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甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧ノ荘」を辿る⑩北原「金峰山洞雲寺」と旧蹟「浄谷山安養寺」!19-06

2019-06-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧ノ荘」を辿ると、牧丘の北原に

麗美な「金峰山洞雲寺」がある!季節折々の花が咲く美しい寺院!

今号は、牧丘北原の「金峰山洞雲寺」は安田義定の三男西保三郎

義安が自刃した山中に、老臣渡瀬志摩守源清満が首級を埋葬して

堂宇を建立し供養したのが始まりで・・・、

その前身となった「旧蹟浄谷山安養寺」跡ついても訪ねます。

今春、桜満開の「金峰山洞雲寺」の風景!・・・見事!

「金峰山洞雲寺」は美しい!季節になると首都圏から多くの観光バスが訪れる!


~北原に佇む荘厳の「金峰山洞雲寺」~

~由緒によると、建久8年、安田義定三男西保三郎義安の首級

を弔って堂宇「旧蹟浄谷山安養寺」を建立したのが始まり~

~牧丘町誌によると、西保三郎義安は「実は、安田義定の曾尊、義高の子」

と云われる。注)安田義定の系図では、嫡男義資は歴史的にも明確であるが、

三男は不詳である。※頼朝により滅亡して以来、所謂家名断絶とされた!?

YS記:安田義定ゆかりと判断したのは、「安田義定が出世して都(京)の

警備や遠江守に任ぜられ遠州が守護地となり、長い源平合戦への参戦と、

その勝利による頼朝の鎌倉幕府創立等超多忙の生涯であったと思われるので、

甲斐の治領地であった要の「牧ノ荘」には殆ど立ち寄ることはなく、

全盛期に要害城を築き、西御所を構えるなど、中枢の”牧”を強固に守護する

ためにも、義高の子を養子として三男「安田西保三郎義安」と名のらせ、

「牧ノ荘」の要の地を守護させたものと考察している。※証しがあればご教授下さい。

その西保三郎義安の居所は明らかではないが、恐らく、不在がちな西御所を

中心に留守居役を務め、旧蹟安養寺の跡地は、往時の緊急避難地として義定

が定めていたものではないかとも考察している。

金峰山洞雲寺の「中雀門」は天正年間加藤光泰が建立した長屋門と伝わる。

 


「金峰山洞雲寺」の草創と由緒。

宗旨:曹洞宗。本尊:釈迦如来。北原にあり。

由緒書によれば「その沿革は、建久8年(1197年)建立」と云う。

当初は「浄谷山安養寺」と称し、「真言宗」に属し、現在地より北方十余町を

隔てた山沢に建立された。現在でも地名を「安養寺」と称している。

注)「旧蹟安養寺」については、後述で詳しく紹介する。

天正18年(1590年)に加藤遠江守藤原光泰によって、現在地である北原

上道に移転し、創建、「金峰山洞雲寺」と称した。※この時、曹洞宗に転ず。

 開基は加藤遠江守藤原光泰、開山は増福山興因寺第十三世抱山光暾(こうとん)

大和尚である。山号「金峰山」は甲斐の雄峰からとったものである。

特に甲斐守であった加藤光泰は崇信厚く、今の沓掛地蔵場に金峰山金桜神社及び

大国主命を遷祀して社殿石鳥居を建立するとともに本寺の山号とした。


何故、加藤光康公は旧蹟安養寺から現在地に金峰山洞雲寺を移転開基したのかを

考察してみると・・・、天正年間に甲府へ赴任した加藤光泰公は甲斐国の統治体制

を見直すに・・・、古刹であった旧蹟安養寺(真言宗)を継承して再興を図ること

もあり、今の北原に移転して、往時隆盛となった曹洞宗に転派して「金峰山洞雲寺」

を建立したものと考察している。

この洞雲寺の建立された現北原の立地は、塩平を経て、金峰山を越えると信濃川端下

に至り、現在クリスタルラインと称す北山筋を結ぶ山岳ルートは、甲府への”裏裏道”

にもなる。中世、武田信虎・信玄の時代の「秩父裏街道」などは参考事例になる。 


今、旧長屋門の辺りはワラビの畑となっているが、本堂と庫裏を仰ぐ!


