透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

C9「狐花火 羽州ぼろ鳶組⑦」

2023-01-31 | A 読書日記


 「狐花火 羽州ぼろ鳶組⑦」今村翔吾(祥伝社文庫2018年)を読み始めた。C9、図書カードで購入した本はこれまで拙ブログに載せた9冊。図書カードは大変うれしいプレゼントだった。

「狐花火」のカバー裏面の紹介文から引く。**天才花火師と謳われるも、愛娘を花火の事故で喪い、妻も世を儚み命を絶つ――。明和の大火の下手人秀助は、事故の原因たる怠惰な火消に復讐を誓い、江戸を焼いた。(中略)江戸の火消が再び結集し、猛り狂う炎に挑む。**

**火付けの下手人は元駿河台定火消を狙っている。一方の番付け狩りは、番付に載っている者を無差別に狙っているのではないか。(後略)**157頁
**両国橋の東詰にある回向院は、大相撲の興行場所だった。**172頁 
両国橋は明暦の大火(1657年)の数年後に架けられた。火災の際の避難経路の確保という意図で。回向院には今年お参りしたいと思う。
**場所は小川町定火消屋敷。江戸は北から南に風が吹くことが多く、この場所は実戦を想定した訓練に向いているからだった。**185頁

定火消の屋敷の所在地を調べたので、このような記述が出てくるこのシリーズを読むことがますます楽しくなってきた。 もちろんストーリーの展開もおもしろい。




国土地理院の地図上に江戸時代に設置されていた火消屋敷の所在地をプロットした。⑧は小川町ではなく、小石川伝通院前を示している。
前稿にのせた「江戸の主要防火政策に関する研究 ―享保から慶応までの防火環境とその変遷について―」に示されている図、その他の資料を参考に作成した。所在地は概ね〇内に入ると思われる。しかし正確にプロットできていなくて〇外の可能性もあることを付記する。江戸の地図情報を現代の地図情報に正確に置き換えることは難しい。


 


C8「夢胡蝶 羽州ぼろ鳶組⑥」定火消の推移(訂正、追記)

2023-01-30 | A 火の見櫓っておもしろい


『お夢胡蝶 羽州ぼろ鳶組⑥』今村翔吾(祥伝社文庫2022年第7刷)

■ 直木賞作家・今村翔吾さんの時代小説。火消が主人公のシリーズもので既に10巻を超えている。第1巻「火喰鳥」から第6巻「夢胡蝶」まで読んできた。

「夢胡蝶」の舞台は吉原。吉原で頻発する不審火。妓楼が焼けて臨時営業をする間は幕府への納税が免除される。このことが裏で関係しているのだが、ミステリー仕立てだから、このことについては登場人物の中に老中・田沼意次や一橋家の徳川治済(はるさだ)がいるとだけ記しておく。

吉原の妓楼「醒ヶ井」が焼ける。2階にいた花魁・花菊を羽州ぼろ鳶組の纏番の彦弥が火中から助け出す。花菊と彦弥のふたりがその後どうなるのか・・・。続く不審火、火付けの真犯人は誰か・・・。

「羽州ぼろ鳶組」は江戸の火消が主人公なだけに、江戸の防火システムについても書かれている。火消という組織もいくつかあるが、この本に出てくる火消を挙げると、武家火消、定火消、町火消、八丁火消、所々火消、方角火消、店火消、吉原火消。で、羽州ぼろ鳶組はこの中の方角火消。今回はこの小説のことはこのくらいで切り上げて、定火消について書きたい。

*****

定火消は明暦の大火(1657年)の翌年に江戸幕府によって組織された。そして火の見櫓は定火消の拠点として整備された火消屋敷に建設されたのが始まり。だから定火消についても無関心ではいられない。当初、定火消は4か所に整備され、その後増設される。15か所くらいになった後、数が減り10か所に落ち着く。10か所のまま幕末まで推移したのかどうか・・・。このようなことついて前から知りたいと思っていた。

