10:6 エズラは神の宮の前を去って、エルヤシブの子ヨハナンの部屋に行き、パンも食べず、水も飲まずにそこで夜を過ごした。捕囚から帰って来た人々の不信の罪を嘆き悲しんでいたからである。
エズラは神殿から出て、ヨハナンの部屋に行った時、パンも食べず、また水も飲まないで夜を過ごしました。
その理由は、捕囚から帰ってきた人々の不信の罪を嘆き悲しんだからである、と言われています。
不信の罪というのは、主のみ心に従わないで歩むということです。
私たちは、あまり罪ということを考えないことがあります。
それは、自分が良ければそれで良いと思うからです。
自分が第一なのです。
ところが、神様を第一にしますと、そこでは罪の問題が深刻になってきます。
神様を悲しませる行為であるからです。
しかも、エズラは自分のことではなくて、民が犯したその罪を悲しんでいるのです。
それは、彼が自分を中心にして物事を考えていたからではありません。
神と神の御心を、いつも第一にして考えていたからです。
罪の自覚は、そこに生じるのです。
■O:今日のコラム
詩篇は偉大な礼拝の書簡であり、詩篇を通して天の礼拝へと引き上げられます。ユダヤ人達はこの詩篇を歌の様にメロディーを着けて音読していますが、それが詩篇の正しい読み方です。御言葉を目で追って読み頭の知識として理解しようとするのではなく、生ける神の御言葉を私達が口に出して音読し、何度も口ずさみ、宣言する時に、この詩篇が私達の賛美となり信仰の告白となるのです。
詩篇23篇と24篇は私達の信仰を大きく引き上げ、主に対する信頼と望みをもたらす書簡です。今日この二つの詩篇を実際に自分の口で音読し、一節一節を私達の信仰の告白として宣言しましょう。
■A:考えてみよう
【詩篇23篇】
1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
【詩篇24篇】
1 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。
2 まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。
3 だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。
4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
5 その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。
6 これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。セラ
7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
10その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。セラ
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
異なる福音の精神を助長する傾向をもつ一切の誤謬を一掃することは、私たちに課せられた重大な任務でなければならない。この国で根絶に成功したならば、さらに、あらゆる手段を尽くして、世界中に急速に拡大しようとしているこの思想に反対すべきである。これは、熱心な密室の祈りと断固たる証しによって成し遂げることができる。その誤謬に傾いている人々に対して、私たちは裁判官のような大胆さをもって警告しなければならない。若い人々に福音の真理を教え、昔間違った教えを信じる人々がした暗い行為を彼らに語らなければならない。私たちは、光をさらにすみずみまでこの世に広めなければならない。
私たちはイエスのため、福音のために、最善を尽くしているだろうか。そうでなければ、怠慢のため私たちはつけいられる。私たちは聖書を広めるために何をしているのだろう。聖書は、間違った教えを信じる者にとって毒である。私たちは、良い健全な福音の著書を広く世に供給しているだろうか。ルターはかつて「悪魔は『鵞ペン』を憎む」と言った。もっともなことである。聖霊の祝福を受けた良い著者は、悪魔の王国に対して大損害を与えつつあるからである。もし、今夜この文を読んだ幾千の人々が、こののろうべきエリコの再建を妨げるために最善を尽くすならば、主の栄光は、人の子たちの間に急速に広がるであろう。
読者よ。あなたは今何をすることができるか。そして何をしたいと思うのか。
あなたがたは黙っていなければならない」(出エジプト14:14)
様々な信仰の勇者たちが、信仰の戦いを戦ったが、その方法は人間的に見るなら、ほとんど意味をなさないような方法だった。
出エジプトを果たしたモーセは、エジプト軍の追跡に、断崖絶壁の紅海で、主はモーセに、イスラエルの人々に前進するよう言えと、命じられた。
又、難攻不落のエリコの城壁を前に、主はヨシュアに町の周りを回るよう命じられた。
6日間町の周囲を1度周り、7度目に7度回り角笛を吹き、大声でときの声をあげよと。
又、ダビデは、巨人ゴリアテに剣や槍でなく、石投げで石を打ち、倒した。
彼らが戦いに勝利したのは、神の方法に従ったゆえであった。
人間の思いでは不可能であり、そんな事をして何になるとの不思議な方法だった。
しかし、主の命令通りに従った時に、神の大きな奇跡が現された。
「主があなたがたのために戦われる」まさに人間ではなく、主の戦いであった。
私たちも時々理解を超えることがある。
しかし、信じて従う時、神の栄光を見る。
信仰生活において、一歩一歩御霊の導き、方法に従う事が大切だ。御霊は導かれる。
それはへりくだる事、あちこちに謝罪する事かも知れない。
又、自分には不可能に思える御心に、信仰持って一歩踏み出す事かも知れない。
とにかく神の方法に従う時、主が戦って下さる。
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大きな問題ばかりでなく、些細な日常の出来事にも神様を認め、導きを求めて行こう。
