新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

古代甲斐国の歴史ロマンが始まった!第2章 大蔵経寺山編  2017-10

2017-10-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

石和大蔵経寺山南麓から古代甲斐国の歴史ロマンが始まった!

シリーズ:第2章 大蔵経寺山(標高715.6m)編!

シリーズ「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!」

第2章は「大蔵経寺山」を眺めて”古代甲斐国の始まり”を見渡して見る!

①頂上には、中世であろうか!?新城(にいじろ)と云う山城があった!

この城跡は武田信虎が川田館を構えていた時の詰城ではないかと云われる。

②大蔵経寺・物部神社裏から山頂へ登る登山道の途中で合流する御室山

山頂には、古代、物部宮(旧蹟)が祀られ、奈良時代には行基菩薩による

「彌勒実相院」が草創された「彌勒平」の址があると云われる。

この「彌勒平」の地こそ、行基開創伝説の「彌勒実相院」「靑獅子山松本寺」

の旧蹟であると云われるが、今は、山が荒れて、遺蹟は辿れないが、場所は

比定されている。※12月になったら、大蔵経寺現住職と副住職に同行し、

改めて踏査し直して来ます。乞うご期待!

③山神社の奥院「お天狗山」へ登り太古の石積古墳を踏み越える頂上への通。

大蔵経寺山山中には登山道により、太古から古代の足跡を辿る楽しみもある。

歩く楽しみは・・・、観光施設や文化・遺蹟、特にグルメを楽しみたいが、

時には、目には見えない(何もない)歴史の変遷と物語を想像して歩くの

も新しい観光散策の新しい楽しみ方の一つだと思う。

そのためには、せめて観光MAPなどでも事前情報を得ることが大切です。

このブログもスマホの検索で見ることはできるのですが、画面をスマホ用に

作成していませんので見にくいと思いますのでご容赦下さい。

石和を訪ねる際は、序章紹介の石和温泉駅前笛吹石和温泉駅観光案内所」

へ立ち寄り、少しでも事前情報を得て歩いてもらえると楽しいと思いますョ。

※筆者のように東京から移住した自称「新甲州人」のような目線で見ると、

ここ山梨の里山には、特に中世以前の”物”や”伝説”も謎々を含めて至る処に

眠っています。東京・横浜など首都圏とは歴史や文化も人の趣も比べものに

ならないくらい豊で面白いですョ!

そんな意味から、暫くの間、シリーズに興味があれば・・・、

写真より拙い素人文章表現の方が多いブログシリーズですがご笑覧下さい。

そうすれば、石和温泉郷を見る風景も新しい発見があると思いますョ!

注)念のためこれは歴史の解明報告文書ではありませんのでご留意下さい。


古代甲斐国の歴史は、何故大蔵経寺山麓から始まったのか!?

既に序章を見て頂いた方には、もう何か感じられたこと思います!

《序章》でお話ししたように・・・、

「古代甲斐国は国中・北山筋、大蔵経寺山と御室山山南麓から始まった!」

参考:本テーマのバックナンバーは以下の通り

6月号http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/32f89da6d24c42f1bbababc765b7d447

9月号http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/b1162724eacffe908b4e2dd32483dfa1

古代甲斐国の歴史は5世紀後半、ヤマト王権が第21代雄略天皇の御代、

倭国構築・平定を大連物部目氏に命じて、東端、甲斐国の覇権・統治の

ため物部氏一族が派遣され、この時代から古代甲斐国が始まったものと

考えられると書いていますが・・・、

注)第21代雄略天皇の在位は457~479年と推定されている。

もしそのように考えて見たら頷けることが多いと云うことでもあります。

注)その仮定(物語でもかまわない)で進めていることに留意のほど。

その物部氏一族が都から東海道を経て駿河より若彦路を越えて、始め

甲斐国に入国した時、若彦路の竹居にある花鳥山(日本武尊が東征の

帰路立寄った伝説がある処=もちろん当時は知らない)に立ち寄った時、

そこから甲斐国の盆地を見渡すと、何と正面中央に望む「松本山

(現大蔵経寺山)」の山容を見て、往時都の御神躰山であった”三輪山”

を彷彿して、感動を覚えたのだと想像する。

直ぐさま、甲斐国の覇権・統治の拠点はあの山麓しかないと・・・、

若彦路を進み酒折宮方面を目指し北山山麓を辿って、現大蔵経寺山麓

に辿りついたと考えられる。※YS記

そうすれば、その物部氏一族が最初に構えた本拠館は現大蔵経寺境内

 辺りではなかったかと考えられるのである。

但し、残念ながらそのことを証す古文献や物証などはあるはずもなく、

また、学者の見解等では日本の歴史上では、崇仏・廃仏論争で敗れた

物部氏及びその一族は没落したことで、特に奈良時代「日本書紀」を

はじめ「古事記」など朝廷の作成した所謂「記・紀」などにより、

殆ど物部氏については経歴が書き換えされ、抹消、削除されていること

もあるようで、特に甲斐物部氏については、何らこれらのことを証す術

は残されていない。 ※後世都では血筋は”石上氏”として復活している。


そうならば・・・、あとは推論するしかない。


 最初に物部氏一族が本拠を構えた処は現大蔵経寺境内!?