ちなみに「夢胡蝶」には**府下には小川町、八重洲河岸、駿河台、麹町御門外、市谷左内坂、御茶ノ水、赤坂御門外、飯田町の八か所の定火消が存在する。**(107,8頁)という記述がある。麹町御門外と半蔵御門外は同じ場所と判断できると思う。




初めの4か所とはどこだったのか。前々から調べていたが、どうも一説に定まらない。市谷(左内坂)が挙げられている資料もあるし、そうでない資料もある。JR市ヶ谷駅の近くには上のような標柱が立っている。ウキペディアでは定火消の最初の4か所に市谷(左内坂)は挙げられていない。

定火消について、設置場所と設置数の推移を知りたくてあれこれ調べた。と言ってもネットで調べただけだが。それで下のような論文が見つかった。


江戸の三つの防火施策である火除地の設営、消防組織の整備、防火のための建築規制について、享保期(1716~1735)以降の推移をまとめた研究論文。特徴的なのは享保期及びそれ以降の地図を作成して(*1)文書史料から得られた情報を地図上に記していること。研究目的である防火施策の経年推移がビジュアルに示されていて、大変分かりやすい。地図上に示せない情報は表に分かりやすくまとめられている。余談だが(司馬遼太郎ではないが)研究成果は、やはり分かりやすく示すということが基本かつ重要だと思う。

定火消の推移が表にまとめられ、屋敷の場所が地図にプロットされている。前述の通り、明暦の大火(1657年)の翌年の万治元年に火消屋敷が初めて設置されたが、所在地は飯田町、麹町、御茶水、伝通院前(表記は図11による)となっている。

表9には享保10年(1726年)に伝通院前から小川町に移転したことも示されている。移転・・・、そうか移転が行われていたのか。どの時点の所在地を記すかで違ってくるわけだ。資料の所在地相違の理由のひとつが移転にあることが分かった。 地名の変化についても他の資料から分かった。

長年続いた定火消所在地10か所について、この論文や他の資料により次のようにまとめた。(享保10年(1725年)~安政元年(1854年)*1)

 1 飯田町
 2 八代洲河岸(後年八重洲河岸となる)
 3 麹町半蔵御門外
 4 赤坂溜池(溜池之上)
 5 赤坂御門外
 6 四谷御門内
 7 市谷左内坂(市谷御門外とする資料もあるが同じ場所だと思われる)
 8 小川町(享保10年(1725年)に小石川伝通院前から移転した)
 9 御茶之水(御茶ノ水、御茶水と表記した資料もある)
  10    駿河台

*1 安政2年(1855年)に小川町、赤坂溜池が廃止された。
  
太字は明暦の大火(1657年)の翌年に初めて設置された4か所の火消屋敷、朱色は慶応2年(1866年)に残った4か所の火消屋敷
1~3は内濠沿いに、4~10は外濠沿いに位置している。
火消屋敷は2,4,5を除き江戸城から見て西から北に位置している。

火災発生件数の多い冬季の季節風の風向き(北西~北)を考慮したということは以前調べて承知していて、拙著『あ、火の見櫓!』に**定火消の組織化に伴い、まず御茶ノ水、小石川伝通院前(*1)、麴町半蔵門外、飯田町、以上の武家地4ヶ所に火消し役の屋敷が建設され(中略)、火の見櫓が建てられました。これが火の見櫓の始まりです。(29頁)と書き、続けて**火消屋敷は江戸城の北西部に偏って配置されていますが、これは北西からの季節風の激しい冬季に火災が多発していたからだと言われています。**(29頁)と書いた。今回調べたことと相違していない。

小石川伝通院前には注釈*1をつけて**市谷左内坂とする資料もあります。火消し屋敷は数年の間に10ヶ所を超えるまでになっており、建設年と建設地が必ずしも明確でなく、最初の4ヶ所には複数の説があるようです。**と書いた。

論文は慶応2年(1866年)の火消屋敷4か所の立地についても論述が及び、2八重洲河岸を除き、標高が高く、江戸城や武家地を望遠できる場所と指摘している。地形を利用した「高さかせぎ」。

