに、後世の

ために復元されて維持されている様相は、貴重な資源であるので紹介したが、

山梨市は、甲州市を一巡紹介して、隣の街とは言え、歴史的な資源に富んだ街

として、山梨市地名辞典に沿って、シリーズとして、毎月号、順次紹介したい。


 



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