大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!
第7章:山梨岡神社編!"やまなし”の語源発祥の地・・・!
古代甲斐国は、謎々が多い・・・!
今号は、第7章:山梨岡神社編をご紹介します!
山梨岡神社の背後にある”御神体山”を御室山と呼ぶ!
御室山は春日居側から見ると古代ヤマトの三輪山(御神体山)を彷彿する!
御室山~山梨岡神社の背後にある山!
山梨岡神社の岡は御室山を指し、古来より神のいる場所として信仰されて
きた。中腹には山梨岡神社旧社地、御室山古墳がある。
旧社地は神聖な場所とされ、かつては祭日に神輿が登っていた。
御室山古墳は積石塚の円墳で直系11m、高さ2m。
石室は南西方向に開く無袖型横穴式石室で全長約7mである。
また、毎年4月上旬には御室山では笈型焼が行われる。・・・昭和63年
(1988年)4月に復活した!とある。※境内解説版による。
YS記自習NOTE~御室山について~
写真の山容が御神体山であり、旧春日居町側から見て御室山と呼ばれる!
現在は山肌を削った「笈型焼」の型が目印になっている!※写真には東側型部。
この写真左下の山麓辺り、鎮守の森の中に山梨岡神社はある!
この御室山の山名は地形図には書かれていないが、大蔵経寺山登山道の
途中の植林の中にある。
国土地理院の地形図にて山梨岡神社側から登る旧登山道を辿ると山頂は
読める。現在は大蔵経寺現住職が復元された旧蹟物部宮石祠と御神体柱
が目印!※ブログ2017年12月号第3章~2018年1月号第4章でも紹介しているので検証乞う。
YS記)5世紀雄略天皇の御代、大連物部目が命じられて東端甲斐国覇権統治
(東征の防備)のために物部氏一族が遣わされ、若彦路を越え竹居の花鳥山
に立ち寄り、甲斐国内を見渡して中央北山筋の現大蔵経寺山を見てヤマトの
三輪山を彷彿し、甲斐国の拠点は現大蔵経寺山南麓に構えたのではないか
と考察している!故に・・・、
その背後の山上に物部祖神を祀り守護神としたのではないかと云う論拠である。
注)以前に紹介したが、竹居の花鳥山にあるヤマトタケル立ち寄り伝説の大杉の前(祠を祀る)に、
今は整備された駐車場広場があり、そこはリニア新幹線(実験線)の展望公園で人気のスポット!
そこから甲府盆地を眺めると、筆者が何故、この考察を画いたかが分かって頂けると思う。
証しこそないが、論拠で考察する他はない!素人の妄想であろうか!?
山梨岡神社の社伝を見ると・・・、”岡”そのものが御室山を指し・・・とされ、
春日居に国府が置かれた頃から、山容を御神体山として御室山と呼ぶように
なったのではないかと見ている。
現在は石和側から大蔵経寺山、春日居側からは御室山と呼ばれる。
筆者は、長い間、大蔵経寺山の登山道途中に山頂があろうとは知らなかった。
大蔵経寺山登山道の途上にあり、標識もないので登山客も殆ど気づかない!
山梨岡神社は、”やまなし”を鎮護する御神体山の麓に・・・!
御室山(御神体山)に相応しい山容の山麓に山梨岡神社はある!
