新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲州・旧「松里」村を辿る⑤北西端の里「下柚木」を歩く!20-06

2020-06-01 | 山梨、里山の美しい四季!

旧「松里」村、北西端域「下柚木」は長閑な里山!

前号④で紹介した「藤木」の北、笛吹川左岸にあり、

東側に恵林寺山(扇山)が迫り、西は笛吹川を隔て、

室伏村、成沢村(何れも現山梨市牧丘町)がある。

は上柚木(現三富村)と一体で、恵林寺領検地日記

「柚之木」の名請人百姓名見える。

地名は「湯木」とも記されるところから、現在の窪の一部

から温泉が湧き出てその湯に因んで「湯乃木」と称した

という説と、主として食料を供給し、産地からはそれを

煮炊きする燃料(薪炭)として、すなわち湯之元をなす木

”湯の木”の地名になったという説もある。

明治の初め頃は、柚木村と称して、馬込、寺井、塩原、

相模、上平、窪と6からなっていた。

地域で得た燃料を恵林寺へ納めたことに由来すると

云われる。※塩山市誌より

※甲斐国志によると「慶長検地により上・下が分存して成立した」と云う

その「下柚木」には美しい里山の原風景があるが・・・、

殆ど、山麓の段々の果樹畑である!

その長閑な里山に、「恵林寺」の開山夢想国師が37歳

の時、禅修行をしたと云う龍山庵跡「現天龍山栖雲寺」

静か伝わる。今号は、・・・「下柚木」を訪ねて見る!


「上柚木」の中心に古刹「栖雲寺」と里山風景!※此の裏山に龍山庵跡が!?

臨済宗妙心寺派「天龍山栖雲寺」は、応長元年(1311)、夢想礎石が

37歳の時、この辺りに「龍山庵」を建て隠棲したと云う。

里人はその「龍山庵」を移して「天龍山栖雲寺」と改名し、夢想国師開山

と伝えられる古刹である。

正和2年(1313)、龍山庵を留守にして、浄居寺(現牧丘町)に仮住まい

しながら、どこか隠居に適したところはないかと思案が続いたと云われる。

筆者はその「龍山庵」の名は春屋妙葩の「夢想国師年譜」の原本で覚えた

が、「幽僻にして人煙を遠く隔たること30里」となっているので、この地から

に奥地の三富村から西沢渓谷の辺りまで入るため、場所は不詳(謎!)

されていることも周知している。

今は殆ど忘れられているが、古くから「天龍山栖雲寺」の歴代住職により

「裏山の岩場を禅修行の場として石碑を建てて伝えられているので記すが、

筆者も昔、夢想国師の足跡を辿っている時に訪ねてみたが、若い現住が、

昼寝の最中で、場所を伺ったが、簡単には分かりそうでないので諦めた。

今号では人様のブログ公開写真をお借りして、石碑は後述で紹介します。


赤いバラの花と緑の中に生える赤い屋根が「天龍山栖雲寺の本堂」!

赤い屋根の本堂の隣には庫裡(住職の住居)があるが、この古刹には、

鎌倉時代末期作と云う木造「御本尊阿弥陀如来と両脇侍(勢至、観音)」

が祀られ、甲州市指定文化財として指定されている。


天龍山栖雲禅寺」の石標(※本堂・庫裏へはここから入る)

この古刹の由来には、『栖雲寺は臨済宗妙心寺派、開山を夢想国師、

鎌倉時代末期における創建で670年(※2020年現在では709年)

歴史を有する古刹である。注)夢想国師「乾徳山恵林寺」開山は1330年。

応長元年春、夢想国師、四方偏参の途次当寺域内の「僧悟屋敷」という

ところに一草庵を結んで閑居しようとした。注)応長元年は1311年。

これが「龍山庵」で国師禅学修業の道場跡なり、後に里人この「龍山庵」

下柚木郷に移し、天龍山栖雲寺と改めたのが当山である』と記す。


夢窓疎石が応長元年37歳の時、「座禅修行」をしたと云う「龍山庵跡」と伝わる!

HP「龍山庵跡」(夢想国師ゆかりの地) 栖雲寺(せいうんじ)の裏側:

http://www.musokokushi.com/teienn-ryuuzannann.htmを参照:

※この方は筆者以上の勉強家でかつ熱心に研究され、2005年4月に

龍山庵跡を探して訪ねておられるので、上記写真だけを使用させて頂い

たものです。※YS記自習NOTEのため、恐縮ですが、ご容赦!

「龍山庵跡」の位置は今でも不詳・・・で、解明されていない謎の地である!

「松里のむかし話」によると・・・、

㉚龍山庵跡 塩山市(現甲州市)下柚木天龍山栖雲寺の後ろの山の中に、

夢窓疎石(後の国師)龍山庵跡と云い伝えられているところがある。

夢想国師の詠草に「甲州川浦と言う処に山こもりして、はなしける庵の庭雪、

むら消えて人の踏みたるに似たりける」をご覧じて・・・、

『我が庵をとうとしもなき春のきて 庭に跡ある雪のむら消』と詠んだ。

現在は栖雲寺住職宇田鴻基氏(前住?→歴代と記)が管理している。

夢想国師年譜(直弟子春屋妙葩著)には、「国師37才(1311)709年前)、

正和元年(1312)迄、龍山庵に隠棲した」と記されている。

この「龍山庵」のことを現地の人々は「僧悟屋敷」と普通呼んでいる。

※しかし、現住職には以前訊ねた時には、残念だが詳しく教えを乞えなかった!