2八重洲河岸は標高が低いが江戸末期まで廃止されなかった。3麹町は江戸城の西、9,10は北。2は南という方位が考慮されたのかもしれない。

論文は実に分かりやすくまとめられている。すばらしい。

私の趣味としての火の見櫓調べはこの辺りで線引き。


*1 地図を作成し、とあっさり書いたが、複数(5種類)の古地図を比較検討して地図を作成するだけでも大変な作業だったと思う。


今年(2023年)に実行したいこと(火の見櫓関係)
①両国回向院をお参りしたい。この寺院は明暦の大火(1657年)で亡くなった多数の人たちを供養するために、同年建立された。
②消防博物館(正式には東京消防庁消防防災資料センター)にまた行きたい。特に江戸時代の展示をじっくり観たい。


大名火消の出動の様子を示す模型 消防博物館にて 2012.07.15

『羽州ぼろ鳶組』を読んでこのような展示物にも興味がわいてきた。


* 本稿についてある方からコメントしていたきました。コメント冒頭に**公開不要でお願いします。**と記されていたので非公開とさせていただきます。
「論文」は研究成果の報告文書、「論文の梗概」は論文の概要を示す文書と理解しています。どちらも研究目的から研究成果までの一連の流れを文書にまとめるという形式は変わらないでしょう。
本稿で紹介した資料を研究の梗概としましたが、資料の右上に地域安全学会論文集と記載されていること(梗概集という記載ではない)、梗概はもっとボリュームが少ないことが一般的であると思われること、更にコメントのご指摘を踏まえ、本稿中の梗概を削除、訂正しました。
梗概と記載したことで、ご迷惑をおかけしたかもしれません。お詫びします。コメントしていただいた方には、ここでお礼を申し上げます。


 


C5「平安人の心で「源氏物語」を読む」を読み終えた(追記)

2023-01-27 | G 源氏物語

 毎年この時期に最低気温が氷点下10℃を下回ることはある。歳を取って寒さが身に応えるようになった。寒い日は巣ごもりが一番、巣ごもりには読書が一番。ということで『平安人の心で「源氏物語」を読む』山本淳子(朝日選書2021年第8刷)C5 と『羽州ぼろ鳶組⑥夢胡蝶』今村翔吾(祥伝社文庫2022年第7刷)C8  を読んだ。


■ 『平安人の心で「源氏物語」を読む』(*1)は読み終えるのにだいぶ日数がかかった。他の本を読みながら読んだので。

長い帖を前後2回に分け、源氏物語全54帖を計60回で解説している。さらに番外編が5編。帯に**平安ウワサ社会を知れば、物語の面白さ、奥深さが見えてくる**とある。「平安ウワサ社会」はこの本をアピールするためのコピーで、くだけた表現。平安貴族の日常、恋愛模様、文化的営み、貴族社会の諸事情等を知れば、といったところだろうか。平安人はこのような背景を同時代的知識として持っている。だから宮廷の女君たちは「リアルな物語」に熱中したのだ。

各帖のあらすじの後に3頁を割いて書かれた解説文を読んで、そういう背景があるのか、この和歌を踏まえて詠んでいるのか、など なるほど!なるほど! 毎度同じ喩えで芸がないが、星座の知識がないと、満天の星を見てもただ星がランダムに散らばっているようにしか見えないが、星座に関する知識があると全く違う星空に見える。知識の有無で見え方が違うということは全てのことに当てはまる、もちろん「源氏物語」にも。この本は『源氏物語』を読む前に読みたかったなぁ。

あとがきに次のような件がある。**自身の論を直接に打ち出したテーマもある。実在のきさき・中宮定子と『源氏物語』「桐壺」巻のヒロイン・桐壺更衣の関係についてがそれである。(後略)**293頁 

