透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー



春を感じた日

2017-02-26 | A あれこれ

 オオイヌノフグリが咲き始めたわけでもなく、ウグイスの初鳴きを聞いたわけでもない。けれど、22日に春を感じた。

季節のうつろいは連続的で、今日から春!などというデジタルチックな線引きなんてできない。でも、春を初めて感じる日はある。空の色、雲の様子、山肌の色、稜線のかすみ、陽ざし・・・。微かな、幽かな自然の変化。

過去の記録を見ると春を感じた日はほぼ一致している。これは不思議。別に22日という日を記憶しているわけでもない。

動物行動学者・日高敏隆の『春の数えかた』によると生き物たちは皆それぞれの方法で三寒四温を積算し、季節を計っているという。

もしかしてヒトも? もしかして私も?


2006年/3月08日
2007年/2月22日
2010年/2月22日
2013年/2月23日
2015年/2月24日
2017年/2月22日

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泳ぎ去るフグのような雲

2017-02-25 | D 朝焼けの詩


撮影日時 170225 06:24AM


06:26AM

■ 冬至から2ヶ月。夜明けも朝焼けも早くなった。

リビングの窓から東の空を見ていると、雲の形がどんどん変わり、泳ぎ去る魚(フグかな)のようになった・・・。






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プロポーションを示す指標

2017-02-24 | A「火の見櫓っておもしろい」を本にしよう

プロポーションを示す指標

火の見櫓のプロポーションを定量的に示すいい指数がないものでしょうか。このことについて参考になるのが『五重塔はなぜ倒れないか』上田 篤 編/新潮選書に示されている三重塔や五重塔のプロポーションを捉える指数です。

この本はタイトルの通り、木塔が大きな地震に遭遇しても倒れない理由を建築構造の専門家はじめ建築の研究者が探るという興味深い内容ですが、塔のプロポーションを論じている章に「塔身幅に対する総高比」「軒長さの逓減率」「塔身幅の逓減率」「軒長さの逓減率」「軒の出の逓減率」などが紹介されています(ただし例えば軒長さの逓減率を最上重軒長さ/初重軒長さとして扱っています。これは初重軒長さに対する最上重軒長さの比とすべきでしょう)。


写真2-22 法隆寺五重塔

木塔の美しさはそのプロポーションにこそあるのですから、それを定量的に示す指数を求めるのは工学的な発想として当然のことでしょう。いくつか示された指数を参考に火の見櫓のプロポーションを捉えるのに有効な指数を挙げるとすれば「脚間寸法に対する総高比」と「脚間寸法に対する見張り台床面の柱間寸法の比」です。このことは2-23の火の見櫓に重ねた縦長の台形をイメージすると理解しやすいでしょう。脚間寸法は台形の下底の長さ、見張り台床面の柱間寸法は上底の長さに相当します。


写真2-23 安曇野市穂高有明の火の見櫓

手元にある火の見櫓の設計図では脚間(下底)寸法は12尺、見張り台床面の柱間(上底)寸法は3尺であり、ともにラウンドナンバーとなっていることから、火の見櫓を設計する際の基本的な寸法であると考えられます。左右対称の台形はこの2つの長さと高さを決めれば、形がひとつに決まることからも理解できます。

プロポーションの数値のグラフ化

縦軸を「脚間寸法に対する総高比」、横軸を「脚間寸法に対する見張り台床面の柱間寸法の比」とし、それぞれの火の見櫓のふたつの指数をプロットすると、例えば東北信の火の見櫓はスレンダーというような、プロポーションの地域的な傾向が読み取れるようなグラフになるかもしれません。 

 

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貴重な写真

2017-02-21 | B 火の見櫓っておもしろい 




■ 移動式クレーンなどまだ普及していなかった昭和2,30年代には火の見櫓をどのようにして建てていたのでしょうか。

機械はないが知恵がある

ある方から火の見櫓を建てている様子を写した貴重な写真をお借りしました。1955年(昭和30年)に撮影された数葉の写真には火の見櫓に掛けたワイヤをウインチを使って引き、横倒しの状態から起こしている様子や、梃子(てこ)を使って櫓の脚元を動かしている様子が写っています。