筆者も数年前に春屋妙葩著の「夢想国師年譜」を読んだことがあるが、

文中に記す甲州川浦と言う処は、現下柚木より、更に一里二十町余り

の現川浦温泉川浦番所跡から、西沢渓谷辺りと言う人もあり。依然として

ここの場所が真の龍山庵か否かは不明だが、この石碑を建立した往時

住職は賢人であったと思う。現在、龍山庵跡を語る石碑は此処だけ!

他にはない。石碑の存在意義は大きいが、今は忘れられている・・・!?

「龍山庵跡」であったか否かは、現在でも謎になっている・・・が!?

注)筆者は、移住10周年、屡々、山梨の歴史の謎にぶつかるが、一つだけ

学んだことは、昔の優れた人には、必ずや謎があるが、いずれもそのことで、

かえって大人物と云えるだけのことはあるのは確かなようである。

それは恐らく後世にわたって、里人が尾びれをつけて伝承を膨らましたことが

要因であろうと理解しているが、それは現世でも同じであると承知をしている。

※YS記自習NOTE


今は「山梨県企業局柚ノ木発電所」が「柚木」の里の中心に目立つ!

この急勾配(落差)のある水路式(水圧鉄管)は、山梨県内では最大の

発電能力をもつと云われる。素人目に不思議なのは、山腹から水が永劫

に湧き出しているのか? 往時の関係者の方々の偉いところで、笛吹川

上流の天科発電所で使用した残留水や柚木取水、雷沢取水、滑沢取水

を加えて、広瀬発電所、天科発電所とともに、通常はピーク運転をして

いると広報されている。※発電所の標高は511m。

なるほど・・・、素人の筆者にも理解できそうです。


藤木調整池の沿岸の一番大きな建屋が発電所です。

注)左に見える建物が、「山梨県企業局柚木発電所」の管理事務所であり、

目の前の溜池は「藤木調整池」と称し、「柚木発電所の残留放流水は手前の

「藤木調整池」に放水され溜められて、その下の「藤木発電所」で活用されている。

注)ここでは、先に大正15年4月より発電している「藤木発電所」は省略するも、

この柚木発電所は昭和50年5月発電開始とか!しかも、当初は広域の灌漑用水

として考案されたものだそうで、昭和46年(1971)土地改良事業と電気事業実施

伴い古来より笛吹川沿岸に散在する既得権利用、21堰は一致協力して事態の

打開に努力せり。雨来本日まで8ケ年の長期にわたり関係機関と協議を行い・・・、

各種の水利協定及び確認書等の締結を実施し、永久不変のものとせり・・・・と。

昭和54年の笛吹川沿岸堰連合会建立の石碑に記されているが、これがなければ、

後世には正しく伝えられなかったであろうと、数十年もたつと現世の役に立つことも

あるのだとつくづく教えられる。

素人の筆者は、実は3度柚木へ伺ってようやく理解できるところまできたが、往時、

考案した人は、凄いことを考えたものだと感心するばかりである。

実際に現場を運用する方の苦労は聞かないことにしたらの話であるが・・・!

このような歴史の変遷があって、塩山藤木と塩山上柚木が入り組んでいるわけだ!?


往時は、北端の鎮守であった柚木の氏神「日吉山王神社」!


山梨県神社庁によると・・・、甲州市塩山下柚木1244にある旧村社。

祭神は大山昨命、大物主命。例祭日は4月12日、境内地は129坪、氏子73戸。

甲斐国志によると・・・、

創立年月は不詳であるが、甲斐国志に「上下(柚木)二村の産土神也、

黒印社領壱石七斗弐升、社地100坪、大野村神主兼帯」と記載がある。

甲斐国志には「日吉神社」(現日吉山王神社)として記載されている。


笛吹川の向こうに、長閑な「上柚木」の村が見える・・・!


移住10周年の新甲州人はこの辺りから「上柚木」であると考えていたので、

先号の「藤木」の項で紹介しそびれてしまった。今号であえて後追記したい。

以下は、前号「藤木」の項の「山の神」なので、追記をご容赦!


藤木の北西端境には、往古から、氏神「山神宮」があった!

松里昔話によると・・・「藤木石神地区」鳥居扁額の「山神宮」ではなく、親しみを

もって「山の神」と呼ばれているようだ。

江戸時代は御料林滑沢山の入相関係村住民の薪炭、落葉、下草等採集するため、

日々百人前後の人達が入山する時代なので、山の神様「山神宮」を共同で合祀。

創建年は不詳だが、数百年前と考えられる。

社殿は腐朽大破しているが、石の鳥居は高さ4m余りの堂々たるもので、境内に

は赤松が生い茂っていたと伝わる。

筆者は、現在の道路整備の際、現在地に縮小して再建されたものと推定している。

現在は写真の如く往古の鳥居を残し石祠が祀られるが、新しい道路際で気になる

「山の神」→山神宮であった。

往時は、秩父往還の脇道で大嶽山への参詣者も多く、広々した山神宮前の芝生は、

人々の往来の人々の憩いの場所として茶店などあり、大変賑やかなところであった。

・・・と記されている。