最初に物部氏一族の”拠点館”は現大蔵経寺境内地辺りに築かれた!?

そして”館”の鬼門方位にあたる後の御室山山頂に旧蹟物部宮が祀られた。

そうすれば何故御室山山頂に”物部宮”を祀ったのかも解けることになる。

注)この御室山はその後東麓の春日居に国府が開かれる時、山梨岡神社が建立され、

鎮目軍団が駐屯して国府を鎮護することになる。

詳細はシリーズで山梨岡神社の項を予定。

その後、甲斐国のことが都において話題になることが多かったらしく

特に和歌などの流行る時代には、随分もてはやされた時代があると聞く。

その一つが、後の時代になるが、養老6年(722年)行基菩薩も

御室山を選び、旧蹟物部宮の近くに「彌勒実相院」を開創したことが

ただ偶然だろうか・・・!?YS記)筆者は戦略的な配置と見ている。

注)旧蹟物部宮に並ぶ位置。甲斐国に於いて仏教普及の中心拠点に相応しい立地。

現在も「彌勒平」と称されて寺伝に残される。

同時に御室山の乾の方位にあたる立地に、仏教普及のための修行道場を

建立し、さらに拡大可能な立地に相応しい「菩提山長谷寺」を開創した。

さらに民衆に仏教を普及させるために、”里寺”とも云える立地に、

「廃・鎮目寺」を開いたと考えられる。注)保雲寺前に今も遺蹟が残る!

注)「廃鎮目寺」は、シリーズ別紙にて紹介予定。


 閑話休題!

明治36年の「真言宗松本山大蔵経寺」鳥瞰図は語る!

「真言宗松本山大蔵経寺の景」山梨郡岡部村字松本(現笛吹市松本)

明治36年3月に作成された鳥瞰図を見ると・・・、

ここには、大蔵経寺の江戸時代の様子が読み取れる貴重な鳥瞰図が画かれている。

注)大蔵経寺山は分かり易く「大蔵経寺山」と「御室山」が分けて画かれている。

  実際は「大蔵経寺山」への登山道の中間ピークが「御室山で」見分けにくい。

上図の由緒書には「養老年度聖武帝の勅願で行基菩薩草創したまう所也」とあり

従って聖武天皇の勅願と云う”譽”が薄いのは、それほど行基菩薩の力が甲斐国の

仏教界にとっても強大であったことを物語っているのではなかろうか!?

注)養老6年は722年。女帝元正天皇の御代。在位は霊亀元年(715年)~

養老8年2月4日(724年3月3日)。注)この頃行基は朝廷に疎まれていた。

寺伝によると行基菩薩が開創した寺院は彌勒菩薩像を納めて「彌勒実相院」

と称し、その後「靑獅子山松本寺」と称する寺になったものと云う。

山中にあったと云われる「青獅子山松本寺」は、当時、伽藍が構築され三重搭

まで建立されたらしいので、現在、寺伝を紐解いて学んでいるところです。

先に「彌勒実相院」が開基されたが、修行道場としての立地は「菩提山

長谷寺」の方が良いので「靑獅子山松本寺」を本寺(往時は仏教伝播の本拠)

として「菩提山長谷寺」を開闢したのではないかと考えている


もしかしたら「大蔵経寺境内」辺りに「物部氏一族の館」

があったのか? そう考えると・・・、

中世武田信成公の代に”その館址”が、中興開基の時に、現

大蔵経寺の境内地となったのではないかと見ることもできる!

「真言宗松本山大蔵経寺」※写真右上山上の窪み辺りが「旧蹟物部宮」

改めて「松本山大蔵経寺」の寺伝(略縁起=伝略記)を紹介する。

奈良時代、養老6年(722年)に法相宗の行基菩薩を開祖として

創建されたと伝えられている。

往古は菩提山長谷寺の本坊で松本寺と呼ばれており、山内にも物部神社

を勧請し、大寺院であったようである。・・・と記される。

YS記)旧蹟物部宮の創建年等が不詳につき、時代考証等を再検証中。

応安年間(南北朝時代)足利三代将軍義満の庶子観道上人が中興開山と

して入山するにあたり、足利義満が甲斐守護武田信成に命じて七堂伽藍

を建立させた。この時より武田家祈願所になっている。

また山の形が獅子が蹲踞するに似ているので、青獅子山(せいししざん)

