飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

痴漢事件は明白な現行犯以外は無罪!

2007-10-17 15:34:55 | インポート

 ルーズ・ベルトは言っている。「政治には偶然起きるものは何一つない。何かが起これば,そのように計画されていたと考えて間違いはない。」(ゲームの達人2007/10/15)
http://angel.ap.teacup.com/applet/gamenotatsujin/200710/archive

 上の言葉に、「政治には」を、「人間の行為には」と言い換えても、十分通用すると思います。偶然とか、ものの弾みで行うことなどはあり得ることでしょうか。おそらく、それは単なる言い訳で、思念した結果、行為は顕れるのです。思念は、一瞬であっても計画です。

 思念(計画)がなければ、何事も行われません。丁度、創造主の思念がなければ、この世界が顕れなかったように.........。 私は、この事は行為の公理と位置づけて良いように思えるのです。

 時に、『植草裁判』について、10月16日東京地裁判決要旨を熟読したが、評論したいと思います。先ず、事実関係は裁判当事者ではないので、外部から評論できるのは、裁判所の事実認定及び証拠・証人採用に対するものです。判決要旨には原告、被告双方の主張が併記して述べられているので、争点は明かです。

 それを詳細に読むと、当然にことながら多くの点で相違があり、被告の立場で見ると明らかな冤罪です。ただ、証拠採用と証拠の信用性において、裁判所は原告主張を認め、有罪としたということです。裁判官の自由心証により、証拠採用と証拠の信用性を認め、事実認定する、現行の裁判制度の限界だとやむを得ないことだと思います。

 『それでも、地球は回っている....。』と、独白したガリレオの如く、真実は別にある可能性があるのです。『裁判所の事実認定』が為されたのすぎないと言うことです。

 私は、思います。真実は1つです。しかし、『事実』はいろいろあります。ここで云う『事実』は原告主張の『事実』と被告主張の『事実』、そして裁判所認定の『事実』です。本当におこった事実とは違います。本当に起こった事実は、1つです。 

 思念(計画)がなければ、何事も行われません。この観点に立てば、本当にまか不思議な事件と言わざるを得ません。裁判という茶番劇はともかく、植草教授に痴漢行為を行う思念(計画)が存在すると云うこと自体、考えられないのです。『性癖』というものは何でしょう。判りやすく云えば、『くせ』です。例えば、気づかないうちに、鼻をこする、髪を撫でつける、足を組むということならば、解ります。人は、『性癖』で他に何かを行うことはありません。

 『性癖』が在ったとしても、他に及ぼす行為には相当の思念(計画)がなければ、人は行為には及ばないと云うことを、改めて見つめ直すべきです。多くの場合、好意を抱いていても、告白するのに多くの人は、ためらうに違い有りません。自殺願望者には、殆どためらいキズがあると言われています。『性的嗜好』を抱いている人は、少なくないと想いますが、実行するには相当の勇気と相当の思念(計画)を要求されなければ、出来るものではないと信ずるのです。

 私が、冤罪だと識別する根拠は上記の理由です。裁判所の判断は判断です。私の識別力に影響をしません。現行の裁判は疎外事項には判断しないし、訴追事項に関して、あくまでも形式事実と形式証拠をもって、判断しますから予想された事態だと考えます。

 思うに、この事件、当初から注目しているのですが、あまりに出来すぎています。被告一人に、役者が多すぎます。そして、流れからすると、第1事件があって、第2事件が起こり、そして今回の事件。どうしても被告を社会から抹殺したいという『思念(計画)』が別にあると推理せざるを得ないのです。
 日本にとって、社会にとって、国民にとって何が有益かと考えれば、解ると思います。被害者がいるので、その方のためにも真犯人を究明すべきは勿論ですが、事件の態様からすると『仕組まれた事件』との観点から、推理するとすっきりします。仕組む側、仕組まれる側の動機・目的・利益を識別すると、仕組まれる側つまり被告には、その何れも存在しません。『性癖』は動機ではありません。

 痴漢には、冤罪事件が多いのは『性癖』を動機と同視するからではないでしょうか。人をいじめたい『性癖』を持つ者もいるかも知れませんが、人を傷つけたり、殺したりするするには、それなりに強い思念(計画)が必要です。そして、明確ではないにしても動機が存在しなければ思念(計画)は生まれません。痴漢事件は明白な現行犯以外は、無罪とすべきです。