透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

木曽町の新しい役場庁舎 見学記

2021-02-28 | A あれこれ

 木曽郡木曽町の新しい役場庁舎本体が完成して見学会(27、28日)が開催されることを知り、昨日(27日)出かけて見学した。見学会は町民向けとのことだったが受付の担当者に了解していただいた。手渡されたリーフレットには地元の木と技でつくる「木の國木曽」とある。このコピーは新庁舎のコンセプト(計画理念)を的確に表現している。

2017年に実施された公募型プロポーザルで千田建築設計の提案に決定した。私は公開で行われたプレゼンテーションを聴いていたこともあり、このプロジェクトに関心を寄せていた。2018年から2019年にかけて基本設計・実施設計が行われ、2019年9月から工事が進められていた。



なだらかな切妻大屋根に4つの越屋根を載せた外観は地味で、造形上の創意・工夫は特に見られない。もっとも、設計者の独りよがりな奇を衒ったデザインなどこの地には歓迎されないだろうが。大屋根に直行させて載せた越屋根の棟は水平ではなく、勾配を付けているが、私は設計上の意図を読み取れない。確かプロポーザルの時は越屋根はHPシェルの面だったように思う。

ちなみに屋根の鈍い赤色はかつて木曽谷の民家の屋根の大半に使われていて、なぜ木曽の屋根は赤いのかという記事が地元紙に掲載されたことがあった(*1)。


     

この庁舎の建築的な特徴は木曽街道の町屋に見られる出梁造り(だしばりづくり)と呼ばれる架構を構造に採用していること。

2本の柱に両端持出しの梁を架け(写真参照)、梁の上の小屋束で母屋を受けるという架構を庁舎の短辺方向(梁間方向)に4フレーム並べて(写真)ユニットを構成し、長辺方向(桁行方向)にいくつも並べるというシステムによって、この庁舎の構造を成立させている。

このユニットを外部につくっているのは(写真①②)、設計者としては当然の演出。この架構システムを見出したとき、設計者は「いける」と思ったかもしれない。地元の材料を使い地元の伝統的な構法を地元の技術でつくるという提案はよく分かる。

次は内部の様子。



細長い敷地形状から、庁舎が細長くなることは必然。この庁舎の長さは108.650メートル(*2)。「中山道のこみち」と名付けられたこの通りの両側にすべての必要諸室を配した単純明快な平面計画。木曽街道の宿場を建築的なレベルで再構成している。奈良井宿の写真と比べるとこのことが分かる。木曽町にふさわしい空間構成・空間デザインだと思う。実に上手い。設計者は敢えて一番端にメインの出入口を計画したのだろう(長辺のほぼ中間にサブの出入口が計画されている 写真)。


この写真は長辺方向の中間にある出入口を撮ったものだから仕方がないが、右側の真壁に構造フレームが表れている。この壁面も撮っておくべきだった・・・。


:出梁を示す  左:奈良井宿 


フレーム①と②の間に計画された事務室  

③④間に計画された事務室 屋外に露出させたフレームと同様のフレームが分かる。



フレームユニットの間隔が広いところもあるが、その両フレーム間に架けられた梁のサイズ(梁成)がそれ程大きくないのはなぜだろう。梁の曲げ応力は柱部分で最も大きくなり、そこを添え梁で補強している?? の写真はこの様に読み解けばよいのだろうか・・・。


カウンター側に書庫が並べられている。来庁者の視線をカットして職員のパソコン画面を見られることがないように、という配慮だろう(写真)。カウンターは会計を除き全て椅子対応のローカウンター、プライバシーに配慮した仕切りも設置されている(写真)。これが役場庁舎の基本(*3)

庁舎の内装は使う材料を限定し、落ち着いた雰囲気を創出している。窓の障子は庁舎の事務室に使われることはあまり無いと思われるが、和の雰囲気を高めている。




大会議室(議場)のような大きな空間は出梁造りの構造フレームでは対応できなかったようで梁にはテンション材に丸鋼を用いたハイブリッドなトラスを用いている。従来の役場庁舎の議場を見慣れている者からすると、随分簡素な設えだが、これで議場として支障なし、ということなのだろう。いや、むしろこのくらいの設えが会議室としても使われるこれからの議場には相応しいだろう。

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越屋根部分の様子 それ程大きな開口ではないが高窓から入る自然光はやはり好ましい。