火の見櫓のことをまとめて本にしたいということお伝えし、写真の使用を許可していただきました。こうなると途中でやめるわけにはいきません。お借りした写真はネット上で転載されないように本にのみ掲載することにします(悪しからず)。


火の見櫓を引き起こすために建てる親柱や滑車の使い方、トラ(控え綱)の張り方などを理解した上で原稿にするつもりです。

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櫓の構成要素

2017-02-19 | A「火の見櫓っておもしろい」を本にしよう

櫓の構成要素

立体的な構造体としての櫓の構成要素、パーツも見どころです。櫓は柱材と柱材相互を水平につなぐ横架材、それから、柱材と横架材とで構成される各垂直構面に設置するブレースで構成されています。このブレースには櫓の変形を防ぐ機能があります。

写真で分かる通り、各垂直構面は4角形ですが、ブレースを入れることで3角形ができます。4角形は各辺の長さが決まっていても形が定まりませんが、3角形は各辺の長さが決まると形が一つに定まり、他の形には成り得ません。ですからブレースを入れて3角形で構成すると櫓の変形を防ぐことができるのです。木造住宅の軸組に設置する筋かいもこれと同じ理屈です。土台と梁、柱から成る4角形に筋かいを設置して3角形をつくり、軸組の変形を拘束しているのです。

火の見櫓の見た目の印象は横架材の割り付け方とブレースによって違います。このふたつの要素は櫓という構造を成立させる要素であるのと同時に櫓の意匠的要素、櫓がまとう衣装でもあるのです。このブレースに注目します。


写真2-15 安曇野市豊科細萱の火の見櫓


写真2-16 2-15の火の見櫓のブレース

ブレースの交叉部には鋼管の輪(リング)が使われることが多いのですが、これはリング式ターンバックル(以降、便宜的にリングと略記します)といいます。丸鋼のブレースの端部にネジがきってあり、リングの内側のナットでブレースの長さが調整できるようになっています。現場で火の見櫓を建てる時に生じる歪みを修正するためのものです。ただし、実際に建て方を見たことのある方からブレースの長さを調整するほど櫓が歪むことはなかったということも聞いています(*1)。

このリングは古い建築物にも使われていることがあります。


写真2-17 JR神田駅のプラットホームの小屋組の様子 

山形の構造フレームが変形するのを防ぐために丸鋼のテンションロッドを用いてリングで繋いでいます。リングには変形しないように肉厚で径の小さいものが使われています。


写真2-17 上田市下之郷の火の見櫓


写真2-18 2-17の火の見櫓のブレース

リングを使っていないブレースも見かけることがあります。2-17の火の見櫓の場合、櫓の上半分のブレースには平鋼と等辺山形鋼(アングル材)が使われ、リングがありません。下半分にだけリングがあります。櫓の上部は細身で、建てる時にもあまり歪まないという理由からでしょう。前述したように櫓はあまり歪まなかったようですが、修正を要するほど歪むとすれば構面が大きい下部ですから、合理的な方法です。

中には2-19のようなターンバックルとして機能しない、単なる飾りのリングが使われているブレースもあります。


写真2-19 塩尻市広丘の火の見櫓 リングの外側にブレースの丸鋼が溶接接合されています。これではブレースの長さを調整することはできません。


写真2-20 長野市内の火の見櫓


写真2-21 2-20の火の見櫓のブレース 平鋼と等辺山形鋼の組み合わせ

長野市内の国道18号沿いで見かけたこの火の見櫓にはリングが全くありません。2-15の火の見櫓とはかなり櫓の印象が違います。

立体構造としての櫓の主な見どころは、櫓のプロポーションとブレースです。

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カテゴリー

2017-02-19 | A あれこれ

■ ブログのカテゴリーを追加・変更して 本に関する記事を分けた。今までは建築と本を同じカテゴリーにしていた。

ブログを始めた頃は建築と本のことだけを書こうと思っていて、特にカテゴリーなど意識していなかった。それが次第に色んなことを書くようになって、カテゴリーを追加して対応していたけれど、依然として建築と本を同居させたままにしていた。記事が増えてくると、新たにカテゴリーを設定して記事を分ける作業は大変で、半ば諦めていたのだが、急に思い立って作業をした。