このことについて、この本最後の「番外編 深く味はふ『源氏物語』」の五「中宮定子をヒロインモデルにした意味」で山本さんは次のように書いている。**(前略)『源氏物語』にとって定子は「桐壺更衣のモデル」と言って終わるような表層的な存在ではない。私は、定子こそが『源氏物語』の原点であり、主題であったと考えている。定子の悲劇的な人生が時代に突きつけた問いを正面から受け止め、虚構世界の中で、全編をもって答えようとした。それが『源氏物語』だと考えるのだ。**268頁 

源氏物語の研究者は少なくないだろうが、上掲したことが平安文学研究者としての山本さんが唱える学説なのだろう。この件に山本さんの矜持を感じた。 


※ 藤原定子は一条天皇(980~1011年)の皇后。この本では「一 平安人の心で「桐壺」巻を読む」に**『枕草子』の作者・清少納言が仕えた、明るく知的な中宮である。**6頁 と紹介されている。続けて**だが、その家は没落していた。そこに入内してきたのが、時の最高権力者・藤原道長の娘で、やがて紫式部が仕えることになる彰子である。**と説明されている。

追記 2023.01.27
*1 ある方に書名間違いを指摘していただいた。ありがとうございました。訂正前は文中で『平安人の心で読む「源氏物語」を読む』としていた。時々このようなミスをする。「源氏物語」の登場人物のひとり、鬚黒を黒髭としていた。ひげでも生えている顔の部位によって髭 くちひげ,鬚 あごひげ,髯 ほおひげ と使い分ける。過去の記事を訂正した。思い込み、入力ミス 等々、原因はどうであれ、はやり注意力不足。

無知、無力をさらけ出す覚悟がないとブログは書けない・・・。


 


C7「司馬遼太郎の時代」

2023-01-25 | A 読書日記

 **歴史を川の流れに喩えるならば、司馬遼太郎は上空から俯瞰的に源流から河口まで、川の全景を捉えようとした作家だった。それに対して藤沢周平は川岸に立って、流れのディテールを捉えようとした。両作家はよくこのように対比的に捉えられる。

司馬遼太郎は歴史の流れをザックリと捉えてみせたし、川岸に立った藤沢周平は人々の日々の暮らしを捉えて作品にした。司馬遼太郎に「武士の一分」は書けなかったし、藤沢周平には「坂の上の雲」は書けなかった。** 

「司馬遼太郎」の過去ログ検索で、2009年10月18日に書いた上掲の記事がみつかった。ふたりの作家に対する一般的な評価を私なりに文章にしただけだ。源流から河口というのは言い過ぎ、流れの一部を取り出してと変えた方が良さそうだ。

私が司馬遼太郎を読み始めるきっかけになった作品は『梟の城』(新潮文庫1999年83刷)。直木賞を受賞したこの作品を初めて読んで、おもしろいと思った。その後、司馬遼太郎の作品を何作か読んだが、熱心なファンというわけではなかった。

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『司馬遼太郎の時代 歴史と大衆教養主義』福間良明(中公新書2022年)C7を読み終えた。

上に書いたように私は司馬遼太郎の熱心なファンではないが、司馬遼太郎ついて書かれたこの本が書評(2023.01.14付 信濃毎日新聞)に取り上げられていたのを機に読んだ。

この本で著者の福間さんは何を論じているのか。答えは「はじめに」に簡潔に書かれている。**(前略)こうした必ずしも「一流」ではない教育経験や職業経験は、司馬の歴史叙述にどう投影されたのか、その後、司馬が国民作家として「一流」視されるようになるなか、それらはどのように受け止められたのか、あるいは受け止められなかったのか。**(はじめにⅴ頁)

論考で、司馬遼太郎の作品が受け止められたということだけでなく、受け止められなかったということも取り上げているところがフェアな立場を示している。

各章、何を論ずるかということがはっきりしている、ということは既に書いた。で、章題を示す。

序章 国民作家と傍流の昭和史
第1章 傍系の学歴と戦争体験 ― 昭和戦前・戦中期
第2章 新聞記者から歴史作家へ ― 戦後復興期
第3章 歴史ブームと大衆教養主義 ― 高度成長期とその後
第4章 争点化する「司馬史観」 ― 「戦後五〇年」以降
終章 司馬遼太郎の時代 ― 中年教養文化と「昭和」