「木曽町はなかなか良い庁舎を造ったなあ」との感想を抱いた。

役場新庁舎の開庁は4月の予定。開庁後にまた様子を見に行きたい。


*1 トタン(亜鉛メッキ鋼板)屋根に塗る錆止め塗料は以前は赤色が一番安価、というのが理由だったと思う。過去ログ
*2 リーフレットの施設概要による。
*3 数年前にできた某庁舎はハイカウンター、仕切り無しという設え。


塩尻市宗賀日出塩の火の見櫓

2021-02-28 | A 火の見櫓っておもしろい


(再 454)塩尻市宗賀日出塩 3脚66型 撮影日2021.02.27

 JR中央西線の日出塩駅前に立っている火の見櫓。2013年12月以来、約7年ぶりの再訪。櫓の末広がりの整ったフォルムが美しい。2013年に観察した時は梯子の段数と梯子桟のピッチで見張り台の高さを約10メートルと見たか、今回は描けてある消火ホースから、やはり約10メートルと見た。

ちょっと残念なのは屋根。見張り台との大きさに比して少し小さいことと、勾配がなだらか過ぎること。

なだらか過ぎるということは②の写真で分かるが、柱の上端と屋根との取り合いがよく分からない。③の写真だと逆に屋根の立体形状はよく分からないが、柱と屋根との取り合いは分かる。やはり、「何を撮るのか」カメラを向ける時ちゃんと抑えておくべきだ。このことはもう何回も書いたが、どうもこのことが現地ではなかなか実践できない。

見張り台に設置してある箱は何だろう・・・。

火の見櫓の後方に防災行政無線柱が立っていてスピーカーを取り付けてあるし、火の見櫓にもスピーカーが取り付けてある。両者どのように使い分けているのだろう。




 


木曽町日義の火の見櫓

2021-02-28 | A 火の見櫓っておもしろい


(再)木曽郡木曽町日義(旧日義村) 3無66型 撮影日2021.02.27

 この道路は旧中山道ですぐ近くがその中間地点。この道路に並行して通る国道19号からもこの火の見櫓が見える。近くに道の駅「日義木曽駒高原」がある。

一見して細身と分かる火の見櫓だ。この火の見櫓を初めて観察したのは2012年11月のことだった。当時はまだ火の見櫓のタイプの表記もしていなかった。3無66型となるが、3無とは櫓が3角形(三角形というように漢数字表記が一般的だと思うが、このブログでは算用数字を使っている)で脚が無いタイプであることを示している。しばらく前からこのように表記している。



櫓を脚元から屋根のところまで直線的に逓減させていて、上端では半鐘が辛うじて納まるような細さ。半鐘を強くたたけば柱に当たりそう。6角錘の屋根のてっぺんの避雷針がやけに長い。見張り台の床はすのこ状にしておらず、鋼板張りにしてある。



櫓が細いため、中に梯子が納まらないためだろうか、外付けしている。この梯子を昇り降りするのは怖いと思う。櫓内の梯子の昇り降りでも怖いことを経験上知っている。



脚元の様子。前述したようにこれは脚が無いタイプ。脚があればこの火の見櫓は美形なのに・・・。


 


時間の蓄積

2021-02-27 | A 読書日記

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 『箱男』(新潮文庫)を読み終えて、『壁』(新潮文庫)を自室の書棚から取り出した。これも安部公房の作品で1975年に読んでいる。その後この作品を読んだという記憶も記録もないから、45年ぶりに再び読む、ということになる。

用紙の周囲が変色している。このような状態の文庫本を手にするときの気持ちは・・・、温泉宿でちょうど好い湯加減の湯ぶねに身を沈め、「あ~」(*1)と思わず発してしまうような気持ちとでも喩えたらよいだろうか。

このように変色した用紙の細かな活字を読むときのこのような心地よさは、電子本では味わうことができない。本好きはやはり紙の本が好きなのだと思う。


*1 「う~」と「あ~」の中間くらいで濁点付きのような声、かな。


「箱男」再読

2021-02-26 | A 読書日記

 朝カフェ読書で安部公房の『箱男』(新潮文庫1998年31刷)を読み終えた。この前衛的な小説については2009年にこのブログに次のように書いている。

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**『砂の女』は要するに人間が存在することとはどういうことなのか、という問いかけだったように思う。最後のページに「不在者仁木順平を失踪者とする」という家庭裁判所の審判書が載っているのが印象的だった。

