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安田義定ゆかりの牧ノ荘を辿る!⑦倉科(旧中牧)の「往観山無量院」も開基した!19-03

2019-03-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

平安末期~鎌倉時代初期、あの安田義定の全盛期、「牧ノ荘」の

小田野山山麓に「西御所」を構え、その要害小田野山城の守護寺

として東城戸(大手筋)に「妙高山普門寺」、西城戸(在華)に「旧蹟

西源寺」を開基していたが、さらに、倉科(旧中牧)の鬼門の方位に

「往観山無量院」(現無住)を開基していたことがわかった!

今号は、その「往観山無量院」を訪ねて見る!


現在の「往観山無量院」は無住だが、安田義定開基の歴史は秘かに眠る!

 


 「往観山無量院」・・・ 

※牧丘町誌(昭和55年版)を参照すると・・・、

宗旨:浄土宗 本尊:阿弥陀如来 『中牧郷の中尾にあり、小松長慶寺末』

『開基は安田遠江守義定、開山は見境良越和尚』と記される。

※「中牧村郷土史」の由緒を辿ると・・・、

『建久元年、当山開基小田野城主安田遠江守義定、霊夢により

仮堂を創立して、阿弥陀如来を安置し、「阿弥陀庵」と称す』

とあり・・・、どうやら安田義定開基と地元では伝わっていたらしい。

その記述をもとに検証して見たが、現在は無住の上、墓の兼帯をされている

と云う市川の万年松で有名な「竜泉寺」でも不詳になっていて、確証はない

が、ここは、中牧村郷土史や牧丘町誌を基調にして、YS記独自の戦略的配置

をマトリックス方式(下記PDF添付参照)で解析してみることにした。


甲斐国社記・寺記によると・・・、簡単に記され、

境内御除地:90坪 本堂:梁間6間半、奥行6間。表門1ケ所。

とあり、戦略的配置された七堂伽藍を構えた寺院ではなかった

ようだが、鬼門除けに創建されたのではないかと解析を続ける。


YS記の下段添付のマトリックス方式による位置解析では・・・、

安田義定は「牧ノ荘」の要害「小田野山城」を築城し、山麓「西御所」と呼ぶ

「館」を構えた。その「小田野山城」と「西御所」を守護する鬼門除けに

「往観山無量院」を建立していたと見ることができる。

位置的には、小原西の「安田館」における鬼門除けの下井尻「神龍山雲光寺」

ような位置にあたり、「小田野山城と西御所」から見て「無量院」は鬼門除け

あたる位置にあった。


この寺と敷地は、現在無住になって荒れているが、写真で見るように現代に

なって境内地を利用し、6間四方もあった本堂を解体し、広いグランドを有す

「幼稚園」を経営されたらしく、さぞかし子供たちが伸び伸びと遊べたことだろう!

今は写真のような状態になっていますが、やむを得ない事情があたのでしょう!?

