新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!第6章:養老6年伝行基開基の松本山大蔵経寺!2018-02

2018-02-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!」

第6章:大蔵経寺山南麓には”古代甲斐国の歴史ロマンのルーツ”

・・・南麓の起点になる名刹「松本山大蔵経寺」を訪ねる!


新装なったJR石和温泉駅北口に出ると、北山筋に横たわる大蔵経寺山!

 この大蔵経寺山の南麓に「松本山大蔵経寺」がある・・・!

  

JR石和温泉駅北口に出ると、正面に目印になるイサワダイゴ保育所がある。

保育所の手前を左折し、突当たりを右へ進むと徒歩五分で大蔵経寺へ着く。

写真中央に見える”獅子が蹲踞(そんこ)しているような山容”が大蔵経寺山!


 JR石和温泉駅南口の足湯から見ても、横たわる大蔵経寺山が見える!

 


 全国の観光地の中でも、半都会的な石和温泉郷ではあるが、

駅前周辺に古代の歴史ロマンと大自然を遺すところはあまりない。

今号は「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る」

第6章~「大蔵経寺」編~を紹介します。


 この大蔵経寺山と南麓の歴史は、古代雄略天皇の頃、ヤマト王権が倭国

形成を図った時代であるが、東端甲斐国の覇権統治のために遣わされた

「物部氏一族が、推定であるが現大蔵経寺境内地辺りに館を構えた」と見る。

注)第1~第4章参照。

その時、物部氏一族は背後の御室山上に旧蹟物部宮を祀ったことは既に紹介

している 

また、中世、武田信成公の中興開基により山中の彌勒平から現在地に移転し、

松本山大蔵経寺が中興再建された時、御室山山頂にあった旧蹟物部宮も遷して

物部神社として現在地に祀られている。

物部神社は単なる当山や松本の鎮守ではないことを繰り返して述べています。


荘厳な真言宗智山派「松本山大蔵経寺」を訪ねる!

松本山大蔵経寺の境内は・・・、四季の彩りが美しい!

写真右側に見える仁王門(往古の中門!)は、現在の山門を兼ねる!

この門を入ると、参拝者用の庫裡玄関へ至る。※一般観光客もここから入る。

養老6年、高僧行基菩薩が、御室山旧蹟物部宮と同じ山中に「彌勒堂」

を開基したのが始まりで、その後、靑獅子山松本寺となり山中に七堂伽藍を

構えた荘厳な名刹であった時代を経ている。

注)往古、山上「彌勒平」を仰ぎ見ると七堂伽藍は荘厳と威厳を伝える山岳寺院であったろう!

山中の七堂伽藍は焼失した後、中世安芸守護であった武田信武足利尊氏

組みし鎌倉倒幕と室町開府に貢献したことで甲斐帰参を許され、第10代

甲斐守護として復権したのが甲斐武田氏中興の祖と云われる由縁と云う。

しかし実際には、信武公は鎌倉倒幕の始末で甲斐国入りを果たせず、信武

に先駆けて嫡子信成公が甲斐国入りを果たし、甲斐守護代として甲斐国内

平定と中興の切っ掛けを作ったと云われる。

注)往古は謙譲の美徳等により、父信武公が武田氏中興の祖とされているが、筆者は信成公こそ

甲斐国中興の祖と思っている。

武田信成公は、当初、八代に赤甲城(城跡は現八代清道院)を構え、甲斐国内

の平定に際、赤甲城から正面に見える松本の靑獅子山(現大蔵経寺山)の

南麓が、甲斐国中央部にあたるので要衝立地と考えていたと思われる。

YS記)八代赤甲城址から見ると現在は周辺民家が視界を遮るが、良い視界から見ると要衝立地

に違いないと分かる。

信成公は第11代甲斐守護になって旧蹟物部宮のあった御室山、山中の彌勒

靑獅子山松本寺があった山容一帯と菩提山長谷寺、廃鎮目寺、山梨岡

神社など現大蔵経寺山南麓一帯を寺領として寄進し、甲斐の要衝として、

現「松本山大蔵経寺」を再建中興したのではないかと考えられるのである。

当然、詰城や要塞にもなるような立派な七堂伽藍を構えた寺院の建立を

考えたと思われるので、そこで鎌倉倒幕にも尽力した頃より親交のあった

室町三代将軍に就任した将軍義満に言上、応安3年三代将軍義満公の麁子

観道上人を迎えて真言宗智山派松本山大蔵経寺の中興再建を果たしたと

云われている。

YS記)古文献等証しが残されていない部分も多く、筆者が辿りついた推定もあるので留意。

それ故に、往時の伽藍は壮大で歴史的にも希に見る伽藍であったと云える! 


