透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

694 上田市真田町長の火の見櫓

2016-10-24 | A 火の見櫓っておもしろい


694 上田市真田町長(さなだまち おさ)にて 東信地方でよく目にするタイプの火の見櫓 撮影日161022




カンガルーポケットの真横を見上げる。手すりに消火ホースを掛ける太いフックがついている。ここの高さはざっと10メートル。消火ホースの長さは20メートルだから、ちょうどよい高さ。この火の見櫓も踊り場から上に掛けてある梯子は横に傾いていて、支柱と踏み桟(梯子段)は直交していない。昇り降りしやすのかどうか気になるところ。平面形が正方形の屋根と真円の見張り台、基本的な幾何学図形の組み合わせが美しい。



ブレースのリングのところに大日向分団という文字を付けてある。上の写真には「団」が写っている。脚元が少し錆びているのは残念。




取り付けてあるプレートに昭和参拾壱年参月と建設年の表記があり、長村消防団 大日向分団とも表記してある。

この長村について調べて、1958年(昭和33年)に傍陽(そえひ)村、本原村と合併して真田町となったことが分かった。

この3村について調べて、長村は真田村、横尾村、横沢村、大日向村が1876年(明治9年)に合併してでき、傍陽村は上洗馬村、軽井沢村、曲尾村が1874年(明治7年)に、本原村は上原村、中原村、下原村がやはり1874年(明治7年)合併してできたことが分かった。真田は以上の10ヶ村から成る町だった。

真田町には火の見櫓が多いという印象だが、その理由はこのこと、即ち元々10もの村だったことにもあるように思う。火の見櫓は地区単位で建てることが一般的だったから。町がなだらかな丘陵にあるために火の見櫓が平地に比べて遠くまで見えやすい、ということもあるのかもしれないが。


 


上田市真田町の蓋

2016-10-24 | B 地面の蓋っておもしろい


上田市真田町横沢の火の見櫓(725)を背景に旧真田町のマンホール蓋を撮った。撮影日161022



真田町石舟で見たマンホール蓋とは内側の円の中のデザインが違う。



火の見櫓(725)の隣、横沢公民館の敷地で見かけた公設桝の蓋。中心に真田町の町章、下に「真田町」を入れている。町章が円いのでおさまりが良い。


 


693 上田市真田町横沢の火の見櫓

2016-10-24 | A 火の見櫓っておもしろい

 先週の土曜日(22日)に上田市真田町から坂城町、千曲市の火の見櫓と蓋巡りをした。昨日(23日)少し頑張って前半分を載せた。今日から後半分を載せていく。


693 上田市真田町横沢

この火の見櫓の特徴を気がつくままに挙げる。

見張り台と比べて屋根が小さい。軒出が少なく窮屈な印象。カンガルーポケット(櫓の外側1面に付けられた踊り場に付けた愛称)が見張り台のすぐ下にある。すべて輪っか(リング式ターンバックル)付丸鋼ブレース。東信にしては櫓が太目。櫓が下方へ直線的に広がっている。



見張り台の直下に設けられたカンガルーポケット。こうすれば梯子に勾配をつけることができる。 


脚部のプレートに「和村 小林鉄工所製作」とある。 

和村(かのうむら)について調べた。1956年(昭和31年)に田中町、祢津村と合併して東部町になった。その後東部町は北御牧村と合併して現在は東御市。

以上のことからこの火の見櫓は1956年以前に建てられたということが分かる。合併してからこのプレートを設置することはないだろうから。

昭和30年代に盛んに火の見櫓が建てられたが、この火の見櫓も昭和20年代後半から30年代の初めに建てられたものであろう。の様子から、がっちりつくってあることが分かる。古き良き時代の作品だ。