『箱男』のテーマもこれとそう違いはないのではないか、と思う。箱をかぶることで自己を消し去るという、実験的行為。他者との違いは何に因るのか・・・。他者と入れ替わるということは可能なのか。自己の存在を規定(アイデンティファイ)するものは何か・・・。

表向きはエロティックな小説ではあるが、読者に問うているテーマは難しい・・・。**(過去ログ



以前は上掲したように書いているが、今回は何だか、単なる覗き趣味のおっさんの物語じゃないか、などという感想を持ってしまった。いや、そんなはずはない・・・。やはり僕の脳ミソはかなり劣化している。


 


松本駅お城口のキャノピー

2021-02-23 | B 繰り返しの美学



 松本駅のお城口(東口)のキャノピーに注目。4本のステー(つっかい棒)にワイヤーを張った梁が8本等間隔に並ぶ、繰り返しの美学。上の写真だとすっきりしているが、近くで見ると



こんな様子。下から2番目のステーの通りだけ下端をワイヤーで繋ぎ、両端には斜材を入れている。ガラスをこの構造フレームに直接載せることはできなかったんだろうなぁ。これ以上のスッキリは、無理か・・・。


 


バイオイメージング技術

2021-02-23 | D 新聞を読んで

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 「進歩するバイオイメージング技術」「光る生体細胞 詳細に観察」「蛍光・発光・透明化 人の病理診断に応用も」2月22日付信濃毎日新聞の7面(科学面)にこのような複数の見出しの記事が大きく紙面を割いて掲載されていた。

バイオイメージングというのは、記事の説明によると生体内の細胞や組織の活動を画像で捉えて解析することだという。このような技術の中でも狙った細胞を光らせて可視化する光イメージングという手法の進歩が著しく、更にその細胞周辺の組織を透明化する技術も開発されているそうだ。

記事には全身を透明化したマウスのガンだけピンク色に可視化した写真が載っているが、なるほど、癌の大きな病巣と転移したガンだけピンク色になっているので分かりやすい。「そうか、こんな技術が開発されているのか・・・」

記事の最後には**マウスの脳を対象に約1億個の細胞の一つ一つをカタログのように整理・解析する「全細胞解析」に成功している。**とある。

前稿で書いたように「『2001年宇宙の旅』講義」で著者の巽 孝之氏は映画の後半のボーマン船長の視覚体験について**モノリスという名のもうひとつのコンピュータ・マトリックスがボーマンという人間を素材にその生体情報をカットアップ/リミックス/サンプリングしているシーンにほかならないことが了解されよう。**(63頁)と書いている。

このようなことが実際に実現しつつあるということなのだろう。

更にここで思い出すのはスタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』というSF小説。惑星ソラリスを覆う海は「知的生命体」。この海には人の脳の思考活動や記憶を読み解く能力があり、その記憶のコピーをその人の前に出現させてしまう! 小説では主人公の既に亡くなっている恋人(のコピー)を出現させる。

「脳内情報を読み解き、そのコピーをつくってしまうなどということがSFの世界のことでなく、現実のことになる日がやってくるのかもしれないなぁ・・・」新聞記事を読んで、ふとこんなことを考えた。 過去にはこんな記事も(過去ログ)。


 


「『2001年宇宙の旅』講義」再読

2021-02-21 | A 読書日記

    

 アーサー・C・クラークのSF小説『2001年宇宙の旅』はスタンリー・キューブリックによって映画化された。SF映画は好きだが、とりわけ「宇宙もの」が好きでレンタルDVDでよく観る。だが、この映画を超える作品にはまだ出会っていない。SF映画の、いや洋画のベスト1だ。ちなみに邦画では松本清張原作の『砂の器』。

『2001年宇宙の旅』に出てくるモノリスや後半に描かれているボーマン船長の視覚体験については様々な解釈が与えられている。モノリスは人類の進化に関わる造物主(神)の存在を暗示するものだと僕は思っている。また、ボーマン船長が見たのは(同時に僕たちも見ているわけだが、)宇宙の空間旅行ではなく(と敢えて書く)、時間旅行の映像表現だと解釈している。遙か彼方の未来からまだ生命が誕生していない宇宙、というか地球への旅行。現在から未来、未来からいつの間にか過去へつながる時間旅行、そして生命誕生から猿人への進化・・・、そう生命の輪廻。