中世武田信成公は現大蔵経寺山とその南麓に着眼、甲斐国の要衝とし

一帯を掌握するために広大な寺領を寄進したと考察される。

往時、大蔵経寺の三門が構えられたところは、何と石和温泉駅南口にあって

地図上の解析では、乾の方角に直線の参道で約400mもあったようです。

現在も石和の旧字名で遺る”三門(みかどと読む)”を知れば良く分かる。

YS記)現JR石和温泉駅南口の交差点の角(笛吹市石和町駅前3番地)辺り。

参道は、地図上で推定すると、三門から本堂迄、直線で約400mあった。

しかも、地図上で証すと、三門から参道は乾の方位にあり、参詣するだけで

仏や祖先を敬う参道として存在したのではないかと考察している。


 YS記)石和の旧字名を見ると殆ど往古の寺領地であったことを伺う名が残る。

平成8年石和教育委員会発行「石和の地名」参照による自習用資料の複写

YS記:往時の回想図は平成8年石和町教育委員会発行の「石和の地名」

を参照し、黄色部分を中世の三門位置を本堂と結んで記載した自習資料。

字名だけ見ても、寺ノ前、新居前、三斗六升、畦作、塚越、前河原、向田

辺りまで武田信成公は寺領地として寄進し、甲斐国の重要な要衝として

庇護しようと考えられた名刹の歴史遺産ではなかろうかとも考えている。

以上は、勝手な想像も含んでいるので地権に関わる方々には容赦を乞う!

何しろ、大昔の話ですから・・・! 


 第11代甲斐守護武田信成公(継統院殿)について・・・。

筆者は武田氏累代のことを学んでいる時、塩山の乾徳山恵林寺に塔頭で

武田信成公の牌子を祀った「継統院」が塩山千野にあったと伺い調べた

ことがある。

あの武田信玄公が恵林寺を菩提寺に定めた時、あえて塔頭を造り祀った

武田家高祖として選んだのは、たった二人だったことが分かっている。

注)ここでは選んだ理由は不詳としておくが、私論は省略する。

その高祖は大蔵経寺中興開基の継統院殿信成公と長興院殿信縄公のみ

注①天正10年、恵林寺は信長軍の焼き討ちにより快川国師とともに

伽藍を全焼して、武田氏高祖の継統院(信成公)や長興院(信縄公)

の塔頭址は今はない。

注②長興院は山梨市にある伝武田信縄公中興開基とされる赤甲山聖徳寺

戻る。今回も文章枠の限度があるので省略するが、その項も興味深い。

その信玄ですら信成公を高祖と崇めた事実が遺っているので、

筆者はこの大蔵経寺を見るに中興開基が武田信成公と知って感動している

注)武田信成開基とされる名刹臨済宗本山塩山向嶽寺もあるが、時間切れ。


 現・松本山大蔵経寺の伽藍は、江戸時代に再建され今に継ぐ!

「松本山大蔵経寺」江戸時代建立の勅使門(葵紋の御門)が今も遺る!


 中世、第11代甲斐守護武田信成公が、室町三代将軍義満公に

言上し、麁子観道上人を迎えて真言宗智山派松本山大蔵経寺を

中興開基したことは甲斐国にとって誇るべき歴史的中興である!

その頃の大蔵経寺山南麓の様相を勝手に想像して見ると・・・!?

YS記)当山略記では、三代将軍義満に甲斐守護信成公が命じられて中興開基

となっているが、それは往時の謙譲の美徳精神の現れで、名僧や名将の開基、

開山の名刹には多く、筆者は自習による持論で勝手に言上としているので留意。

 


 

 第11代武田信成公は、実質的には中世の甲斐国をも中興した!

その要衝立地にあったのが現大蔵経寺山の南麓一帯であるが・・・、

甲斐守護信成公も、大蔵経寺の寺領地として寄進し、累代に寺領安堵を与え、

庇護したものと思われる・・・!

YS記)中世、応安3年、甲斐国守護第11代武田信成公が中興開基となり、

往古より山中にあった伝行基開基の「彌勒平」より、伝行基開基の彌勒堂と

靑獅子山松本寺を現在地に遷し、時の室町三代将軍足利義満公に言上して、

義満公の麁子観道上人を迎え、真言宗智山派松本山大蔵経寺と改名して再興

(中興開基)している。

以後、武田家累代の厚い庇護を得て栄え・・・、

その後、武田家滅亡後、天正中に駿河の徳川家康がいち早く立ち寄り松本山

大蔵経寺を祈願所としているのは、如何に名刹であったかだけではなく、

甲斐国の中央部南面に位置して重要な要衝立地と見たことが、様々な考察から

浮かび上がって来る!注)寺記に、天正11年家康自ら当山に立ち寄り朱印状を賜るとある!