そのグランドには、雑草が生えていたが、里人がゴルフの練習をしておられて、

憩いの場になっているようです。

伺うと、山梨市市川の万年松で見事な「龍泉寺」で兼帯(管理)されていて、

昔からの”墓”は守られているとのこと。有り難いことです。安心しました。


安田義定の時代は山岳信仰が盛んであった時代で、天台宗と真言宗が

主であったが、現山梨市小原西に「安田館」を構え、鬼門除けの下井尻に「神

龍山雲光寺」を開基、砂金採集を行ったと云う黒川鶏冠山後の黒川金山)の

山麓の基地「一ノ瀬高橋」あった「法光山高橋寺」更に「安田館」に近い

その先の「牧ノ荘内(現甲州市塩山藤木)」に遷して「高橋山多門院放光寺」

と改め、天台宗寺院として大規模な伽藍を建立し、安田一門の菩提寺とした。

後に真言宗七談林にも加えられ、真言宗の教えを広める根本道場になった。

・・・と云う由緒ある名刹です。※放光寺HPなどを参照。


ある程度、せめて自習NOTEで予習した後、山梨県内で最も安田義定の縁

が濃く残る「高橋山放光寺」の前住職清雲先生(「甲斐源氏安田義定」の著書

もある県内随一の歴史学者とも評されている方)を訪ねて、恐れ多くも安田義定

について教えを乞いたいと願っているところです。

その前に、このブログで予習項を発信させて頂いております。ご容赦下さい。

もし、記載事項について、ご意見やご教授頂けることがあれば、コメントを送信

頂ければ有り難く。YS記自習NOTEは一種の生涯学習にて、寛容にご理解下さい。


往時の天台、真言宗は、特に山岳信仰により山岳を駆け巡る修験僧が多く、山岳

駆け巡って、薬草や鉱石などの開拓が得手の僧も多く、そのため武闘力も鍛えた

ようで、寺院を構えると、特に修験者は、有事には防衛力になったと云われるほど

であった。

また、安田義定が「牧ノ荘」の要害小田野山城と西御所に備えた開基寺院は、各々が

真言寺院であったということから、「無量院」の草創期の「阿弥陀庵」とと呼んだ頃、

即ち安田義定が開基した頃は「真言寺院」であったろうと考察しています。

※本拠「安田館」は何故、小原西に構えたか?は、最終章辺りで検証してみる予定です。


「建久元年」創建は西暦1190年。源平合戦で平氏打倒の功労者となり、安田義定

とっては全盛期と云える時期と思われる。その頃、義定は何処の地に居たかは分から

ないが、着々と「牧ノ荘」の基盤強化を図っていたものと考察している。

また建久3年には、源氏の棟梁源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開いた

年となり、安田義定も鎌倉の頼朝館の隣に屋敷を構えて益々全盛になったと思われるが、

一方、源頼朝の天下取り(朝廷に対する源氏による武家政治主導体制の確立のため)

野望と権謀術数により、梶原景時らの側近を使った陰謀を仕掛けられて、無念にも、

建久5年8月19日、「牧ノ荘」の地が生害の地となったことは確かなようである。

※この安田義定の終焉には、解けていない謎があるらしいので、最終章あたりでは

少しづつでも証しを辿って見たい。


YS記:かつて「石和大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史

ロマンを辿る」で検証したことがある「仏教の教えによる鎮護国家

政策」仏教普及と寺院の建立は、飛鳥~奈良朝廷の国家戦略

として進められたことがあったことは周知の通りです。

特に聖武天皇の御代、あの行基上人を招聘して・・・、

仏教普及の策も併せて仏教寺院の戦略的配置と建立を推進した

ことが伺えるのである。 


古代甲斐国の場合は、春日居に「国府」を置き、その国府の

乾の方位に仏教普及の山岳寺院として松本山中(現大蔵経寺山)

養老6年伝行基開基の「松本寺」。養老6年「菩提山長谷寺」

を建立、特に修験僧の育成が行われている

また、東山の要衝に、柏尾山大善寺(養老2年)が建立され、

注)参考だが、恐らく平安時代になってからであろうが、菩提山と柏尾山

の檀徒が大きくなって、修験僧や檀徒がお互いに勢力争いをした伝説が

あり、それが現在も形は異なるが、菩提山長谷寺が御室山での「笈型焼き」

柏尾山大善寺の柏尾山「鳥居焼き」として今に伝わっている。

更に鬼門除けに「裂石山雲峰寺」(天平17年)が草創された。

これらの古刹寺院は、何れも現存する名刹だが、伝行基開基の

寺院は、僧行基が往時甲斐国を訪ねることが出来たか否かは

さておいて時代考証によると、行基上人の伝開基説は、何れ

も聖武天皇の仏教普及政策に基づいて、朝廷において行基大僧正

(後世は菩薩と呼ばれた)が仏像安置により、各要所に寺院建立を

推進した考察できるものである。 注)甲斐国にも行基伝説のある寺院が数カ所。


安田義定は仏教信仰に厚く、古刹には歴史ロマンが漂う!