今まで分けなかった言い訳として、建築と本は共に文化的な営みの所産という点で共通しているし、建築と本の寿命の長短は国の文化度をはかる有効なものさし(私の持論)ということも共通しているから同じカテゴリーで構わない、と考えていた。しかし、それはあまりに苦しい言い訳。

記事の一覧を表示させ、本のことについて書いたことがわかる記事を新たなカテゴリー「本が好き」に移動したが、タイトルだけでは判断つかない記事も相当あり、結局すべての記事をメモを取りながら閲覧して移動作業をした。これで、「もやっと」が解消した。まだ「すっきり!」とまではいかないが・・・。


 

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2-3 全形

2017-02-18 | A「火の見櫓っておもしろい」を本にしよう

火の見櫓の姿・形

火の見櫓の遠景を観賞した後は火の見櫓に近づいて全形を観察します。観察のポイントは櫓のプロポーション。かなり細身、スレンダーな櫓もあれば、ずんぐりした櫓もあります。特に意識しなくてもまずこのことに気がつきます。


写真2-10 木曽町日義の火の見櫓 スリムな櫓


写真2-11 佐久市望月の火の見櫓 ふとっちょな櫓

次は少し注意して観察しないと気がつかないかもしれません。写真2-12と2-13の火の見櫓を比べて見てください。2-12の櫓は脚元に向かって直線的に太くなっています。2-10、2-11の火の見櫓も同様です。それに対して2-13はなめらかなカーブを描いて次第に太くなる、末広がりの櫓です。このことを意識して両者を比べると印象が違うことに気がつきます。なめらかなカーブを描く火の見櫓は優美です。後述しますが、美しい火の見櫓に欠かせない条件として、このカーブが挙げられます。ただしこれはあくまでも主観的な判断です。


写真2-12 青木村夫神の火の見櫓


写真2-13 山梨県北杜市小淵沢の火の見櫓





写真2-14 富士見町落合の火の見櫓

細身は細身でも脚元から櫓のてっぺんまでほとんど太さが変わらないものもあります。櫓の姿・形だけをとっても千差万別です。
 

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コンクリート柱の火の見櫓

2017-02-18 | B 火の見櫓っておもしろい 




765 岩手県遠野市遠野町の火の見櫓

 昨日(17日)はいつもの通り週末のサード・プレイスへ。そこで久しぶりにKさんと会った。仕事で遠野市に行ってきたという彼が火の見櫓の写真を撮ってきてくれた。

屋根と見張り台はごく一般的なタイプだが、なんと櫓がコンクリート製の柱3本で構成されている。これは珍しい。本当に火の見櫓は千差万別、いろんなものがある。

いつか東北火の見櫓めぐりをしたいものだ。




 

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2-2 周辺の環境

2017-02-16 | A「火の見櫓っておもしろい」を本にしよう

火の見櫓のある風景

凡庸な風景に火の見櫓が加わるとまとまりがあって美しく見えます。火の見櫓の存在が風景を秩序づけて、魅力的にしているのです。ヨーロッパの地方都市が美しいのは、もともと色や形に秩序のある低層建築群を教会の高い塔がまとめているから。塔状の建築物のあまりない日本の地方の集落において、火の見櫓は風景を秩序づける存在でもあるのです。また屋根が櫓の上端を引き締める火の見櫓は造形的に優れています。火の見櫓のある風景に魅せられるのにはこのような理由があるのです。