この本も、そうなのか、知らなかった、というような記述のところに付箋を付けながら読んだ。以下に付箋か所からピックアップして載せる。

**「明るい明治は、フィルム写真でいうところのポジではなく、あくまで「暗い昭和」というポジを写し出すためのネガだった。**130頁
**司馬は戦国期や近代最初期の「明るさ」にこれほどの膨大な分量を割くことで、憎悪した「昭和の暗さ」を描き出そうとしたのである。**131頁
以上第2章
**司馬の歴史小説は、戦国や明治の「明るさ」を通して、昭和の組織病理やエリート主義を問いただすものだったが、これらを読み取るむきは少なかった。**第3章198頁

福間さんが繰り返し指摘しているこのような司馬さんの意図を読み取ることは私にはできなかった。

歴史探偵・半藤一利さんは司馬さんの俯瞰的なアプローチでは昭和は書けないと指摘していたが(『清張さんと司馬さん』NHKテキスト2001年)、福間さんは司馬さんが直接昭和を書かなかった理由を「好意的」に理解して次のように書いている。
**司馬が、戦国や幕末・維新という遠い時代を選び、そこから昭和を照らし返そうとしたのも、時間的な近さゆえの「なま乾き」を回避しようとしたためであったのだろう。**第2章133,4頁

**一九六〇年代に多く書かれた司馬の主要作品は、高度成長下の企業社会に親和的だった。だが、司馬作品がビジネスマン層を中心に多くの読者を持続的に獲得するようになったのは、通勤時の読書に便利な文庫化が進んだ「昭和五〇年代」以降のことだった。**第3章174頁

**(前略)司馬は余談交じりの歴史小説を執筆することで、「小説」でも「史伝」でもない、両者の中間領域を選び取った。それは、文学の「一流」「正統」から距離を取り、あえて「傍系」を選択しようとする姿勢のあらわれであった。**202頁
このような作品は支持もされ、批判も受ける。
**「私は、司馬という作家から小説の提供を欲するもので、歴史に関する講釈を聞きたいわけではない」**207頁 これは評論家・渡辺京二さんの評。さらに厳しく評している箇所があるが、省略する。
**「司馬さんほど、歴史に投じつつある人間の翳を見事に描く人は少ない。司馬さんの筆は変革期に生きた人物と人生に密着するのではなく、たえずこれを鳥瞰してその虚と実に迫る」**203頁 古代史家・上田正昭さんの評。
以上第4章

随分引用して、記事が長くなってしまった。反省。

司馬さんの作品は時代に恵まれた、時代の流れが司馬さんの作品に同調した、と括っておく。もし再読するなら、やはり司馬史観を論ずる時、取り上げられることが多い『坂の上の雲』だろう。福間さんのように**昭和陸軍に対する司馬の怨念を裏側から照らし出す作品**と読み取れるかどうか・・・。


 


寒波襲来

2023-01-25 | D キミの名は?


雪降りしきる中、柿を啄ばむヒヨドリ 2023.01.24

 10年に一度の寒波襲来。昨日(24日)、鄙里は午前中から氷点下。予報通り午後から雪が降り出した。外を見ると隣家の柿の木にヒヨドリが何羽も飛来していて、柿の実を啄ばんでいた。彼らにはこれが日常。こちらは暖房の効いた部屋で好きな本を読む。彼我のこの違い・・・。


 


「清張さんと司馬さん」

2023-01-24 | A 読書日記

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 新書は中公。中公新書は総じて内容が濃い。図書カードで買い求めた7冊目の本(C7)は中公新書の『司馬遼太郎の時代 歴史と大衆教養主義』福間良明(2022年)。

『司馬遼太郎の時代』

1月14日付 信濃毎日新聞の書評面でこの本が**「一流」格上げまでの過程描く**という見出しで紹介されていた。赤上裕幸さん(防衛大学准教授)の書評は**「教養」の現在地を確かめるためにも必読の一冊である。**と結ばれている。この書評を読んで、買い求めた次第。

