現甲州市の北西端、塩山小屋敷域に滑沢(なめさわ)
がある!明治8年、上井尻村、三日市場村と既に紹介
した藤木村、小屋敷村が合併して「松里村」が誕生。
明治22年柚木村の一部(下柚木分)が「松里村」に
編入され、明治41年旧柚木村の一部にあった「滑沢」
が松里村に編入され、現在に至っている。
※甲州市文化財課等照会・・・。
筆者は初めて訪ねますが・・・、
今号は「滑沢(なめさわ)」を紹介します!
現在の住居表示は「甲州市塩山小屋敷」とされる。
昭和年代には”大字小屋敷字滑沢”と呼んだ!
注)筆者も初めて訪ねた。
シリーズ初刊号で紹介した「松尾神社」や「恵林寺」のある地域も「小屋敷」と
言ったはず。恵林寺を菩提寺とした「武田信玄」の義理の弟、武田兵庫助信実が
現松尾神社傍に館を構えていたことから、里人により「小屋敷」と呼ばれるように
なったと聞いている。滑沢が「小屋敷」の地名に入る縁はその頃から由縁があった!
現在は、山梨市三富の笛吹の湯の先「上萩原」辺りから、
東側の滑沢に沿って奥地へ進むと、「塩山小屋敷・滑沢」
の数軒の集落があった。現在は無人の美しい山里である。
甲州市塩山「滑沢キャンプ場」は、大自然に囲まれた奥深い山の中にある!
大自然の山中にある現甲州市塩山小屋敷2319-1「なめさわキャンプ場」。
このキャンプ場は、甲州市塩山上井尻606-2 広瀬さんと言う方が運営している。
山中奥深く、大自然の中にあるお洒落なオートキャンプ場であった。
国土地理院25000分の一の地形図には、塩山小屋敷「滑沢」と記される
集落が見える。民家は10軒弱は在るようで、一度は訪ねて見たかったが、
訪ねて見ると、滑沢の水は綺麗で、想像だが紅葉は素晴らしいところだ!
「滑沢=なめさわ」には、今はないが滑沢集落の三岩のある付近に、
「明治7年、向山何某氏が道を作った」と刻まれた岩があったと云う。
その少し上に、高さ50cm位の地蔵裏に「明和5年12月17日」と刻まれて
いた・・・と伝わる。※今回は里人は一人も見かけなかった。
即ち、この辺りは今から約250年前には集落が拓かれたと云う事らしい!
往時は、山中に鉱山(現在は鈴庫山等が有名)を開拓して、住み着いて
集落ができたのではないかとも思われるが・・・、
「滑沢」は「滑沢山」標高1291.7mの西の麓にある!
※この写真は鈴庫山頂より滑沢山方面と現在の山梨市小楢山方面を臨む!
とにかく、山の奥深いところであることには違いないと紹介させて頂いた。
「松里の昔ばなし」によると「坂脇峠」は昔、重要な峠であり「甲州裏街道」
として、甲府から柳沢峠越で江戸への裏街道であったと記される。
注)この辺りは、江戸時代以降に集落が形成されたらしく、鈴庫山を始め鉱山開拓
が盛んな頃、柳沢峠を経て、青梅経由、江戸まで通じていたと考察できる。
しかし甲府より積翠寺を結ぶのは信玄時代に備えられた「秩父裏街道」だと覚えたが、
柳沢峠に出ると、「青梅街道」で江戸まで通じていたので時代考証の検証が必要。
甲府ー積翠寺ー太良峠ー西保ー三富三の橋ー滑沢ー「坂脇峠」を経て山道
を「柳沢峠」に向かったと記す。※坂脇峠(小屋敷林道ゲート辺り)で標高約1185m。
山梨県県営林道情報によると、当林道は山梨市三富川浦より滑沢に沿って
上流部を結ぶ山梨市営部分で、甲州市塩山平沢大字竹森入より「坂脇峠」
を越え、終点は山梨市三富川浦まで繋がっているようだが、今はゲートが
閉じている。延長は3328m、幅員4.0m余り。JR塩山駅から直線で7798m。
注)現在、「坂脇峠」は現甲州市塩山玉宮・平沢に所在。
注)今号は旧「松里」村を辿るテーマで「松里の昔ばなし」を基調にしている
が、この「坂脇峠」と「三窪」の二窪まで入るらしく、明治8年頃、坂脇峠が
玉宮村に含まれたとすれば、合併迄は「滑沢」であったかもしれないと!?