と号し、観道上人が大蔵経を五重塔に奉納したことに由来して、寺名を

「松本寺」から「大蔵経寺」と改めた。

後に旧松本寺の寺号を山号に変え、「松本山大蔵経寺」に変わっている。

観道上人が当時納めた仏画等が山梨県指定文化財に四点指定されている。

永世13年(1516年)9月28日武田信虎と駿河勢との万力の合戦にて

兵火に合うが、復興を経て、永禄11年(1568年)信玄の越後攻めの際、

戦勝祈願寺として「大蔵寺」の寺名もあり武田家の守護尊である将軍地蔵

も納められている。

江戸時代に入ってから徳川家康・秀忠らによる当山護寺復興にあたり、

30石の所領が御朱印地として安堵され、寺門は興隆を見た。

その時に賜った家康公の念持仏である三面大黒天や権現堂厨子が現在残

っている。享保3年(1718年)甲府藩主柳沢吉里公が大般若経を

寄附し、毎年正月甲府城内にて大般若経を転読した。

また、当寺は甲府城から鬼門にあたるので、甲府城代が毎月17日、

武運長久に祈願参拝したと伝えられている。

江戸期は新義真言宗檀林能撰寺格(学問所)を有し甲斐国真言宗七檀林

一寺として寺運興隆の一途を辿った。

創建以来、数度にわたる火災により焼失したが現在の伽藍は天保から

安政年間に再建されたものである。 

荘厳の「松本山大蔵経寺」のことを詳しく知りたい方はHP:

http://www.daizokyoji.org/info.html をご覧下さい。

検索でも「大蔵経寺」と問えば、ウイキペディアでも概要がよく分かります。


 旧蹟「物部宮」は、往古御室山山頂に鎮座したと云う!

旧蹟「物部宮」は御室山山頂の御神木柱の”石神”に祀られていた。

物部宮は、現在、旧蹟の御印に小さな石祠が祀られている。

この辺りが御室山山頂であり、昭和年代になって石神の間に現住職が

旧蹟の目印として信仰を伝えるために新たに祀った石祠だと云う。

現大蔵経寺境内に、往時、物部氏一族が甲斐国覇権・統治のための

本拠館を構えたとすれば・・・、背後の御室山山頂に「物部氏祖神の

ニギハヤヒノミコト」を祀ったとすれば納得が行く。 


 養老元年4月、朝廷から弾圧を受けた行基は、恐らく全国修行行脚の

機会を得ているが、甲斐国も訪れたかも知れないが、定かではない。

天平3年(731年)以降朝廷は弾圧を緩め、聖武天皇が天平13年に

東大寺の大仏造営の勧進に起用されてから、天平17年には「大僧正」

の最高位を得ていることから、往時朝廷の力を動かして仏教寺院を開基

できた可能性が大である。

それこそ全国行脚時代に情報収拾して古式の日本地図「行基図」を作成

したくらいの高僧であるので、甲斐国内の仏教寺院普及と要衝を兼ねた

戦略的配置は「大僧正」の地位を借りて容易に開基ができたものと考える。

そのことから行基お墨付きを養老年間に遡って「行基開基」の寺院にした

も云えるのである。

従って、国策で戦略的に日本国の各地に要衝として仏教の修業道場として

の寺院配置をしたのではないかと考えることができる。

YS記)行基伝説を詳しく書くには見識も容量も不充分であるので遠慮。 


 「彌勒平」址については、12月になったら現住職の案内で、

 再検証の後、本シリーズ中で詳しく紹介したいと思っています。


 中世、室町時代、三代将軍足利義満の命で観道上人を迎え、

11代甲斐守護武田信成公によって、「松本寺」が現在地に

遷され中興開基された時、大伽藍になって三重塔も建立され、

大蔵経も納められたことから「松本山大蔵経寺」と改称された。

その時、現境内地に「物部十神」は遷座されたのです。

物部神社 現在の物部神社は、大蔵経寺境内に厳かに鎮座する!

 

物部神社の奥深い由緒と歴史を辿るには、一度は御室山に登ることもお薦め!


 物部神社は、甲斐国志によると・・・、

「十社明神 松本村、黒印神領弐石四斗五升社地。縱四拾二間、横四拾間。

社記に云う「ニギハヤヒノミコト、ウマシマジノミコトより物部氏の祖十神を

祀る物部社是なり。

往古は、御室山の山上に鎮座ありしを後に今の地に遷すと云えり」と記される。

この由緒記を頼りに特に御室山の物部宮の創建とその由緒を検証している。


1)参考添付:国土地理院地形図写し、※NETMAPより要点抜粋

国土地理院地形図で見る大蔵経寺山山頂への登山道と山梨岡神社から結ぶ

 2本の登山道の接点が御室山山頂である。

大蔵経寺山山頂への登山道に御室山山頂は重なる!

注)国土地理院の地形図は複写公開はできないが、あえて御室山山頂を知って

もらうために自習NOTE用に複写添付させて頂いたもの。※転写は厳禁です。