新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲州市塩山「下萩原」を辿る⑦下萩原の往古は大自然の中・・・!22-02

2022-02-01 | 山梨、里山の美しい四季!

山梨県甲州市塩山「下萩原」は、大自然に恵まれ、

”人が住みたい立地環境”にある。

2月・今号は、甲州市の東山山麓の扇状地に形成される

下萩原」の昔と今の様子を紹介します。

2021年8月号で紹介しているが、この時は、塩山の中心地

のつもりであったので、少しだけ視点を変えて辿ってみる。

東山の源治郎岳と恩若峰の山麓の扇状地に形成される

集落が「下萩原」であったこと。同時に、往古、豪族三枝氏が

平城(館=現在も字名だが、「御殿」と云う地名が残る)こと。

後柏原天皇と「柏原堰」の伝説と柏原神社。

微笑仏の木食百道の出身地であることなどを紹介している。

もし、興味があれば、本部ブログのバックナンバー2021年

8月号をご覧下さい。


「下萩原」の各住居の窓からは、現塩山市街地を一望できる!

「下萩原」の各住宅から望める素晴らしい遠望・・・!

右端の山は、塩山のシンボル”塩の山”、雲に霞む背景の山並みは石和の

大蔵経寺山~要害山(甲府武田館の守護山城)への山脈。その左奥に

聳えるのが、南アルプスの鳳凰三山と白根三山と櫛形山などが晴れた日

は、何時も望めるので、筆者のお気に入りです。


「下萩原村」、甲州市塩山下萩原は赤尾から重川を隔て

東にある。北は塩山中萩原、南は塩山牛奥。

東の大窪山(山梨市牧丘)から西は南流する重川との間

展開する村である。往古から「しもはぎわら」と呼んだ。

   ~大日本地名辞典、塩山市下萩原の項238P~


用水は「小田原橋近くの下小田原村地内で重川水を引き

入れた「柏原堰」によったと言う。

※もちろん、今は甲州市の上下水道が引かれている。

しかし、下萩原村は流末にあったため、中萩原農民の

畑田成や上萩原村の不法を訴えた訴訟が屡々起こり、

結果は、元の形へのし直しとなっている。

歴史的に、農村は至る所で”用水問題が起こっている”


臨済宗向嶽寺派 法谷山東林寺は、今も本尊を継ぐ・・・!

21年8月号で紹介している法谷山東林寺は、本堂の写真を省略します。

特に、庫裏は若い住職夫婦の今流の現代建築(一般住宅)にて・・・


甲斐国志 巻之75 仏寺部第3によると・・・、

法谷山東林寺は、下萩原村 臨済宗塩山向嶽寺の末、黒印で庶民的!

寺内320坪 除地3段6畝、本尊 十一面観音(行基作と云う)、享禄3年3月

再興、開山天林義壽(永正6年10月28日寂ス)・・・甲斐国志に記される名門。


桂山長昌院・・・廃寺。※推定明治時代だが、大火にあった恵林寺の再建

のため、広大な寺地は売却されたと推定される。

甲斐国志記:臨済宗小屋敷村恵林寺の末、2町4段6畝12歩、本尊は

十一面観音・・・、と記される広大な敷地のお寺は本山の再建で売却か?


下萩原には、「童夢」という特異なサクランボ作りで成功

している葡萄園がある。

童夢のサクランボは熱い!※以下の写真は12年6月5日頃撮影。

「童夢」の経営者「菊嶋氏」に取材。移住後、ブログを始めた往時撮影。

とても感心したのは、訪れる客層のことを考え、身障者が車椅子でも

サクランボ狩りができるように、サクランボの木樹をY字に作る等の工夫

を手間をかけてされていることを情熱的に語られたのをよく覚えています。

とても情熱をもっておられた経営者には、暫くお目にかかっていないが、

お元気のこととは思います・・・した「下萩原」は

「塩山で有名な”雨敬橋”をわたると・・・」

2021年6月号にて紹介した「塩山下萩原」は・・・、

”サクランボの郷”として有名になりつつあると紹介した。

今号は、坂の上には冨士講の有志によって祀られた

「浅間塚公園」の浅間大神と山神大神の石祠が建つ。

その下段の道沿いには「馬頭観音」が祀られている。

里人が、農作業の合間に、ベンチで景色を眺めながら

休めるようにしてある。流石に景色を売り物にする郷だ!

但し、日本国中の課題だが、日本の風景は、電線と電柱

が風景を損ねているので、”もったいない”ことだ。

インフラ整備の費用と技術の手前、やむを得ないのか?