山梨岡神社の由来
鎮座地:笛吹市春日居鎮目小字宮ノ前1696
由緒:延喜式神名帳に載る古社で、旧社格は郷社である。
人皇十代宗神天皇(※崇神天皇)のとき、国内に疫病が流行し、災害も
多い故、勅命により御室山山頂に創始され、その後、成務天皇の御代、
麓の梨樹を伐り拓いて神戸を遷し「甲斐ケ根・山梨岡神社」と号した。
「やまなし」の語源発祥の地であり、大字「しずめ=鎮目」の地名も
往古、軍団(※鎮目軍団と云う)が屯(※駐屯)した名残りである。
祭神:大山祇命(オオヤマズミノミコト)、別雷神(ワケイカズチノカミ)、
高霞神(タカオカミノカミ)。
祭日:四月四日・五日。摂社吾妻屋宮の御神体を迎え、虫加持(ムシカジ)、
太々神楽(ダイダイカグラ)の執行、神輿の渡御があり盛大に行われる。
文化財:【1】本殿(付棟札)、国指定重要文化財、室町時代末期の建築様式。
他、神社を中心に裏山一帯は歴史景観保全地区として県指定。
古歌:
甲斐かねに咲けにけらしな足引きのやまなし岡の山奈しの花 能因法師。
他・・・と境内の春日居町の解説版にある。
甲斐国志:「日光権現」鎮目村・・・の項
古文書に「山梨明神、山梨権現」とあり、慶長8年の黒印、慶安元年の御朱印
以来「日光権現」と称せられ、現在は「山梨岡神社」と称されている。
御朱印社領八石壱斗社中、(中略)・・・相伝えて飛騨工の造立する所と云う。
戸前に獨足獣の木像を置き、夔(き)の神と称す。
拝殿縱四間橫六間。庭前に輪橋あり。
又、郡石と云うは、長五尺三寸横四尺二寸傍邊皺紋を作すこと綿片の如し。
一般厚僅かに数(すう)寸なり。・・・(省略)・・・と記される。
春日居町誌には、往古は境内社が1.稲荷宮、2・・・~12猿田彦大神が
祀られていたが、現在は天皇宮と水神のみ・・・と記される。
太々神楽(だいだいかぐら)は、山梨県無形民俗文化財!
山梨岡神社の神楽殿は別名「武田信玄出陣の神楽」とも言い・・・、
出陣に際して勝利を祈願して奉納した神楽であると云う。
二十四種の舞があるが、いずれも天の岩戸の故事を中心とした古事記神話
の世界を表現した、所謂、出雲神楽の系統に属するもの・・・。
春の例大祭に「太々神楽」は昼夜二日間にわたって舞われる。
・・・云々と、春日居町解説版に記されている。
山梨岡神社境内の古杉の大樹と往古の趣き・・・!
山梨岡神社の境内に御神木であろう大杉の大樹の前に古歌碑がある。
不詳だが・・・、御室山にも里人の入会騒動が何度かあったらしく、
その「山争いの図」が伝わっていることが解説版に紹介されている。
山梨岡神社境内に”郡石(こおりいし)”が置かれていた!
山梨岡神社境内と郡石は、山梨の歴史文化公園に指定されている。
境内には郡境の表示石であったと伝わる「郡石(こおりいし)」がある。
鎮目の地は、令制下の甲斐国山梨郡山梨郷に比定されるので・・・、
即ち、往時の郡名、そして現在の県名の発祥の神社と云うことになる。
※ウイキペディア参照。
甲斐国志は・・・郡石と云うは、長五尺三寸横四尺二寸傍邊皺紋を作すこと
綿片の如し。一般厚僅かに数寸なり。・・・と記す。
山梨岡神社境内は、桜の季節が美しい!
境内の池の向こうに神楽殿を写し、桜の花が爛漫に咲く・・・!
山梨岡神社のフジの花は見事!笛吹市指定天然記念物!
山梨岡神社の藤棚~背景に御室山が映えて美しい!
市指定文化財のフジは、地上から3.5m上で三本は杉(現在は電柱)に
よじ上り、二本は鉄製の棚いっぱいに広がり、さらに北側中央のエノキに
よじ上っている・・・。
花期は4月下旬。山梨岡神社のフジ棚は一度は見たいものです。
注)写真はウイキペディア「山梨岡神社」のページより抜粋複写したもの。
でも、このフジは、満開の頃、見事だと思いませんか・・・!?一見の価値あり!