「『2001年宇宙の旅』講義」巽 孝之(平凡社新書2001年発行!)をまた読み始めた。

この本で著者の巽氏はモノリスについて次のように書いている。**人類は、じつは神ならぬ地球外知性体によってもたらされた石板(モノリス)状の教育装置の力で、四〇〇万年前(小説版では三〇〇万年前)に猿人だった時代より密かに誘導されてきた。**(14頁)

また、後半ボーマン船長の視覚体験については**これまで映画版『2001年』後半の万華鏡的シークエンス(*1)が、じつはよくいわれるような麻薬幻想でもなければ超絶体験でもなく、たんにモノリスという名のもうひとつのコンピュータ・マトリックスがボーマンという人間を素材にその生体情報をカットアップ/リミックス/サンプリングしているシーンにほかならないことが了解されよう。**(63頁)と書いている。

*1 引用者である僕の注:ソリッドで金属的なシーンは、超未来へと進む視覚的表現として、その後に出てくるシーンは非常に有機的で柔らかく、生命誕生前の水中のようなイメージとして僕は観る。

この本を読み終えたらクラークの原作を読もう。映画も観よう。


昨年の5月に文庫本の大半を処分した。僕が残したSF作品はこれだけ。アーサー・C・クラークの作品では『2001年宇宙の旅』1冊のみ。






繰り返しの美学

2021-02-21 | B 繰り返しの美学

 建築の構成要素そのもののデザインには特にこれといった特徴が無くても、それを直線的に、そして等間隔にいくつも配置すると、「あ、美しいな」とか、「整っていて気持ちがいいな」とか、そういった感情を抱く。このような経験は私だけの個人的なものではないだろう・・・。シンプルなルールによって、ものが秩序づけられた状態・様子を脳が歓迎しているのだ。建築構成要素を直線状に等間隔に並べるとそこに秩序が生まれ、それを美しいと感じる。このことを「繰り返しの美学」と称して時々ブログに取り上げてきた。

このように書いて国宝の旧開智学校の屋根棟を載せたのが2019年の6月のことだったから、1年半以上間が空いたことになる。



久しぶりに取り上げる繰り返しの美学は長野県生坂村の道の駅「いくさかの郷」のトイレ棟。トイレ棟の全形が分かる写真を撮るべきだったと反省。床面の誘導ブロックの状況からトイレの入口前の通路の様子であること、入口が3か所あることが分かる。

トイレ棟の屋根は切妻形状で通路まで伸ばしている。今回は通路部分の構造フレームに注目する。

木造の場合、伝統的な構法では柱、軒桁、梁の納め方に
京呂組と折置組というふたつの方法がある。在来工法(構法)は柱の上に桁を通し、桁に梁を掛けるのが一般的で、これは京呂組に近い組み方だ(桁と梁の天端の高さ関係に相違がある)。

このトイレ棟の軒回りの構造材の取り合いを見ると、柱と登り梁を一体に組んでできるフレームの間に桁、いやつなぎ梁(とした方が好ましい)を入れている。 きちんと観察してこなかったのはうかつだったが、梁には集成材を使っていたように思う。大断面集成材を構造部材として使う場合には在来木造とは異なり、鉄骨造のフレームと同じ扱いをすることが少なくない。このトイレ棟も同様に扱っているのかもしれない。

このように分析的な観察をすることが目的ではない。柱と梁が一体になったフレームが等間隔に並んでいるなあ、美しいなあ・・・。ただそれだけのこと。


 


ぼくドラえもん

2021-02-19 | D 切手



 昨日(18日)届いたはがきに貼ってあった切手。はがきだと63円切手でOKのはずだが、84円切手が貼ってある。理由は分からない。

ドラえもんとのび太君が描かれた図柄。残念なことにのび太君の顔のところに消印の豊科の「豊」という字がちょうど重なってしまっている。

届いたのは若い女性の現代アート作品展の案内はがきで会期は3月3日から3月28日までとなっている。会期中に出かける機会はあるだろう。


 


「濹東綺譚」再読

2021-02-19 | A 読書日記

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 朝カフェ読書。永井荷風の代表作『濹東綺譚』を読み始める。黄色のテープ、40代に読んだ本。随分久しぶりの再読だ。

昭和12年(1937年)に発表された作品。モデルは荷風自身と思われる小説家の大江 匡と私娼のお雪との出会いから別れまで。現代だと小説として成立するかどうか、起伏に乏しいふたりの情交が静かに描かれる。

このような小説を文庫で、それも岩波文庫で読むのもいいものだ。今の文庫本は活字が大きくて読みやすいが、本好きの私は細かい活字びっしりの昔の文庫本の方が好き。読んでいるという実感!