『司馬遼太郎の時代 歴史と大衆教養主義』で福間さんは多くの文献を参照しながら、司馬作品について、それから作品を受け入れた時代・社会について、実証的に論じている。各章で論ずるテーマが明確に決められていて、読みやすい論文のようだ。

参照文献がその都度文末に示され、その中に半藤一利さんの『清張さんと司馬さん』があった(写真下)。主要参考文献が巻末に掲載されているが、細かな活字で2段組でリストアップされた文献は8ページにも及ぶ。



『清張さんと司馬さん』

『司馬遼太郎の時代 歴史と大衆教養主義』については稿を改めることとし、以下半藤一利さんの『清張さんと司馬さん』について書く。上掲本巻末の文献リストには『清張さんと司馬さん』文春文庫、二〇〇五年となっているが、手元にあるのは下の写真の通り、NHKの「人間講座」という番組のテキスト。2001年の10月から11月にかけて9回放送された。放送時間が午後11時からと遅かったが、毎回見ていた。このテキストをベースにして文庫化されたものと思われる。


『清張さんと司馬さん』(NHK番組のテキスト)を昨晩(23日)読み直した。半藤さんは雑誌の編集者としてた松本清張と司馬遼太郎と長く接してきた方。。半藤さんは様々なエピソードを交えながら、数多くの作品を生み出した人気作家二人の人となりや作品について語っている。

松本清張にも司馬遼太郎にも歴史小説が何作もあるが、半藤さんはふたりの作品の違いについて次のように書いている。

**司馬さんの小説は、ということは歴史の見方ということになりますが、司馬さんの言葉を借りれば、歴史を上から俯瞰するように捉える。つまり、歴史を大づかみにして読者に示しながら、登場人物の活躍を描くことで、歴史のうねりを手に取るようにわからせる。この俯瞰的な見方が、司馬さんが歴史を語るときも、文明批評をするときにも、見事に適用されている。(中略)
しかし、清張さんは違った。清張さんは地べたを這うんです。草の根を分けるんです。大づかみではなく、ごちゃごちゃと微細に分け入るんです。読者が理解しようがしまいが、一切お構いなしのところがある。(後略)**(テキスト108頁)

鳥の目と虫の目、一般的によく言われていることではあるが、半藤さんは、ふたりの作家の歴史の捉え方の特徴を分かりやすく説いている。松本清張は帝銀事件や下山事件、松川事件など昭和時代のこの国の闇に入り込んで、『日本の黒い霧』は『昭和史発掘』などの大作を世に出した。対して司馬遼太郎は昭和をあまり書かなかった。

昨晩このテキストを再読していて次の件には驚いた。**結局、前回にふれましたように、清張さんのように、地べたを這うようにして血を流しながら、膨大な資料の山に分け入るほかはないんですね。昭和史は高みから俯瞰して明らかになるような部分はごくごく少ないような気がしてならないのです。**(テキスト119頁)半藤さんはこのように、松本清張の手法でないと昭和史は書けないと指摘している。

半藤さんは松本清張の取材旅行には同行したことがあるが、司馬遼太郎に同行したことはなかったという。テキストを読んで分かるのは、半藤さんと二人の作家との距離感。清張さんと司馬さん、ふたりの作家の呼び方にもそれは表れている。昭和史の半藤さんだから・・・。そして、テキストは松本清張が色紙によく書いたことばで結ばれている。**わが道は行方も知れず霧の中**


 


C6「寒い国のラーゲリで父は死んだ」

2023-01-22 | A 読書日記


 ノンフィクション作家・辺見じゅんさんの『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(文春文庫)を読んで感銘を受けた。第二次世界大戦敗戦、シベリヤ抑留。極寒、飢餓、重労働・・・。過酷な状況下、希望を捨てることなく必ず生きて帰還するのだと仲間を励まし続け、自らも家族と再会することを願い続けていた山本幡男さん。だが、仲間たちの精神的支柱であった山本さんは病魔に襲われる。死亡・・・。

