うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

夜想う唄

2008年10月17日 | ことばを巡る色色
「風のガーデン」を見ている。
ずっとずっと昔に倉本聰氏のドラマが好きでたまらなかった頃があった。りんりんと、祭りが終わったとき、前略おふくろ様、幻の町、六羽のかもめ。向田氏も山田氏も早坂氏も面白かったけれど、ドラマならやはり倉本氏だ、という思いがあった。
そのさなか、倉本氏は富良野に行っちゃて、それから私は彼のドラマをほとんど見なくなった。たとえ、「北の国から」が名作中の名作だといわれたって、ね。どこか、裏切られた気がしたんだな。大自然の中に行っちゃって、若者集めて演劇塾なんかしちゃって、その中で作ったドラマなんて、見たかないやい、ってね。一人だけ街の日常から「降りちゃう」って人の大地礼賛なんて、冗談じゃないよ、てね。まるで、寅さん以外の山田洋次のえいがみたいにつまんない。
ドラマにもテレビにも、倦んでいる。どこもかしこも、「お笑い」頂戴ばかしで、きゃんきゃんと五月蝿く思う。だから最近は、ほとんどニュースかドキュメンタリーしか見ていない。それに講釈をつけるつもりはない。ただただ、つまらなく五月蝿いのだ。
いってしまった緒形氏を特に好きだったというわけでもないし、中井氏だって平原綾香嬢のジュピターだって、特別なお気に入りというわけじゃない。
でも、「風のガーデン」を見ている。
ドラマの中は「死」があふれている。一人一人の、一つ一つの死でドラマが満たされ尽くしている。ガーデンに咲き乱れるとりどりの花のように。
テレビの中の花を見ながら、こんなに花は一つ一つ美しかったのだと思った。なぜこんなにもこのドラマの中の花が美しいのか、一つも理由がわからない。ただただ美しい。
世の中から、色々なものが隠されてしまったのがこの時代だ。「防菌防カビ効果」なテレビ。悲しいこと厭なこと辛いことは、「オハナシ」として繰り広げられているだけで、ちょっとだけそんな気分を味わってみればいいでしょ、って感じで、ドラマはダラダラと痛くない嘘を流しているだけで。テレビの箱の中で防菌されるから、異国の悲惨もごはんを掻きこみながら見れてしまうのだ。悲しいふりをしたり悲しくないふりをしたいんでしょ、ってテレビを作る人も思っているのだろう。多分、政治をする人も、官庁の人も、ね。「たみ」は侮られているし、「たみ」もそれをどっか、らくちんだと思っているものね。
死で溢れた「風のガーデン」は、「死」が隠されていたことを思い出させてくれる。「死」が私のものでもあることをね。あなたのものでもあることをね。風に揺れる美しい花のように、その「死」に名がなくとも、切なく、悲しく、かわいらしく、代わりのないものであるということを、私も忘れていた。中井氏演ずる医師は都会に住み、「死」が数字で数えられ、値付けられる現場にいて、都会の死に晒されている。偉いぞ、倉本氏。褒めて差し上げよう。そうなんだ、私は倉本氏が富良野だけでなく都会をドラマに書くことを待っていたんだな。だって、だれでもが自給自足の生活ができるわけでなく、現代にあってはそれはある意味、特権的な贅沢な生き方だからだ。少なくとも私にとって、倉本氏の富良野行きはそう見えた。
本当に久しぶりに、ちゃんと作られたドラマを見た。脚本だけでなく、全てがきちんと作られたものを見ると、今までどれだけひどいものばかりを見せられてきたのかと思う。やればできるじゃん、テレビよ。 と思う。平原綾香嬢の「ノクターン」がとてもとてもよい。かなしくていたくてかわいらしいのだよね、そんざいするってことは。
侮り侮られ、隠し隠されは、もういらない。そんな風に作られたものは五月蝿いばかりで退屈でつまらないって、もう十分、わかったでしょ?
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