東京下町・新小岩駅の不動産屋二代目のつぶやき

東京の下町・葛飾区新小岩で今年創業49年を迎えました不動産屋の二代目が気ままに書き綴った独り言ブログです。ブツブツ・・・

お手軽見学ツアー~両国編

2017年06月10日 10時02分01秒 | 街の話

休日に両国へ行った。新小岩駅からわずか5駅10分の距離である。

まずは駅と直結している昨年末にオープンした「-両国-江戸 NOREN」内に ある「両国観光案内所」で観光マップを確認。

「ぶらり両国・街歩きツアー」のパンフを参考にして、「元禄から明治の両国気を歩く~両国歴史コース」をひとりで歩き始める。ちなみにガイドツアーもある。

両国駅から数分、京葉道路に面したところに「芥川龍之介生育の地」がある。

日本を代表する文豪の芥川龍之介は、1892年3月1日に現在の中央区明石町で牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三、ふくの長男として誕生しました。生後7ヶ月の頃、現在の墨田区両国にある母の実家の芥川家に預けらました。

京葉道路を渡ると、彼の出身校である両国小学校(当時は江東尋常小学校)の北西角に龍之介の自署と小学校ということから児童文学の「杜子春」の一節が刻まれている文学碑があった。その文学碑のすぐ近くに300年以上前に赤穂浪士の討ち入りがあった「吉良邸跡」がある。

元禄赤穂事件として今でも広く知れ渡る討ち入りが行われた場所。当時の吉良家屋敷地の86分の1のミニチュアながら園内の「吉良首洗い井戸」が往時をしのばせます。

そのまま京葉道路を浅草橋方面に向かうと回向院(えこういん)がある。ちなみにここには実家の愛犬も眠っている。

回向院は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院で、この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。

境内には「力塚」がある。

日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。やがて天保四年(1833)より当院は春秋二回の興行の定場所となり、明治四十二年の旧両国国技館が完成するまでの七十六年間、「回向院相撲の時代」が続いたのです。力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と当院とのつながりを示す象徴になっています。

そしてさらに奥に進むと「鼠小僧次郎吉の墓」があり、その前にある削り専用の石「お前立ち」をガリガリと削ってみた。

時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。

 

最後はもちろん両国国技館でゴールを迎えた。

今回コースにあった「勝海舟生誕地」「旧両国広小路」等は時間の関係で省略したが、街角の至る所に様々な力士の像が立ち並び、それらを眺めているだけでも楽しい。こんな近くに色々な名所旧跡があることに感動しつつ、両国を後にした。

指折りあと2本

【総武線・新小岩駅 賃貸専門店】有限会社やな瀬不動産

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