 


「脳は、なぜあなたをだますのか」

2021-02-16 | A 読書日記

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 **みなさんは数多ある本の中から、この本を手に取って下さった。その行為は、みなさんの意志によるものだろうか。それとも、環境から受けた刺激の帰結として、必然的にこの本を手に取ったのだろうか。**

『脳は、なぜあなたをだますのか――知覚心理学入門』妹尾武治(ちくま新書2016年)はこの問いかけで始まる。

ぼくはもちろん自分の意志でこの本を書店で棚から取り出して買い求めた。だが、答えはなんと、後者。環境からの刺激が必然的にこの本を取らせたと考える方が正しいようだと書いてある。意志というものはただの錯覚に過ぎないのだそうだ。釈然としない・・・。

具体的な実験内容はここには書かないが、例えばハトがピカソとモネの絵を判別することができることを明らかにした実験。例えば人は男女を問わず、自分の顔をより魅力的な方向に歪ませて記憶していることを示す実験、等々。いくつも興味深い実験が紹介されている。

どうも脳は「任せておきなさい、悪いようにはしないから」と私を説き伏せて、勝手(?)に振る舞っているようなのだ。


注意資源 二重課題 アンカリング効果


コンコルドの誤謬

2021-02-15 | A あれこれ

「コンコルドの誤謬」という記事を昔(2009.10.15)書いた。以下、それをもとに書いた新たな記事。

コンコルドは英仏両国で開発した超音速旅客機。開発の途中で採算が合わないと分かったが、巨費を投じたので、いまさらやめればすべてが無駄になるということで続行したプロジェクト。このような誤りを「コンコルドの誤謬」と難しくいう。

「リニア中央新幹線」は既に工事が始まっているが、本当に必要なんだろうか・・・。必要だからつくる、というわけではなくて、技術的に可能だからつくるというだけのことではないのか。

東京―大阪間を1時間ちょっとで結んだとしても、その前後の交通事情が改善されない限り、東海道新幹線を利用する場合と目的地までの所用時間はそれほど変わりないだろうに。このようにトータルな交通システムを考えればその一部を構成するだけのリニア中央新幹線の効果はずっと減るような気がする(*1)。

どう考えてもこのプロジェクトは「コンコルドの誤謬」の代表的な事例といずれいわれるようになるような気がする。いや、この手の誤りは「コンコルドの誤謬」に替わって、「リニア新幹線の誤謬」などといわれるようになったりして・・・。

『東京裏返し』には経済的な成長の時代から成熟の時代に転換した社会おいて、より速くの交通システムからスローモビリティ、具体的には13、14キロの速さのトラムや水上交通の整備への転換が説かれている。

東京裏返しは日本裏返しに通ず。

リニア中央新幹線の東京大阪間が開業するのは20年くらい先の見込み、そのころ今以上に急いで移動する「必要」がある社会になっているだろうか。個々人の仕事や生活に関する考え方も変わっていくだろう。社会も経済優先から生活優先へと変わるだろう。

もっと速く社会からもっとゆっくり社会への転換。「狭い日本 そんなに急いでどこへ行く」 20年後、リニア中央新幹線は時代のニーズに全く合わくなってしまっているかもしれない。


*1 関連記事(過去ログ


屋根の支え方

2021-02-14 | A 火の見櫓っておもしろい



 この火の見櫓は先日、信越放送(SBC)の「ずくだせテレビ」で紹介された。収録時にあまりきちんと観察していなかったことに気がついて、放送後に改めて出かけて観察してきた。このことは既にこのブログにも書いた(過去ログ)。

今日(14日)改めて撮影した写真を見て気がついたことがある。それは屋根の支え方。





櫓の頂部で3本の柱を水平部材で繋いでできる3角形と屋根下地の3角形(6角錘の屋根の6本の稜部分の補強下地をひとつおきに繋いでできる3角形)をちょうど重なるようにして、それぞれの3角形の三隅(3つの頂点)に火打を入れ、上下の火打を丸鋼の短い束で繋いでいる(黄色い○で囲ったか所の説明をしたいのだが、どうも簡潔に書けない)。②の写真の方が分かりやすいが、屋根と櫓の頂部を直接接合しないで、細い丸鋼を介して接合している。だから屋根が浮いているように見える。このことは先日書いたときには全く気がついていなかった。はやり見ているのに脳が気がつかない、認識しないことってあるんだなぁ。