山本さんの遺書を携えて帰還することは不可能。そこで仲間たちは遺書を一字一句正確に暗記、帰還後に家族の元に届けた。遺書を受け取った家族の中には長男の顕一さんもいた。
*****

山本幡男さんの長男・山本顕一さんが父親のこと、母親のこと、弟のこと、それから恩師のことなどについて綴った『寒い国のラーゲリで父は死んだ 父、山本幡男の遺した言葉を抱きしめて』(バジリコ2022年)を読んだ(C6)。この本には父親との関係や家族のことが赤裸々に綴られている。

**しかし、父はシベリアで病死した。そして私たちに対する立派な遺書が届けられた。さすがに私も父のことを立派な人だと思うようになった。しかし、それはあくまでも頭の上だけでの理解であり、積年の父に対する感情的なしこりは、その後もずっと胸の底にわだかまったままであった。**(48頁)

**四十三歳の私の胸の奥深く長年巣くっていた、幼年時のトラウマに起因するドロドロした恨みの気持ちを嘘のようにきれいさっぱりと洗い流してくれたのであった。
それ以来私は、父のことを素直に何のわだかまりもなく、心から尊敬できるようになったのである。**(142頁)

引用文だけではどういうことなのか分からないと思うが、この本は父親理解、父親寛容について書かれていると評してもよいだろう。


昨年末(12月28日)に放送された「徹子の部屋」でゲストのタモリさんは「来年はどんな年になるでしょう」と黒柳さんに問われ、「新しい戦前になるんじゃないですかね」と答えた。偶々番組を見て、このコメントを聞いて、新しい戦前か・・・、確かにそうだな、と思った。

このように認識される現状下、今回取り上げた2冊の本の一読をお薦めしたい。


 


塩尻の貫通やぐら

2023-01-22 | A 火の見櫓っておもしろい


(再)塩尻市大門 4柱44型トラス脚(貫通やぐら)2023.01.21

 この火の見櫓を見るのは3回目。初めて見たのは2011年6月だった。火の見櫓巡りを始めて1年、この頃はただ写真を撮るだけで満足していて、じっくり観察することはなかった。だから脚元の屋根を貫通していることに気がつかなかった。2回目は2014年1月、さすがにこの時は貫通やぐらであることに気がついて記事にしている(過去ログ)。その頃はまだ、火の見櫓の形状分類を意識的はしていなかったので、記事にも記載がない。昨日(21日)、一通り観察して写真を撮った。特に新たに気がついたことはなかった・・・。



上下2枚に撮り分けた写真を上手く繋げることができた。 

櫓のフォルムが美しい。屋根下はサイレンに占められている。避雷針にスピーカーを設置してあるが、補強したのかどうか、よく観れば分かったかもしれない。これは次回の宿題。半鐘は踊り場。詰所の2階から登るように階段を設置してある。


脚が片流れの屋根を貫通している。トラスを脚の下端まで伸ばしてないのは残念。


 


緑色の半鐘

2023-01-21 | A 火の見櫓っておもしろい

520
(再)茅野市本町西 3柱梯子 2023.01.18

 18日の火の見櫓めぐりの最後、13基目はこれ。岡谷だけのつもりで家を出て、つい茅野まで足を延ばしてしまった。午後3時過ぎ、帰る途中でコンビニコーヒーしようと立ち寄ったところ、道路の反対側にこの火の見櫓(分類上は3柱梯子)が立っていることに気がついた。既に見ているこの火の見、緑色の半鐘が印象的だ。なんだか色が褪せたような気がして、家に帰ってから以前撮った写真と比べてみた。

  
左 撮影日:2010.07.24                              右 撮影日:2023.01.18 

確かに右の半鐘の色が褪せているように見える。


18日の火の見櫓めぐりの記録終了


茅野市玉川の火の見梯子 ○

2023-01-21 | A 火の見櫓っておもしろい


1437 茅野市玉川 火の見梯子 2023.01.18



 どこからどう見ても火の見梯子。諏訪地域には火の見櫓の数が多く、その内訳として火の見梯子の数が多いという印象。火の見柱や火の見梯子は背が低く、遠くからは見えないことが多いので、じっくり地域内を見て廻らないと見落としがちだ。