「金峰山洞雲寺」の「普照閣」門を経て、本堂・庫裏のある境内へ辿り着く!

往時、甲斐甲府城に赴任した加藤公の北原の備えは如何に重要であったか!

  甲斐国・甲府城を守護するに要衝の地にあったことは、明らかに考察できる。


荘厳の洞雲寺の本堂前には、天然記念物「八房の梅」の古木が健在である。


金峰山洞雲寺の名木天然記念物「八房の梅」は、今も健在に開花、結実する!


「金峰山洞雲寺」の境内に咲く天然記念物「八房の梅」は、一見の価値あり。

八房の梅は、開花だけではなく、結実する梅は今では全国的にも珍しい。

この八房の梅は、江戸時代文化年間の「甲斐国志」にも記載され、当寺に移植や

植え継がれた記録は見えないので、樹齢は不詳。甲斐国志編纂期に既にあったと

すれば、樹齢は約200年以上を越える古木と推定されるが、定かではない。

往古より、『「八房の梅」を見た人に、幸せが訪れる』と云い伝えられている。

甲斐国志には「花は純白八重にして花冠中に一箇乃至八箇の雌蕊を有し、結実は

その雌蕊に随うものなり。梅子は径四五分の小粒なれどその群生の形状は甚だ奇

なり」と記され、結実は小さくて見逃しがちだが、出会えると幸せが訪れる。

開花は4月上旬頃、結実は4月下旬~5月上旬頃。

昭和35年山梨県指定天然記念物。昭和6年「山梨県名木誌」に選ばれている。


4月下旬には、金峰山洞雲寺境内のあちこちに、見事な八重の桜も咲いていた。


「金峰山洞雲寺」の「旧蹟浄谷山安養寺」跡は歴史ロマンを漂わせる!

