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甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧ノ荘」を辿る⑭義定は小原西に館を構えた時、鬼門の備えに「神龍山雲光寺」を開基した!19-10

2019-10-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲斐源氏安田義定は元服の後、武田家から「八幡荘」「牧ノ荘」

拝領し、現山梨市小原西に「安田館」を構えた時、仏教信仰に

篤い安田義定は、「安田館」の鬼門除けに、安田家の菩提寺として、

「神龍山雲光寺」を開基したと云う。鬼門除けに構えた「菩提寺」は、

往時、真言寺院として建立。いざと云う時の「安田館」の「要塞」と

しての備えであったろう!※往時の伽藍は、想像図で見たいもの。

今号は、「神龍山雲光寺」についての概要を紹介します。 


現在「神龍山雲光寺」は、改修されて、臨済宗「清白寺」の兼帯になっている。


「神龍山雲光寺」は、保元元年(1158)に、甲斐源氏

安田義定が開基し、真言宗の僧都了寿阿闍梨を開山として創建。

応永元年(1395)に夢想国師の高弟絶海中津和尚によって、

真言宗から禅宗になった。

現在は臨済宗妙心寺派清白寺の兼帯となっている。

安田義定を始め、一族の墓(五輪塔)があることで有名。


 「神龍山雲光寺」の広い境内に立つ「木魚碑」から僧の読経の響きが聞こえるよう!


安田義定は、源九郎義経の副将として平家追討の際に多くの

戦功をあげ、鎌倉幕府創立の功労者であったことは先に述べた通り

あるが、残念ながら、義経が追討されたのと同じように、安田勢力

の伸張を恐れた源頼朝によって滅ぼされた。

義定の嫡子義資が鎌倉で殺害されたのが建久4年で、その翌年、

義定も鎌倉方に討たれている。

嫡子義資の遺品は雲光寺に葬られたと云われ・・・、詳しくは寺伝に。

翌年の建久5年(1194)には、義定と三郎義季の遺骨を最期の地牧丘

から、この地に移し埋葬したと伝えられている。


安田義定一族の墓碑とその解説版が、密やかに経つ。


安田氏五輪塔付宝篋印塔は貞治2年(1363)武田信成の法要供養で建立。

この三基の五輪塔は甲斐源氏の雄安田義定父子の墓標で、

中央が安田義定公、左が義資、右が義季のものと云われる。

義定は、謀反の廉(かど)で建久5年(1194)に攻め滅ぼされた。

・・・三基とも水輪の四面に梵字が刻まれており、鎌倉中期の代表作として

石像美術上の貴重な構造である。

宝篋印塔は、基礎に「貞治3年(1363)11月、武田氏・・・(他不明)とあり、

武田信成公が安田義定供養のために建立したもので・・・、山梨県教育委員会」

と解説されている。昭和46年県指定有形文化財。


上写真の安田氏五輪塔付宝篋印塔の山梨県教育委員会解説版写し。


 YS記:建久5年(1194)8月、”牧”の要害「小田野山」城下で鎌倉

勢に追われ自刃したと伝わる安田義定は、西御所跡に埋葬された

と云われるが、その遺骨を後に「神龍山雲光寺」へ遷したことになる

ことが、寺伝には詳しく記されているようだが、省略します。


安田義定の自刃場所は3説あるが、歴史ロマンを大事にすべきか!?

解き明かされない方が良いのかも知れないが、歴史ロマンは科捜研の

ような科学捜査をしない方が良いのかもしれないと云われることもある!


 次号⑮「高橋山放光寺」の項で、鎧淵伝説も紹介します。

 筆者は、「放光寺」が、最も自刃の場所には信憑性があると思うところもあるが、

 もし、戦跡が辿れたら、中牧の要害城下か、放光寺か位置的に迷う処である。


 



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