写真2-4 山梨県北杜市小淵沢町上笹尾 新宿に向かう特急あずさの車窓から望むランドマークとしての火の見櫓  


写真2-5 南佐久郡北相木村坂上 狭い生活道路の先にあるアイストップとしての火の見櫓



写真2-6 上田市手塚


写真2-7 山梨県北杜市高根村 富士と桜と火の見櫓

富士山は日本のシンボル 火の見櫓は集落のシンボル。日本に富士山が、桜が、そして火の見櫓があってよかったです。



写真2-8 福島県の大内宿*


写真2-9 松本市今井 朝焼けと火の見櫓

火の見櫓のある風景は季節や天候、時間帯によって変わります。その日その時だけの風景との出合いを楽しみたいものです。




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2-1 火の見櫓の見どころ

2017-02-15 | A「火の見櫓っておもしろい」を本にしよう

第2章 火の見櫓を観察してみよう

2-1 火の見櫓の見どころ

遠くのスカイツリーより近くの火の見櫓

凡そ世の中に存在するもの、それが自然のものであれ、人工のものであれ、人の趣味の対象になっていないものはありません。ありとあらゆるものに深く関心を寄せている人が必ずいるものです。ですから、火の見櫓好きがいても何ら不思議ではありません。たたしその数となると、マニアの代表的な存在の鉄道マニアと比べればおそらく数桁少ないでしょう。鉄道マニアが100万人くらいとすれば、火の見櫓好きは1万人? 5千人? もっと少ないかもしれません。


写真2-1 東京都武蔵野市の火の見櫓


写真2-2 東京都千代田区神田小川町 神田消防署駿河台出張所と火の見櫓(撮影2012年8月 共に現存しません)


写真2-3 神田消防署駿河台出張所の裏側と火の見櫓

火の見櫓の観察に意義があるとすれば

火の見櫓は次第に姿を消しつつあります。写真2-2の火の見櫓も神田消防署駿河台出張所とともに姿を消してしまいました。火の見櫓は絶滅危惧種です。遠くのスカイツリーより近くの火の見櫓、まずは地元のランドマークに注目したいものです。

それぞれの地方がその個性を保ち、地方であり続けるためには、まずはその歴史や文化を知ることにより、魅力を再発見することが必要です。火の見櫓に興味を抱き、観察することでもその端緒につくことができるのではないか、そう思います。

デザインの多様性

火の見櫓に求められる機能は地上から高いところに半鐘を吊り下げることができ、そこに人が登ることができること、そして半鐘を叩くことができることです。きわめて単純なこの機能を実現する方法はいくらでも見つかります。機能が複雑であれば、それを実現する方法・デザインは限定的でしょう。火の見櫓のデザインが多種多様である理由、それは機能がシンプルだからです。デザインがそれぞれ違っているから火の見櫓観察は楽しいのです。

ところで、画家は花の色や形に美を感じ、それを絵で表現します。植物学者は知的好奇心から例えば花の微細な構造や発色の仕組みを研究します。

また、例えば城好きな人にも縄張り(プランニング)、天守、石垣、堀など、好みの対象がいくつがあるように、どんなものでも興味に応じた多様な見かたができます。もちろん火の見櫓も例外ではありません。自分なりの着目点から観察して楽しめばよいのです。そのための参考に火の見櫓を観察する際の着目点をいくつか紹介します。
 

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チョコ

2017-02-14 | A あれこれ

  



 バレンタインデーにチョコをわざわざ送ってくれたのは大阪旅行に参加した女性ふたり。チョコレートにはポリフェノールが多量に含まれていて、血圧を下げる効果があるとテレビ番組で見た。このことをふたりとも知っていて、健康を気づかってくれたのかもしれない。ボケないで旅行の幹事をこれからも続けて、というメッセージなのかも。〇さん、Sさん ありがと。


 

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「天守再現!江戸城のすべて」

2017-02-13 | A 本が好き


『天守再現!江戸城のすべて』三浦正幸監修/宝島SUGOI文庫

■ 久しぶりに書店で本を探した。城の本をまとめたコーナーでこの本を手にした。帯に小さく**史上最大規模の江戸城、その内郭と外郭/安土城、名古屋城ほか名城紹介**とある。

パラパラとページをめくって驚いた。復元CGや写真、立面図、断面図等で江戸城はもちろん、広島城、豊臣大坂城、松江城、姫路城、彦根城、駿府城等が紹介されているが、それらの図が実に美しい!