さらに補足、特記するが・・・、

天正10年、甲斐国内の殆どの寺院が信長軍の焼き討ちにあって焼失した中、

再興されている寺、そのまま廃寺された寺院があるも、この伝行基開基の

彌勒平と現大蔵経寺山含む寺領地だけはその信長よりご禁制を賜り焼き討ち

合わなかったことが伝えられている。

甲斐国の歴史上で、余程重要な寺院と判断されたことは確かだと思われる。

それは往時の奇跡とも云われ、筆者も始めて伺ったが、流石、伝行基開基の

希な名刹評価されたのではないかと思ったものの、やはり甲斐国の中央に

位置し戦略的に重要な要衝と見たと云うのが正しいのではないかと考察する。

何故ならば、古代ヤマトから甲斐国覇権統治に来た物部氏一族も、甲斐国を

平定中興を図った武田信成公も、織田信長も、徳川家康も、歴代において、

甲斐国を治めるに、甲斐中央部にあたる北山筋で南麓を重視したことは、

単に偶然だろうか!

明らかに要衝として戦略的に秀でた立地であったことは確かだと思われる。


また、徳川家康が武田家滅亡後、いち早く甲斐入りを果たしており、

その時は、甲斐国は既に徳川家の重要な要衝として重要に考えられていた

と云えるようだ。

その証しが、徳川家康胆折りで甲府城を西(豊臣)への備えと考えて、

家康直系の腹心や子孫を城主に派遣しその甲府城から見て大蔵経寺は

鬼門の要衝にあたることもあって特に庇護していたと云われる・・・。

その後、江戸将軍累代も黒印、朱印状により寺領安堵を図り、甲府徳川家

も参詣する東照宮が祀られて・・・、江戸時代も多いに栄えたと云われる。

今も大蔵経寺境内には、葵御紋のある御門が残り、往時を偲ばせる・・・!

注)これは往時、一般には「勅使門」と呼ばれた。

皇室や国主など開基にのみ開閉が許された勅使門(葵紋の御門)とも云う。

大蔵経寺には、今も武田家ゆかりや徳川時代の面影は多く遺されている。


松本山大蔵経寺:写真左が現在の仁王門を兼ねる山門と右が庫裡玄関!

石和を訪れる一般の観光客も京都の名刹を訪ねるように、庫裡玄関で拝観料

¥300を納めれば、自由に寺院内を拝観できる。

寺院ご案内の詳しくは、リニューアルされた松本山大蔵経寺のHPを参照下さい。

http://www.daizokyoji.org/ 


筆者お薦めの拝観ポイント!

本堂:仏殿の本尊不動明王(写真HP複写)と武田信玄崇拝の将軍地蔵。

こちらの本堂はピカピカに磨かれており、荘厳な中に清廉で癒やされる!

中世、武田家庇護時代の由緒ある寺宝の他・・・、数々の寺宝が伝えられるが、

特にお薦めは国重要文化財「絹本著色仏涅槃図」で、本堂内で拝観できるよう

に展示してあるのは、精巧なレプリカだが、じっくり見ると色々と教えられる!

また、本堂(仏殿)には牌子殿が新装され、真言宗智山派として中興開山した

初代観道上人の位牌より歴代住職36世まで並ぶ。注)現住は由緒第37世。

また永禄11年川中島合戦にあたり信玄の崇拝を受けた戦勝祈願の本尊もある。

即ち、信玄の帰依を受けた将軍地蔵尊(甲斐国志記載)などの寺宝も拝める。

徳川家祈願所として歴代徳川将軍の位牌も並び中世近世の気配も感じられる!

また、今回は紹介しきれないが、寺院内はまるで現代仏画展のように大作が

展示してある。拝観者は自由に楽しめる。注)寄進は石和の有力者英雅堂当主。

作者は「西海照雄」氏と雅号にあるが、いずれ取材が叶ったら紹介したい。


新装なった本堂と庫裡の縁側でお茶など頂き、瞑想にふけるのは贅沢!?


大蔵経寺「蓬莱庭園」大蔵経寺山の自然を借景の山水庭園は四季彩々!

 

注)右写真の正面中央あたりに、江戸時代は東照宮を祀ってあったと云う! 


春は桜爛漫の境内、物部神社奥には、桜の花見どころがある!

 


 境内には、鐘楼堂、永代供養塔、宝物殿等ある!山中から見る壮大な境内!


  現大蔵経寺境内は手入れが行き届いて・・・、いつも荘厳さを保っている!

YS記)本堂や庫裡の大屋根も近年葺替えられ、永劫の寺院として備えは万全!