学年だより「選択(5)」
「人には無限の可能性がある」という言葉がある。
その言葉は、極めて限定された局面において一定の真実を見いだすこともできるが、一般的には「ウソ」である。そんな、めったやたらに可能性があるわけがない。
仮にものすごい努力をしたからといって、誰もが羽生結弦選手になれるわけはないし、100mを9秒台で走れるようにはならない。ただ、何事もやってみなければわからないというのも本当だ。
高校でたまたま先輩に連れて行かれてやり始めた競技で、後にプロプレーヤーになる人もいる。
とことん好きで始めたことでも、まったく自分にあってないことに気付く場合もある。
人は可能性を信じてチャレンジできる生き物だが、特定の一つか、せいぜい二つ以外のことは、夢を諦めなければならない。
自分は何でもやれそうだと思っている人がいたなら、おそらくその人はこれまで何もやってこなかった人だろう。
諦めることは決して後ろ向きの行為ではなく、自分にあった別種の人生を見つけるために一歩前進する作業だ。
だとしたら、「夢を諦めること」は、人の成長の一つの形と言えるのではないだろうか。
~ この本の中で、「夢を諦めるのも才能だ」という言葉に出会った時、僕はそのことに気付きました。若い頃は、夢を諦めることイコール敗退だと思っていました。でも、「諦めよう」と思うところまで突き詰められるのは、敗退ではなく、前進だと信じたいのです。「自分はこの世界でやっていくような人間じゃない」と気付くまでやり切った人なら、次の場所でも必ず、夢を追えるはずですし、辞めていった仲間は実際にそうです。 (若林正恭「『芸人交換日記』解説」より) ~
日の当たる場所で、誰が見ても華やかな活躍をしている人だけが、成功者ではない。
夢と折り合いをつける経験で成長し、他人に優しい目を注ぐことができるようになれたなら、傲慢に夢を追い続けるだけの人よりも、むしろ人間としては上なのかも知れない。
~ たくさんの人間が同じスーツを着て、同じようなことを訊かれ、同じようなことを喋る。確かにそれは個々の意志のない大きな流れに見えるかもしれない。だけどそれは、「就職活動をする」という決断をした人たちひとりひとりの集まりなのだ。自分は、幼いころに描いていたような夢を叶えることはきっと難しい。だけど就職活動をして企業に入れれば、また違った形の「何者か」になれるのかもしれない。そんな小さな希望をもとに大きな決断を下したひとりひとりが、同じスーツを着て同じような面接に臨んでいるだけだ。
「就活をしない」と同じ重さの「就活をする」決断を想像できないのはなぜなのだろう。決して、個人として何者かになることを諦めたわけではない。スーツの中身までみんな同じなわけではないのだ。 (朝井リョウ『何者』新潮文庫) ~
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