別に城マニアでもないが、買い求めた。文庫本とはいえ、この充実ぶりで700円(税込み)は安い。

真っ先に紹介されているのは安土城天主(現在では「天守」が正式な学術用語、当初は天主と書かれたという注がついている)で、復元南立面図が載っている。本文を読まなくて、図を見て説明文を読むだけでも楽しい。

ずっと後の方には石垣の反りと勾配、石割りの手順や石の積み方も紹介されている。

今週はにわか城マニアになって、この本を見る、いや読む。


 


 

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1-4 火の見櫓の歴史

2017-02-12 | A「火の見櫓っておもしろい」を本にしよう

明暦の大火から始まった火の見櫓の歴史

1657年(明暦3年)の冬に発生した明暦の大火(この火災で江戸城も大半が焼失しました)による死者数は10万人に達したと言われています(「武江年表」107,046人―『江戸の災害史』倉地克直/中公新書 死者数は他説もあります)。江戸は百万都市と言われますが、当時の人口は78万人くらいだったということですから、実に8人に1人がこの火災で亡くなってしまったのです。江戸265年間で記録に残る火災は約770件で(前掲書に示された火災件数の概数)、その中でも被害が最も大きい火災でした。

定火消と町火消

火災が多発していた江戸では大名火消が6万石以下の大名家16家によって1643年(寛永20年)に組織化されていましたが、明暦の大火の翌年、1658年(万治元年)に幕府直轄の定火消が選抜された旗本4家で組織されます。

四谷御門内、市谷左内坂(写真1-20)、飯田町(飯田橋)、小川町の4箇所に火消役の屋敷が造られ、火災の発見と監視を目的に火の見櫓が建設されました。これが火の見櫓の始まりです。4箇所の火消屋敷が江戸城の北西部に偏って配置されているのは、北西からの季節風の激しい冬季に火災が多発していたからと言われています。江戸城へ延焼しないように、風上にあたる場所を選んだのです。


写真1-20 市谷左門坂にある定火消発祥の地を示す標柱

定火消の組織化から60年後の1718年(享保3年)に南町奉行大岡忠相(越前)により町火消設置令が出され、町人地に町火消(町人の組織)が組織されました
今日の官から民への移行と同様、次第に町火消が火消の中核を担うようになっていきました。

明暦の大火によって江戸幕府は今でいう都市防災の概念に目覚めたのでしょう。延焼を防ぐ広小路が計画され、火除け地(避難用の空地)が確保され出したのです。耐火性能のある蔵も普及していきます。

江戸時代の火の見櫓の仕様

火の見櫓は武家地用、町人地用と仕様が決められていていました。


写真1-21 大名火消の火の見櫓(東京都の消防博物館に展示されている火の見櫓の模型 写真1-21~23)

定火消の火の見櫓より低く、周囲は黒塗りです。特別の家柄を除き江戸城の方角を塞ぐことになっていました。上部には板木が吊るされていました。火の見櫓の設置を許されていたのは八万石以上の大名火消と20家の火消役で、大名でも、外様大名には許されなかったといいます(東京都の消防博物館の説明文を参考にしました。以下同じです)。


写真1-22 定火消の火の見櫓の内部構造模型

定火消屋敷の火の見櫓が最も格式が高く、高さは、およそ5丈(約15m)内外と定められていました。火の見櫓の構造は、外壁は押縁下見板張りで、上部は廻り四方が見渡せる構造になっていて、太鼓と半鐘が設置され、
常時ふたりの見張り番が詰めて、まちを監視していました。