注)西保上にあるこの鳥瞰案内板は、山梨市役所観光課温井一郎氏が描かれたもの。

  デジカメ複写の上、加筆、応用させて頂いたものです。


「金峰山洞雲寺」の寺伝及び牧丘町誌によると・・・、

「金峰山洞雲寺」は、旧蹟浄谷山安養寺から始まると由緒にある・・・、

その「旧蹟浄谷山安養寺」のことは、殆どの方に馴染みがないので、改めて

紹介しておく・・・、

前述の「金峰山洞雲寺」は、当初は山中において「浄谷山安養寺」と称し、

真言宗の山岳寺院として始まったことは既に述べている。

金峰山洞雲寺のある現在地より北方十余町を隔てた山沢に建立された。

現在でも、地名を「安養寺」と称している。

その「安養寺」は、建久5年(1194年)8月17日の小田野山城の戦いにて

鎌倉勢加藤次郎景簾並びに梶原景時の軍勢のため、安田義定の三男、

西保三郎義安(実は義定の曾尊、義高の子)も自刃して果てた。

老臣渡瀬志摩守源清満が主君(義安)の首級を埋葬して堂宇を建立したのが

旧蹟「浄谷山安養寺」となる。

義安の法号は「安養寺殿義烈浄安大禅定門」と贈られ、志摩守も名を清兵衛

と改め、終生堂守となり主君義安の菩提を弔ったと伝える。

堂宇建立は小田谷合戦より三年を経た建久8年(1197年)9月12日と伝える。

・・・そして、天正18年(1590年)に加藤藤原光康によって、現在地である北原

上道に移転、建立し、「金峰山洞雲寺」と改称した。※この時、曹洞宗となる。

「金峰山洞雲寺」の開基は加藤遠江守藤原光泰。

開山は増福山興因寺第十三世抱山光暾(こうとん)大和尚。

山号「金峰山」は、甲斐の雄峰からとったものである。

特に甲斐守であった加藤光泰は崇心厚く、今の沓掛地蔵場に金峰山金桜神社、

及び大国主命を遷祀して社殿石鳥居を建立すると共に本寺の山号とした。

寺の西方に遠矢山(戸谷山=戸谷観音)があり、その中腹の洞窟で天正12年

西国の六部源右衛門なる者、相州三浦郡より来りて、断食の行を修めて同15年

までに西国三十三番の観世音、弘法大師、地蔵尊を安置した。

この洞窟は、方30間あり、片隅に清泉が湧き出て雲切はいつも堪えない。

開山増福山興因寺第十三世抱山光暾(こうとん)大和尚は、この洞窟に21日の

断食修行をなして、今の沓沢に至りて「洞雲」の二字を冠しこれが寺名の起因と

なったとも云う。

現在地に移転当初の伽藍は広大な堂宇と伝えるが、現在の客殿・庫裏は・・・、

嘉永7年の建築。

中雀門は、天正年間加藤光泰が建立した長屋門であると云う。甲斐国社記寺記。

・・・これらが、現在の「金峰山洞雲寺」の由緒として伝えられている。


旧蹟安養寺跡には往時の石垣積が残る。当初の堂宇が建立された地。祠は再構。

旧蹟安養寺の境内地はこの石垣まであった。境内地の奥に現住が守る仮堂が見える。


仮設のお堂には現在も西保三郎義安の五輪塔があり、現住により守られている。

西保三郎義安の法号は「安養寺殿義烈浄安大禅定門」。※供養の五輪塔等は復元。


旧蹟安養寺跡を流れる「大沢川」の源流は、今も清らかな水が流れる。

「大沢川」源流の流れは、往時、西保三郎義安が落ちのびた地の命の水と見える。

 今も、この流れから飲料水を得る一軒の別荘の水道管が見える。


 「金峰山洞雲寺の寺号の起因となった戸谷山の「鳥谷観音」!


牧丘町大字北原戸谷山(鳥谷山=遠矢山)の中腹にある戸谷観音は・・・、

東山梨郡誌によると「北原西沢にあり、岩窟およそ30間四方、中に西国三十三

の観世音菩薩33体、弘法大師及び地蔵尊」が安置されている。

西保に掲げる大鳥瞰図(温井一郎氏作)抜粋:塩平より林道を左折した林道沿上。


 現在のクリスタルラインに掲げる標識  洞窟の西国三十三番観世音菩薩33体

この洞窟は、方30間あり、片隅に湧き水が湧き出て、雲霧はいつも絶えない。

 即ち、「洞雲」が常に立ちこめている山深い洞窟を意味しているようです。

真言宗の祖「弘法大師」像を安置し、鳥谷観音は洞雲寺開山和尚の断食修行の場。

「鳥谷」とは、巣鷹山との関係が深く、古くはこの近くに鳥屋を張り、網で鳥を

捕らえる山中の小屋であったろうと云う。

古書に残る小屋の造りに「北方に餌未那枝と水を設置すべし。内は小石を敷く也。

砂は悪しと云う。網懸鷹の鳥谷なれば大小あり」と云う。

この地は、清水も湧き、眺望も良く、修験の地にも理想的な場所である。

北原の「金峰山洞雲寺の開山増福山興因寺第十三世抱山光暾(こうとん)大和尚は、

この洞窟に21日断食修行をなして今の沓沢に至りて、「洞雲」の二字を冠して

金峰山洞雲寺を建立し、これが寺名の起因となったとも云う。

「金峰山洞雲寺」の寺号となった戸谷山の「鳥谷観音」は、現在は塩平を左折、

上鳥瞰図に示す林道に沿う位置にあるようだが「ヤブ山をこよなく愛する登山ガイド」

地元ガイド三上弘文さんに教えを乞う機会はないものの、その登山情報によると、

漆川集落の西山中にあり、所謂、登山道は不鮮明で、登山ガイドによると地形図

とコンパスを頼りに登山せざるえないようなので、高齢の筆者は踏査を諦めた。

唯一ネット情報の写真を抜粋して掲載はしたものの、洞雲寺開山光暾大和尚の断食修行

の場がこんな山奥にあったと云う、雰囲気だけでも伝われば幸いと応用させて頂いた。

上記写真右に示すような洞穴が残されているようです

「牧ノ荘」を辿るには、山梨市役所観光課の里山を知り尽くす「温井一郎氏」が

見所を描いて要所に掲げられている道案内板(鳥瞰図)を頼りに歩くのがベターです。

但し、プリントがないので、デジカメ写真を撮って、画面を見ながら歩けば、殆どの

要所を訪ねることが出来ます。


 



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