透明タペストリー

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「カワセミ都市トーキョー」を読む

2024-04-18 | A 読書日記


朝カフェ読書@スタバ 2024.04.15

『カワセミ都市トーキョー』柳瀬博一(平凡社新書2024年)を読んだ。

「カワセミを知れば、東京の地理と歴史が見える」は本書の第3章の副題。東京に暮らすカワセミたちの観察から見えてくる東京という都市の姿。そう、本書は東京の姿を論じた都市論。

著者の柳瀬さんは**人間、意識していないものは、目に前にいてもまったく見えない。**(94頁)と書いているが、私も同じことを拙著の「はじめに」で次のように書いた。**知識がないとものは見えないのです。火の見櫓に興味を持ち始めて知識を得るようになって、風景の中に立っている火の見櫓に気がつくようになりました。**

柳瀬さんは**観察を続けるうちに、見え方が変わる。つまり「他人事」じゃなくなる。観察対象が三人称ではなく、二人称になる。「お前」や「君」になる。**(295頁)と書いている。

なるほど。柳瀬さんは個体識別したカワセミ夫婦、親子の観察記を例えば次のように書いている。

**「ほら、まだ躊躇がある! だから狩りに失敗するんだ!」
「はいっ」
「じゃ、もう一度」
「だめだめ、フォームがなってない。もっと、こう流線形に」
「はいっ」
「じゃ、もう一度」
指導に飽きたのか、父さんはさらに上流に飛び去った。
残された2羽は素直に練習を繰り返す。**(155頁)

こんな風にカワセミたちの言葉を解するように観察すれば、いろんなことが分かってくるだろうな。

本書の副題は「「幻」の鳥はなぜ高級住宅街で暮らすのか」。

答えは東京に数多く存在する、湧水がつくり出した小流域源流の谷地形が人もカワセミも好きだから。なんだか、「チコちゃんに叱られる!」の答えのようにあっさりしているが、番組と同様に、本書には詳細な解説が書かれている。本稿ではその内容の紹介は省略するが、簡潔に記された箇所だけ引用する。**小流域は、生き物としての人間がサバイバルするために必要不可欠なものがまとめてパッケージされている地形だからである。**(234頁)人間に限らず、動物、もちろん鳥とっても。

そして**東京の地形は、小さな流域 = 小流域がフラクタルに並んだ流域地形の集合体である。**(25頁)と柳瀬さんは指摘する。このことを示す、国土地理院のウェブサイトから引用したカラーの図が掲載されている。

都内各地(例えば皇居、赤坂御所、白金自然教育園)にカワセミがもともと生息していた、あまり人の手の入っていない「古い野生」が残っている。「古い野生」と「新しい野生」である都市河川とが接続して、カワセミたちが次第に「新しい野生」に適応して生息するようになっていった、という流れ。

河川の汚染でいったん奥多摩辺りまで生息域を後退させていたカワセミが河川の浄化が進んだ都内に戻ってきて、東京の「新しい野生」にも適応した。そこでのカワセミの餌は外来生物と汽水魚、巣は河川のコンクリート護岸の水抜き穴。


本書で環世界という言葉、概念を知った。意味内容を本書から引く。**あらゆる生物に客観的世界は存在しない。それぞれの生物固有のセンサー  =  感覚器がとらえる空間と時間のみが、それぞれの生物の主観的な世界である。ユクスキュルはそう定義した(*1)。そんな個々の生物の主観的な世界を「環世界」と名づけた。**(263頁)

私たちも、個々人が後天的に獲得した言語と知識と経験と好みがつくりだす文化的な環世界にいる。同じ時間に同じ空間にいても見えているものはそれぞれ違う。別の世界にいる、ということを私も経験的に知っている。他者とは違う自分だけの環世界

柳瀬さんはコロナ禍で行動が制限されていた期間に偶々近所の川でカワセミに出会ったとのこと。それからカワセミの観察を続けて本書の出版につなげた。すばらしい。 漫然とカワセミを観察していたのであれば、カワセミは柳瀬さんの環世界には入り込まず、その生態は明らかにはならなかっただろう。

やはり何事にも一所懸命取り組まなくては・・・。


*1 『生物から見た世界』ユクスキュル/クリサート(岩波文庫)を読んでみたい。




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