写真1-23 町火消の火の見櫓


写真1-24 江戸深川資料館 再現された火の見櫓


写真1-25 江戸深川資料館に再現された火の見櫓の内部 見張り台まで登ってみたいという願いは叶いませんでした。

町方における火の見櫓は、享保年間(1716~36)に10町(町は距離の単位で1町は約109m)に1ヶ所づつ建てられたといわれています。4本柱を横架材で繋ぎ、筋かいを入れ、梯子を掛けてあります。方形(ほうぎょう)の屋根の下に見張り台がある形は今の火の見櫓に通じます。壁はやはり押縁下見板張りで黒渋塗りで仕上げてあります。外壁は下部まで張っていません。定火消しの火の見櫓と違うところです。高さはおよそ3丈(約9m)以下と、高さ制限の定めがありました。

町火消の火の見櫓で火災を発見しても定火消の太鼓が鳴らない限り、板木や半鐘を叩くことが許されていなかったそうです。これには驚きです。


写真1-26 町火消の枠火の見 消防博物館に展示されているジオラマの枠火の見。

火の見櫓のない町には自身番(自警団の屯所)の屋根に梯子を立てて半鐘を吊るしただけの簡易な枠火の見(火の見梯子)が設置されました。

その後の火の見櫓

1894年(明治27年)に消防組規則が公布され、公設の消防組が編成されました。江戸から明治に時代は変わっても火の見櫓は木造のままでした。明治の末頃からは鉄骨造の火の見櫓も建てられたようですが、大正から昭和初期はまだ大半は木造でした(写真1-27、28)。



写真1-27 東筑摩郡朝日村の火の見梯子 撮影大正14年 

梯子に登っている人の身長からこの火の見梯子がかなり高かったことが分かります。


写真1-28 恵那市明智町にある大正村の火の見梯子

  
写真1-29、30 大町市美麻の火の見櫓

ちなみに私を火の見櫓の世界に誘ってくれた大町市美麻の木造の火の見櫓は1926年(大正15年)4月に建設されたことが、櫓の柱脚を固定する台柱に刻まれた記録から分かります。


写真1-31* 江戸東京建物園 上野消防署(旧下谷消防署)の望楼上部 1925年(大正14年)

『考現学入門』今和次郎/ちくま文庫に大正末期から昭和初期の火の見櫓のスケッチが何点か載っています。それを見ると当時は木造の火の見梯子と鉄骨造の火の見櫓が混在していたことが分かります。ただし前述したように大半は木造でした。

1939年(昭和14年)に消防組は警防団に改組され、戦後まもなく、1947年(昭和22年)には消防団令により市町村に消防団の設置が義務付けられました。それに伴い、この年警防団は廃止されました。1948年(昭和23年)に消防組織法が公布され、消防団は地方公共団体に付属する消防機関として規定されました。

戦時中は金属回収令により、戦前に建てられた鉄骨造の火の見櫓の多くが解体され、供出されました。この時、半鐘だけは隠して供出しなかったということもあったそうです。集落の人たちにとって半鐘がいかに大切なものであったかを示すエピソードです。


写真1-32 火の見櫓に付けられた銘板に記された建設年

戦後、昭和30年代をピークに鉄骨製の火の見櫓が建設されました。今現在目にする火の見櫓の大半はこの頃建てられたものです。


 

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1-3 長野県は火の見櫓の数が多い?

2017-02-11 | A「火の見櫓っておもしろい」を本にしよう

長野県は火の見櫓の数が多いのでしょうか。

長野県の火の見櫓の数は2,300基くらいという推測値があります。ある方が2004、5年に調査をして1870基確認し、発見率を80パーセントとして算出したという数です。また、静岡県では2000年から数年かけて調査が行われていて1,016基確認されています(『火の見櫓 地域を見つめる安全遺産』火の見櫓からまちづくりを考える会編/鹿島出版会)。

長野県には静岡県の倍もの火の見櫓があることになります。このことだけをもって長野県には火の見櫓が多いとするのは早計というものでしょう。けれども私は長野県には火の見櫓が多いと推測しています(*1)。