不詳である。何れ平沢を訪ねたい。造詣の深い方に教えを乞いたいもの!
注)このような山深い里山は、後期高齢の筆者には無理なようなので・・・、
ネット掲載の写真を拝借し、滑沢山の山深い里山をイメージさせて頂いた。
詳しくは、http://mizube.gnk.ce/362.html をご覧下さい。
甲州市には北端に小倉山のザゼンソウで有名な塩山玉宮があるが、
そこから、さらに山奥に甲州市塩山玉宮「平沢」がある。
そこからも山道が「滑沢」へ通じているようだが、途中「坂脇峠」でゲートが
閉まり、「小屋敷」林道方面の「滑沢」へは通行できない時期もある。注意。
慶長古高帳には村名の記載が見えず、延宝3年(1675)竹森之内平沢、
元禄6年(1693)には「竹森村之内平沢村」として年貢が割り付けられて
いるように、竹森村の枝郷であった。※塩山市誌による。
元禄11年幕府領になってから、一村として独立したと推定されている。
享保9年の家数33,寺1。徳美藩の時代には諸役を免除され、薪炭などを
里郷へ売り出す山稼は当村と福生里・竹森・千野の4ケ村入会の鈴庫山に
より、用水は沢の出水に依存した。※臨済宗向嶽寺派「宝泉寺」と「船明神」
(現船宮神社)があり、明治8年福生里村など2ケ村と合併して「玉宮村」と
なり、「塩山滑沢」は現在では山梨市上萩原の奥地と言う方が分かりやす
いかもしれない。何れ、松里シリーズが終わったら、平沢を訪ねてみたい。
現在、塩山玉宮平沢の「坂脇峠」から「小屋敷林道」へは一般車通行止め!
「坂脇峠」は予め調べたところ、現在でも、一般車両通行が難しいようなので、
今回は現地取材と撮影は省略した。
実際に越えた方の写真をネットより抜粋して紹介しました。※高齢につき登山自粛です。
http://himaraieus.hiho.jp/yamaseireki/2015/yosezawanokashira/yosezawa...
滑沢地区ー鈴庫山林道ゲートー大岩の処で林道を離れー尾根に乗るー寄沢の頭
ー南尾根ー「坂脇峠」(小屋敷林道ゲート)ー滑沢山ーへのルートの記録より抜粋。
滑沢山の山頂は現在地形図にも記載されていないらしく、素人では登れない!
※この写真は、連絡先不詳のまま、登山記録写真を参考にさせて頂きました。
如何に山深い里かをイメージするために、上記WEBより抜粋して掲載させて頂き
ましたので、寛容にご容赦下さい。
この山名が甲州市塩山小屋敷の「滑沢」の地名になった訳ではないらしく・・・、
「滑沢」、 この集落は約250年以上前から拓かれていたらしいが、集落から鉱山
があった付近迄、至る所に花崗岩の「滑」があり、急流のため滝のように見えるが、
50m~100m位滑になっていて、この沢を中心に滑の連続であることから滑の沢、
「滑沢」になったらしい。・・・と「松里の昔ばなし」には記載されている。
「宮の沢」と云うところもあったようだ。
「宮の沢」という沢は、沢の奥に小さな祠があったので、この名が生まれたと云う。
山の神様を祀った祠であったろうか、今は祠の跡は見当たらない。・・・と記される。
「三窪」の地も「松里の昔ばなし」に記載されているので、紹介しておきます。
「松里の昔ばなし」によると・・・、
「ツツジの有名な三窪の名称で6月20日頃がレンゲツツジの花の見頃で風光明媚
の名所である。「高原には”窪み”が三箇所あるところから、三窪高原の名がある。」
この三つの窪のうち二つが滑沢分であると解説されている。
現在はJR塩山駅より裂石経由で「柳沢峠が基点の三窪高原」として紹介されている。
筆者も移住10年にして・・・、始めて知ったことである。
「小屋敷滑沢と玉宮平沢」の境も、山中では良くわからない!?