 


『東京裏返し』

2021-02-14 | A 読書日記

 この国の街並みの魅力を考える時はこの混沌とした状態を前提とせざるを得ない。ならば、せめて大正から昭和初期、戦前、そして戦後まもなく建てられた古い建築も共存する、つまり何層かの歴史の重なりが見られるような街並みに、魅力を見出そうという考え方があるのではないか。このことを「歴史の重層性にある街並みの魅力」と表現した、という次第。

以上2009年10月6日にブログに書いた記事(過去ログ)後半の再掲。




昨日(13日)一気読みした『東京裏返し』吉見俊哉(集英社 2020年)のサブタイトルは「社会学的街歩きガイド」だが、よくあるような単なる街歩きのガイド本ではない。「街歩きを通して東京の再生を考える」とでもしたほうが内容を的確に表現している、と思う。

私は歴史の重層性が街並みの魅力に欠かせない条件のひとつに挙げられると考えていて、上掲した記事を書いた。『東京裏返し』を読んで著者の吉見俊哉教授の考え方に大いに共感した。

吉見教授は凹凸地形にある都市は異なる「時間層」の痕跡が消えることなく残るとし、武蔵野台地の東端に位置し、大小の川によって形成された複雑な凹凸地形の東京には過去の時間層の痕跡が完全に消えることなく今でも残っていると指摘する。

時間層。吉見教授は東京には四つの大きな時間層があるという。自然地形の上に村や町が出来ていた江戸以前の時間層、家康によって自然が大改造された江戸の層、明治維新のなかで薩長によって行われた東京の層、終戦直後の米軍の占領とそれから続く高度成長期、1964年開催のオリンピックのために改造された東京の層。このようなざっくりとした捉え方、ぼくは大好きだ。

吉見教授はなぜ東京を裏返すことを提言するのか・・・。

「成長」の時代から「成熟」の時代へという歴史の大転換のなかにあって、目指すべきは「より速く」から「よりゆっくりと」、「高く」から「低く」。で、吉見教授は東京を裏返して**現代東京の表層下に生き続けている過去の資産を蘇らせよう**(24頁)と提言する。

路面電車、荒川線の延伸・環状化によるスローモビリティの都心での復活という具体的な構想が示される。スローモビリティは単なる移動手段ではなく、さまざまな文化的、商業的価値に光を当てるメディア的機能を持っていると吉見教授は指摘する。なるほど、確かに。地下鉄だと外の景色は全く見えないし、山手線の電車は速すぎて商店街と直接的に結びつかない。

**川の上を走る高速道路は、利便性ばかりを追求し、文化や伝統、景観を置き去りにした東京の過去の象徴です。首都高がいわば川の蓋になっているのですから、この蓋を取り払えば、東京都心の川は青空の下でもっと魅力的な
街並みを生み出すことができるはずです。**(327頁)これは東京の表層をはぎ取る試みと言える。

高速道路の撤去は実施例があり、アメリカ西海岸のシアトルでは湾岸と都心を繋ぐ高架の高速道路を撤去してしまったというし、韓国でもソウル都心部の清渓川の高架の高速道路が撤去され、川の流れが復活しているそうだ。この韓国の事例は聞いたことがあるような気がする。東京でも首都高速1号線の江戸橋ジャンクションから路線が分かれた先は「盲腸線」だから、撤去しても影響が少ないはずだと、ターゲットを具体的に示している。 
**高度成長期の機能中心の開発主義の産物が幾重にも歴史を寸断しているのです。**(106頁)

最後に少し長くなるが本書から引用する。

**狭い土地の容積率を緩和してそれまであった低層の建物を壊して更地にし、タワーマンションを建てたり、道路を拡幅して自動車交通を便利にし、さらに地上げで大規模開発してくというやり方は、そこで長い時間をかけて営まれてきた暮らしも、積み上げられてきた歴史もすべてを破壊し、チャラにしてしまう。(中略)そこにあるのは、地域との分断であり、過去との根こそぎの断絶、すなわち街の決定的な記憶喪失です。**(206頁)  

「都市の再生に対する明快な理念とそれに向けての具体的な実践法の提示」このように本書を括ろう。 なかなか興味くおもしろい本を読んだ。


都市の記憶喪失 過去ログ