このことを実証的に説明することは難しいので、まあ、眉唾な説ということで。

長野県は全国47都道府県の中で最も村の数(*2)が多く、35あります(2017年1月1日現在)。村が10以上あるのは長野県の他に北海道(15)、福島県(15)、奈良県(12)、沖縄県(19)だけです。全国でたった5道県しかないのです。村が多い各道県にはそれぞれ事情があるでしょうが、長野県の場合、山あり谷あり川ありという複雑な地形で、合併してひとつの町や市にはなりにくい面があるのではないか、と私は考えています。江戸時代にも長野県、もとい信濃国は多くの藩や天領に分かれていましたが、同じ理由によるのでしょう。


写真1-17 南佐久郡北相木村久保の火の見櫓

1-17の火の見櫓のある南佐久郡北相木村と南相木村は隣接していて、ともに群馬県と境を接しています。南北違いだけの村名に私は合併すればいいのに、と勝ってに思っていました。事実1565年に分立するまではひとつの村だったということです。

2016年に初めて両村を訪ねました。火の見櫓めぐりという趣味がなければその機会がなかったかもしれません。実際に行ってみると、両村を山並みが遮っていて、行き来するのに時間かかることが分かりました。なるほどこれでは合併するのは難しいだろうなと納得しました。私の仮説を裏付ける村です。

長野県に村が多い理由は他にもあるかもしれません。例えば、県民性。長野県人は議論好きで、それぞれ主義主張が強く、まとまりにくいという説があります。そして、有名な県歌「信濃の国」が辛うじて県民をつなぎとめているのだと。これでは市町村合併も進まないでしょう。それぞれの村が個性的なだけでなく豊かだから合併しないで自立できているのではないか、という説もありますが、この説にうなづくことはできません。

理由はともかく、長野県には村が多く、村を構成する集落もまた規模が小さくて数が多いのでしょう。火の見櫓は集落単位でつくられることが大半で、村と村を構成する集落が多い長野県には火の見櫓が多いのです。以上が私の眉唾な推論です。


写真1-18 東筑摩郡筑北村乱橋の火の見櫓

集落の数が多かろうと少なかろうと、山あり谷あり川もありの長野県、地形が複雑で沿岸部のような平坦な地域と比べて火の見櫓まで行くのに時間がかかるし、半鐘の音が遠くまで届きにくくて、見通しもききにくいところが多い。だから長野県には火の見櫓が多いのだ、という単純な理路で説明できることなのかもしれません。

*1 火の見櫓を地図上にプロットするサイト「塔マップ」を見た印象ではやはり長野県は火の見櫓の数が多く、数の少ない富山、石川、福井との差は歴然としています。


写真1-19 松本市中央 大型ショッピングセンター建設に伴い撤去された火の見櫓

*2 都市化された市より、町、町より昔の姿をより留めている村の方が火の見櫓が多いだろうという漠然とした推量により、村の数に注目しました。


 

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1-2 火の見櫓の立地条件

2017-02-11 | A「火の見櫓っておもしろい」を本にしよう

火災を早く伝える

火の見櫓の設置目的は火災の発生をできるだけ早く発見し、半鐘を叩いて知らせることです。このことから火の見櫓の立地条件として、次のことが挙げられます。
①火の見櫓から集落の全域を見渡すことができること 
②半鐘の音が集落の全域に伝わること
③火災の発生を知らせるために火の見櫓にできるだけ早く到達できること

それがいつ頃からか火災の発見という機能は次第になくなり、火災の発生や鎮火を伝えるという機能に限定されてきています。そのために①の条件より③、火災の発生を知らせるために火の見櫓にできるだけ早く到達できることが優先的な条件となりました。

このことを踏まえて実例を見てみます。


写真1-6 上高井郡高山村黒部の火の見櫓

高山村の主要道路沿いに立っています。このような立地であれば、火災の発生を知らせるとき、消防団員は駆けつけやすいです。櫓の中間、踊り場にも半鐘を吊り下げてあります。多少半鐘の音が遠くまで伝わりにくくなるかもしれませんが、できるだけ早く半鐘を叩くことを優先した結果でしょう。