欧州と風景の差(違い)は、この辺りにありそうです。

今、盛んに新幹線の風景から、電柱と電線をなくしようと

しているも、なかなか上手くいかないようです。「下萩原」

この景色と坂と電線を何とか工夫できれば、人口の

増加政策の一策になるのではないかと思われる。


山梨県の人口密度はこの上なく少い。それは扇状地の勾配による坂の

上り下りの多さだと云う。所謂、住みたいところの立地条件に外れている。

そして扇状地の土壌の問題か果物栽培農家が多いことで、一般産業が、

えないと言う人すらいるくらいだ


「下萩原」は、江戸時代、享保9年(1724)の世帯数は70軒・人口243人。

平成28年の国勢調査では、世帯数174軒、人口492人と増加している。


※)これは、現在の甲州市塩山の雨敬橋を渡って、左折して坂を上ると、

甲斐国の東端から、南アルプスの山並みを背景にして、甲府盆地を一望

できる立地条件にあるからだと、筆者は考察している。

筆者も一軒家ならばと調べたことがあるが、急坂が多いのと西陽が入るの

が嫌いな人を除くと、人が住みたい郷の立地条件として、中心地(商店街)

や市役所通りから直線で、車で数分の近距離にあり、更にJR塩山駅に近く、

見晴らしは良く、人々が憧れる立地条件にあると考察できる。

2021年8月号の「下萩原」の今はサクランボと桃栽培で盛ん!と紹介した。

俗に言う”東山”の恩若峯”と源氏ケ岳を背景にして展開されている集落群。

何故に”東山”と云うか!?ここでは省略するが、大菩薩連嶺を併せて一帯

を”萩原山”と云う人々の気持ちや考え方は様々である。

地元民の伝承によると、地名「萩原」の由来となっているように、西暦748年

奈良時代の行基が甲斐国を行脚した時(※筆者の調べでは甲斐国入りの

足跡は見当たらない)雲が立ちこめ、激しい光と共に、十一面観観音菩薩

が現れ、15Mほどの大岩がオノで割ったように裂けて、その間から萩の木

が生じ、行基は萩の木を伐採して、3体の十一面観音菩薩像を彫って、

一体は上萩原の「雲峰寺」に、他の2体は、根古橋の観音堂、長昌院(廃寺)

へ安置したと伝わり、このため一帯を「萩原郷」と呼び、安置された地域が

「上萩原、中萩原、下萩原」の地名の起源になっていると云われるので、

ここでも甲州市塩山下萩原を語るには、甲州市塩山の中でも、特に広域な

「萩原郷」少しだけでも、触れておきたい。


大日本地名辞典によると・・・、

「萩原郷」とは、現上萩原、中萩原、下萩原に比定されている。地名は

「はぎわら」と呼ばれる。

至徳4年(1387)成立の「塩山抜対和尚語録」に「甲州路萩原」の法音

禅尼の名がみえ、同尼の七周忌が修されている。

文安2年(1445)11月15日の武田信重寺領目録写には、萩原郷のうち

小山年貢二貫文とあり、板垣殿寄進と記される。

天文8年(1539)2月20日武田信虎の将両角虎城が灯明銭として向嶽寺

に再寄進され、永禄12年(1569)11月19日には武田信玄により同寺領

を安堵している。※「武田信玄判物写」同文書。

武田氏滅亡後の天正10年(1582)12月6日、萩原のうち500文などが

本給として、徳川氏から萩原市之尉に安堵された。※「徳川家印判状写」武藤文書。

※この萩原家以外にも、首都圏からすれば随分大きな家に居住する方

が多い。そんな中で、地域の住民はこれらの守護神を大事にする性か、

首都圏では、隙間もないくらいの家が犇めいているが、こちらでは、多くの

空き地もある。「道祖神」と呼ぶらしいが、果たしてどちらが倖せなのか!?

高齢者が多く、頑固が多くて、今の山梨県はなかなか成長しないのか!?

あるいは、農地等開墾で所有している高齢者が守っているからか?

よそ者には良く解らない問題のようです。もし何方か、興味があれば、

研究して、もし機会あらば、ご教授頂ければ幸いです。


「下萩原」の往古は、畑で木綿、煙草を栽培し、男は、入会山における薪、

秣(まぐさ)、刈敷(カリシキ=山梨ではカッチキと言い草木を地中に埋めて

堆肥にしたもの)などの採集。女は木綿織と蚕糸を営んだようです。

特に萩原煙草は有名で良く売れたと言う。

首都圏では、概ね知れ渡っていたようです。


拙いブログ「・・・山梨の魅力再発見・・・」も、伝えて行く内に

「若い頃、山が好きで、山梨へ日帰り、山小屋泊まりで屡々来て

良く知っていること。また、風景が気に入っていたことなどが、

大きな理由になると思うが、移住13年目になる今になって、未だ

自らのハンドネイムを”新甲州人”としています。

元々の首都圏(東京)人の老夫婦は「郷に入れば郷に従え」と”甲州人”

になろうと務めたが、いろんな意味で”新甲州人”で良いと思い始めて

いる。次号は、往古から栄えた「中萩原」を尋ねたいと思っています。

「最近は・・・、つれずれなるまま」の日記風になってきましたが、

懲りずに・・・、宜しくネ!