後から設置したであろう街灯がこの火の見梯子の姿を特徴づけている。印象に残る姿だ。大型の火の見櫓だけではカバーしきれないエリアを補うような役目を担っているのだろう、と推測する。諏訪地域の火の見櫓を地図上にプロットして、集落の分布状況や道路の状況、地形などとの関係を調べれば確認できるように思う。「ずく」を出していつかやってみたい。いつかっていつ? あまりやる気がない時にこういう書き方をする。





茅野市玉川の火の見櫓 ○

2023-01-21 | A 火の見櫓っておもしろい


1436 茅野市玉川 4柱4〇型トラス脚 2023.01.18
冠雪した八ヶ岳をバックに凛とした姿の火の見櫓が映える。

 既に見ているのではないかと思い、データを検索したが見つからなかったので通し番号を振った。今までにダブルカウントしているものも少しあるかもしれないが、既に1,400基を超える火の見櫓を見たことになる。

2010年の5月に火の見櫓めぐりを始めてまもなく13年が経つ。平均すると年100基もの火の見櫓を見てきたわけだ。だが、数よりも火の見櫓の何を見てきたのかが、意味を持つと思う。そして、これから火の見櫓の何を見ていくのか、何を読み解くのか自分に問わなければならない。これはなかなか難しい課題だ。まあ、こんなことは頭の隅っこに置いて、楽しく、楽しく。


なだらかな坂を登った先で振り返ればこんな感じ。


なかなか美しいフォルムだ。このくらいのプロポーションが好ましい。屋根と見張り台の離れと大きさのバランスもベスト。


屋根の外側に持ち出した腕木に取り付けられた2連の笠付き照明器具が好い。


精度良くきっちりつくられていることがこの写真でも分かる。実に好ましい。




正しいトラス。






茅野市玉川の火の見櫓(再)

2023-01-20 | A 火の見櫓っておもしろい


(再 過去ログ )茅野市玉川神之原 4柱44型トラス脚 2023.01.18

 八ヶ岳の裾野に広がる茅野市郊外の集落群には火の見櫓が何基も立っている。地形的になだらかな斜面であることや、背の高いものが多いことなどから、遠くからでもよく見える。車で移動していても同時に2基、3基と前方視界に入ってくる。この火の見櫓も遠くから見えていた。既に見ている火の見櫓だと気がついたが、また見ることにした。


4隅を面取りした見張り台に直線部材の方杖を当てている。見張り台直下に櫓の1面だけに張り出したバルコニーのような作業台、カンガルーポケットを設置している。ここで消火ホースを干す作業をするようになっている。


存在感のある蕨手が4隅についている。下り棟の下地材(平鋼が多いと思う)をそのまま伸ばして蕨手にしているものも見かけるが、これは別部材。


外付け梯子から踊り場に入り込むための開口。手すりのデザインを見張り台に合わせることが多いと思うが、これは違う。


トラス脚 消防信号板の上に寄付者の名前を記した3枚のプレートが設置されている。プレートに昭和37年3月竣工とある。今年還暦の火の見櫓。現在立っている火の見櫓の多くが昭和30年代に建設された。


 


茅野市宮川の火の見櫓 ○

2023-01-20 | A 火の見櫓っておもしろい


1435 岡谷市宮川 4柱44型トラス脚 2023.01.18


 狭い道路沿いに立つ火の見櫓。柱4本で屋根と見張り台の平面が4角形、このタイプが南信地域では最も多く、全体の7割近くを占める。櫓のプロポーションはこのくらいがベストだと思う。屋根や見張り台とのバランスも良い。






脚部がこの写真ではフェンスに隠されているが、見えている部分の様子からトラス脚だと分かる。南信地域はトラス脚が最も多く、全体の5割を占める。次いで交叉ブレースが3割。この二つの形で8割。