写真1-7 塩尻市上西条の火の見櫓


写真1-8  安曇野市堀金の火の見櫓



写真1-9 松本市稲倉の火の見櫓


写真1-10 木曽郡木祖村小木曽の火の見櫓 

今までに観察した火の見櫓、約700基の立地条件を確認すると、約600基が道路沿いに立っています。道路に面する敷地に消防倉庫があり、その後方に立っているようなケースも加えると、この数は増えて9割を超えます。このことは火の見櫓に短時間で到達することができることという③の条件を優先していることを裏付けています。

一方、火の見櫓の立地条件として挙げた①の条件、見張り台から集落内を一望することができることについては1-9や1-10の火の見櫓のように高台に建てると有利です。

しかし火の見櫓に短時間で到達することができることという③の条件については、前記の通り交通の便の良いことろ、具体的には写真1-6や1-7、1-8の火の見櫓のように道路沿いが好ましく、高台はあまり好ましい立地とは言えません。このように①及び②の条件と③の条件とは相反することも少なくありません。


写真1-11 辰野町本町の火の見櫓 

①、②、③の条件を同時に満たすためには集落の中心的な位置で、幹線道路や主要な生活道路沿いに背の高い火の見櫓を建てればよいことになります(1-11)。しかし、集落の中心地に土地が確保できないとか、背の高い火の見櫓は建設費が嵩むなど、建設上の制約もあります。

そこで、例えば交通の便がよくて火の見櫓にできるだけ早く到達することができることという③の条件を優先せず、道路事情のあまり良くない小高い場所に背の低い火の見櫓を建てて建設費を抑えたり、①や②の条件を火の見櫓1基ではなくて、やはり背の低い火の見櫓を2基、3基と建てて満たすという方法が採られたりもしているようです。

また、建設地を確保するために、公民館などの集会施設の敷地の隅や寺社の境内などに建てられたりもしています(1-12、1-13)。道路沿いに立っていない火の見櫓のほとんどがこれに当て嵌まります。集会施設は住民が集まりやすいように集落の中心地に建てられることが多く、火の見櫓の立地条件と重なります。 


写真1-12 松本市梓川 南大妻集落センター・消防倉庫の敷地に立つ火の見櫓


写真1-13 上田市浦野 皇太神宮境内の火の見櫓


写真1-14 塩尻市洗馬上小曽部の火の見櫓

小曽部川が流れる谷間に点在する小曽部地区の集落には平面的な広がりがなく、川に沿った帯状の構造になっています。この火の見櫓(1-14)はそのような集落の中間点に立っています。

集落の地形的・地理的な条件はそれぞれ異なるので実際の立地状況は様々です。個々の火の見櫓が立っている土地の起伏や主要道路の状況、集落内の住宅の配置状況など、集落の構造を観察して制約条件をどのように解決しているか、どう折り合いをつけているかを読み解くこともしなくてなりません。

消火の応援を求める 

火の見櫓のもう一つの機能に隣の集落に応援を求める、ということがあります。そのためにあるのが集落と集落の中間にある伝達用の火の見櫓です。


写真1-15 松本市入山辺駒越の火の見梯子

待避所があるような谷間の狭い道を進んでようやくこの場所に着きました。ここは集落と集落の中間で周りには何もありません。火災が発生したことを隣の集落に伝え、応援を求めるときにここの半鐘を叩くのです。離れた隣の集落でこの半鐘の音が聞こえるのかどうか気になりますが、騒音が無く、静かなこの地域なら聞こえるのでしょう。昔は野良仕事をする人も少なくなかったですから。


写真1-16 東筑摩郡筑北村坂井の火の見櫓

断定はできませんが、この火の見櫓(1-16)も集落間の中継用だと思います。

このように1-14の火の見櫓は集落内の中間点に、1-15、1-16の火の見櫓は集落と集落の中間点に立っていて、前記の②、③の条件から、共にうなずくことができる立地です。


 

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