YS記自習NOTE :抜粋一部
自習NOTE「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!」
には自習中に学んだ多くのMEMOがある。一部要点を抜粋すると・・・、
①5世紀、大蔵経寺山南麓の現大蔵経寺境内辺りに、雄略天皇の命で遣わ
された物部氏一族が館を構え、故にその背後の山上に旧蹟物部宮を守護神
として祀ったと考察論拠を記すが、その時代考証では旧蹟物部宮が祀られた
ことで御室山と呼ばれた頃から発祥したと見ている。
周知の通り、物部氏宗家は神・仏論争でも、神道派ですから・・・。
②山梨岡神社の創建年は社伝では崇神天皇(※)御代、日光山高千穂の
峰(背後の御室山)に三柱の祭神を祀って近郷の鎮守とし、成務天皇(※)御代
に、郡境を定めるにあたり、山麓の梨の木を伐採して遷座、鎮座地を「甲斐峰
(かいがね)山梨岡」と名付けたと云う。ウイキペディア参照。
(※)崇神天皇はBC97年(崇神元年)~BC38年(崇神68年)で紀元前の天皇。
注)上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧参照。西暦年号は推定!
崇神天皇は紀元前であるが、四道将軍を派遣して支配地域を広げ、課税を
始めて国家体制を整えた天皇とされているので、御肇国天皇とも称されること
もあって創建を崇神天皇とし、摂社に祀る伝ヤマトタケル立寄り説と同じく、
奈良時代、朝廷が各国に国府を整備する時に、時代を遡って定めたのでは
ないかとも考えられる。
また(※)成務天皇は131年(成務元年)~190年(成務60年)であるが・・・、
「日本書紀」では国造や稲城の設置、国郡の境を定めたとされるので・・・
恐らく、奈良時代になって遡って創建年を記述されたものとすれば頷ける。
③従ってYS記では、奈良時代、春日居に国府が置かれた頃、山梨岡神社を
山麓に遷座し、境内に鎮目軍団を駐屯させ国府を警護していたと考えている。
但し、あくまで社伝は尊重しているし、それはそれ、これはこれ・・・、としたい!
大蔵経寺山と御室山南麓は古代甲斐国の歴史の始まり・・・!?
大蔵経寺山と御室山南麓は、古代甲斐国の歴史ロマンを辿る小路・・・!
山容から見て分かるように、笈型焼の形だけが目立つところが御室山!
御室山山頂には旧蹟物部宮とその上部大蔵経寺山中の彌勒平跡に旧蹟
伝行基開基の彌勒堂跡(大蔵経寺発祥の寺院跡)がある。
④第21代雄略天皇期は雄略元年(457年)~雄略23年(497年)・・・。
502年、中国梁の武帝は、雄略天皇に比定される倭王武(ワカタケル)を
征東将軍に進号しているとのこと。やはり雄略天皇説は説得力がありそう!
注)古代甲斐国においては、雄略天皇は若彦路竹居のワカタケル封地伝説
や金桜神社創建伝説などを鑑みると、やはり倭国東端の甲斐国を覇権統治
したのは雄略天皇であると考察できる。 古代甲斐国を拠点にして東征が進んだ!
※但し、物証主義学者の世界では、考古学的には、中道と銚子塚古墳等の発掘成果
により4世紀にはヤマト王権の支配下にあったのではないかと云う説もあるので留意。
「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマン」を辿って見ると・・・、
5世紀、雄略天皇の時、古代甲斐国の覇権統治(東征の防備)が始まって・・・、
現大蔵経寺山南麓に物部氏一族が館を構え、甲斐の中枢機能構想を画いた!
注)奈良時代、天平年間、朝廷に行基を迎え、仏教普及と戦略的配置の山岳寺院建立を進め、
天台・真言宗へと至った過程で僧侶も軍隊化している歴史を見ると・・・、戦略的配置に見える。
伝行基開基の彌勒堂と彌勒実相院~至靑獅子山松本寺、菩提山長谷寺と
里に創建した廃・鎮目寺の立地、山梨岡神~摂社吾妻屋宮は全て長期計画的
な国府開府を構想して配置されたのではなかったか・・・とロマンは膨らむ・・・!
今号ではブログ容量が充足されたので、シリーズ最終回で総括をしたい!YS記