安田義定が「牧ノ荘」における戦略的守護寺院配置の検証(PDF)一部抜粋

 


上図マトリックス解析図(PDF複写)は、読みにくいと思いますが・・・、

「無量院」の先を見ると、武田信玄の時代に有名になった「中牧城(城古寺城)」

も気になる。何故ならこの中牧城を最初に開いたのは安田義定だと唱える郷土史家も

おられたようだし、YS記として勝手自由に想像論を展開すると、当時、安田義定は、

武田信玄の時代のように、北条氏など具体的な敵軍を想定する必要性が見当たらない

が、盤石な領地基板作りに長けた安田義定は、鬼門除けに真言寺院を配置するだけ

ではなく、その先にあたる後の中牧城も要塞(砦)程度だと思うが、義定が配置して

いても、可笑しくないのではないかと考察できるのである。

単なる眠れる歴史ロマンであろうか・・・!?

もし、いち早く、安田義定がそれほどの盤石な要害や砦まで完成していたら、恐らく、

鎌倉勢も如何に大軍であっても、義定討伐は成功しなかったのではないかと思える。

証しこそないが・・・、義定が牧ノ荘で基盤強化を図ったものの中に、特に戦略的に

配置していた寺院等防衛体制や中牧砦等が完備できていたならば、そんなに簡単には

鎌倉勢に追い込まれることはなかったであろうと推察している。

考察すれば、安田義定は甲斐源氏の勇将として、これ程領地の基盤造りの跡が見える

ならば、恐らく、源平合戦に参画したことで、功績により遠江守の地位を得たことで、

肝心の甲斐国(地元)には、殆ど腰を据えたこともなく、体制が強固に出来ていたか

否かは疑われるようであるが。もしかしたら幾ら大軍でも鎌倉勢に追い込まれて自刃

することはなかったのではないかとも云える。いかんせん、鎌倉の長けた権謀術数と

大軍には力及ばなかったのは史実のようである。※余談だが・・・、

それは、源頼朝と安田義定の比較に於いて、安田義定は、財政基盤造りも万全で、

財力、軍事力もに長けていたが、朝廷との駆け引きでは、はるかに頼朝の権謀術数に

及ばなかったと思われる。あるいは義定没後であるが「七覚神」として牧丘で崇拝

されるように、地元民に崇敬されていて、むしろ天下欲がなく、武士道に長けた武将

ではなかったのかと云うことになる。

一方、武田信玄は、最期には天下を目指して上洛するも、途上で病に倒れたにも関わ

らず、現代までも大衆人気があるのは・・・と野次馬的解析をしてみると・・・、

YS記では、現段階では・・・、武田信玄は、甲斐守護として、常に甲斐国を地盤にした

英雄で、国内の防衛と繁栄を最優先し、さらには、常に領民安堵を旗印に信州など

領土拡大を図って、確かに、甲斐国民の誇りであったろう!?

一方、安田義定は同じ甲斐源氏でありながら、全盛期は源平合戦や鎌倉幕府開府で

殆ど甲斐国内には不在であったと思われるし、遠江国の守護遠江守でもあったために、

甲斐国の領地には戻る暇も時間もなかったであろうと推察できる。従って、甲斐国内

には信玄のような功績が残されておらず、あるのは山梨市(牧丘含む)の一部である

ことが、最も大きな差異であるのか?よく分からないが、どうやら違いが見えてくる。

YS記の見解では、甲斐の地元のためか、全国区のための功労か?・・・の違いかと!

特に、安田義定は「遠江守」を拝命され、現静岡県浜松以西の守護職であったため、

甲斐国守護ではなかったことが、武田信玄ほど甲斐民衆の人気が上がらないはずだと

も云える。

特に明治以降、財界では全国で活躍した山梨県人が多いのに、地元には何も恩恵がないと

云う県民像と同じような気がする。安田義定も誇りに思える甲斐(山梨)人ではないか!

皆さんはどちら・・・!?話題がそれるので、今回はこの辺で・・・。