そう言えば、「昔は入会権があって、お互いに山稼を共有していたと云う!」
編集後記:
今号で最も苦学したのは、「松里の昔ばなし」を基調に旧松里村を辿って
みようとしたが、”地名の由来”で見ても、松里村合併五村の下柚木、藤木、
小屋敷、三日市場、上井尻の地名・小字等にも「滑沢」は見えず、そうかと
言って、現住所の甲州市塩山小屋敷に「滑沢キャンプ場」は所在するし、
「松里の昔ばなし」には「滑沢」が記載されている。※甲州市役所飯島課長
にSNSで伺ったところ、即、親切な回答を頂き、明治41年に旧柚木村の一部「滑沢」
が編入されたと、再確認ができました。これで証明できます!
そして今一つ、「滑沢」が住居表示「甲州市塩山小屋敷」とあるので、当初
二箇所あるのかと錯覚するところでしたが、調べて見ると・・・、驚いた。
ITMAPの検索で見つけたのが、「小屋敷」は「滑沢」迄恵林寺山(扇山)の
北尾根を通じて三富の境(笛吹川)まで、滑沢から鈴庫山辺りまで広く、
奥地迄、山尾根と山麓で繋がっていることがわかった。山稼の名残だ!
「塩山小屋敷」と住居表示にある理由を考察したが、文献には見えず、
深く地図等検索をしてみると、国土地理院の25000分の1地形図にも
「塩山小屋敷字滑沢」と標示してあり、民家が約10軒弱は見えた。
但し、現地を踏査してみたら、今は一人も暮らしていない様子であって、
まるで、廃墟別荘地のような山間の風景であった。
更に検索を深めると、実はあの恵林寺がある小屋敷と北へ向かって下柚木
の一部を含み概ね鈴庫山の麓まで「塩山小屋敷」と標示されるYAHOO地図
(省略)を見つけた。一応、「滑沢」は「現塩山小屋敷」であることは解った。
二箇所あったわけではなく、安堵したものの、何故、「滑沢」まで「小屋敷」と
言う地名が残っているのか?気になって調べたが、これも不詳・・・!?
そこで、筆者は「武田信玄の時代、恵林寺を快川国師によって菩提寺
に決めた時、松尾神社傍に「武田兵庫助信実館」を配置したことがあり、
往時、里人は「小屋敷(おやしき)」と呼んでいたことで、後に地名となった
と云う。
その「小屋敷」の領域(即ち武田信実の管掌地=即ち恵林寺寺領)が、
現在の山梨市三富の辺りまであった歴史の名残だと筆者は見ている。
※「滑沢」地域が鈴庫山麓まで「塩山小屋敷」と呼ばれた理由だったと筆者は結論。
※脚色すると「何故、おやしきが”小屋敷”か?」と言うと、武田信玄公居館の
「躑躅ケ館館」に対して、 「小屋敷」と呼んだものと考察される。
それが現在迄、地名として伝えられているものと思われる。
ましてや坂脇峠(現甲州市塩山玉宮所在)や、三窪(今は柳沢峠基点の
ツツジの名勝「三窪高原」のうち二窪辺り迄までが、まさか当初、筆者は
旧「松里の昔ばなし」の範囲とは考えもしなかったことであるが・・・、
※三窪高原のツツジは引っ越し前の古いバックナンバーですが2011年
6月号「三窪高原と柳沢の頭はヤマツツジが満開」で紹介しています。
https://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/a848275a88824ca7bf09113c80b9cffb
※YS記自習NOTEより。