困難の時だけに気持ちを切り替えていくのではなく一歩一歩だ。新しい週が始まった。
目の前に来るものすべてを、主と共に、主のやり方で成し遂げていこう。
聖テオドシア殉教者
8世紀中ごろ
テオドシアは、8世紀中ごろのコンスタンティノープルに生まれた。
彼女は高貴な家に生まれたが、若くして両親を失い、コンスタンティノープルにある聖アナスタシア修道院に入った。
当時の皇帝レオはイエス・キリストや聖母、聖人たちの画像破壊を行っていた。テオドシアはそれに反対するため、修道女たちのグループを作った。
そして、テオドシアと修道女たちは、画像破壊を支持する異端者・コンスタンティノープルの大司教の宮殿に投石するために出かけた。しかし、女性たちは捕らえられ、テオドシアは他の12人の女性と共に投獄され拷問にかけられて、殉教したとされている。
貧しい者はその隣人にさえ憎まれるが、
富む者を愛する人は多い。 (箴言一四20)
前にも申し上げたことですが、現代ほど、「愛」ということばが氾濫している時代はないでしょう。しかし、現代ほど、愛のない時代はないのかもしれません。都会の片すみで、数かぎりない人が、自分が見忘れられ顧みられないことを寂しく感じています。けたたましく忙しい一日の活動の後にベッドに横たわる時、人々は、しみじみそれを感じるのです。
どこかが狂っています。どこかに間違いがあります。何がおかしいのでしょう。
家庭での愛情はひとまず置くとして、一歩外に出ると、人間の愛は、相手の利用価値に動かされています。相手に利用価値があれば愛し、そうでないと見向きもしないのです。富んでいる人のまわりには人が群がり、みな心のこもったようないいことを言います。貧しい人のまわりには、だれも集まりません。だれも、慰めも励ましも愛のことばもかけません。いや、それどころか、意地悪する人もあります。人が悩んでいたり苦しんでいるのを、ひそかに喜ぶ者すらいるのです。
家庭の中の愛だけは、無条件のほんとうの愛でしょうか。いつの間にか、ここでもやはり、自分で利用できるもの・自分の役に立つもの・自分の名誉や喜びになるものだけが愛され、そうでないものはポイと捨てられています。ですから、いま家庭の中で、夫婦の間・親子の間でさえ、争いの絶えない冷たい家庭が増えているのです。
ほんとうの愛とは、無条件で相手を受け入れ、相手の喜びを喜びとし、相手の悲しみを悲しみとする愛です。そんなほんものの愛は、神にあるのです。富める者も貧しい者も無条件で愛し、一人一人の最善を願うばかりか、それを備えてくださいます。そんな神の愛を知って、初めて私たちの愛もほんものに近づいていきます。
悪を憎んだ。(詩篇四五・七)
「怒っても、罪を犯してはなりません。」もし人が罪を怒らないとすれば、その人の中に善があるとは思えない。真理を愛する者は、一切の偽りを憎むはずである。私たちの主イエスは、誘惑が襲ってきた時、どれほどそれを憎まれたことであろう。それは三度手を変えて襲ったが、主は「引き下がれ、サタン」とのことばをもって撃退された。主は他人の中にある罪を憎み、叱責のことばよりはさらに熱烈なあわれみの涙をもって、罪に対する憎しみを示された。
しかし、主の次のみことばほど、エリヤを思わせるような激しさをもつものはない。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。」主はこの上なく悪を憎まれ、悪に致命傷を与えるためにご自身の血を流し、悪が死ぬためにご自身が死に、悪をご自身の墓に葬るために葬られ、永久に悪を御足の下に踏みにじるためによみがえられた。キリストは福音の中におられ、福音はあらゆる悪に反対する。悪は美服をまとい、聖いことばをまねる。しかし、イエスの教えは、有名な宮潔めの縄のむちのように、悪を宮から追い出し、それが主のからだである教会の中に存在するのを黙認されない。それゆえ、イエスの支配下にある心の中では、キリストとサタンのなんと激しい戦いがあることだろう。
さらに、私たちの贖い主がさばき主としておいでになる時には、「のろわれた者ども。わたしから離れよ」との雷のようなみことばが――これは主のご生涯を通じての罪に関する教えの延長にすぎないものだが――罪に対する主の憎しみを表すことだろう。主は罪人に対して温かい愛をもたれるだけに、罪に対しては燃えるような憎しみをもたれるのである。主の義が完全であられるだけに、あらゆる種類の悪を残らず破壊される。
ああ、栄光ある正義の闘士、悪の破壊者よ。それゆえ神、すなわちあなたの神は、あなたの友にまさって喜びの油を多く注がれたのである。
10:3 「今、私たちは、私たちの神に契約を結び、主の勧告と、私たちの神の命令を恐れる人々の勧告に従って、これらの妻たちと、その子どもたちをみな、追い出しましょう。律法に従ってこれを行いましょう。」
エズラと彼の元にいるすべての人々が、この罪のために悲しみ嘆いていた時に、シケヌヤという人がエズラの元に来て告げました。
自分たちはまだ望みがあります、と語ったのです。
その望みとは、神の前に新たに契約を結びましょうということです。
そしてその結果として、自分たちの内で異邦人と結婚した人の妻とその子供たちを追放しましょう、と言ったのです。
そうすれば、自分たちの内から罪を取り除くことができると語ったのです。
ですからこのことを、勇気を出して実行してくださいと、エズラに告げました。
罪は消すことはできませんが、しかし、その罪の許しをいただいて、今後は、こうした罪を犯すことはしないという事の契約を、神と結ばせてください。
そのために、異邦人の妻子を追い出しましょうと言ったのです。
★私はあなたの恵みに依り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえに。
■O:今日のコラム
恵みとは、「受ける価値のない者に注がれる神様の好意」です。受ける価値のない者、それが私たちであることを覚えます。だから、私たちにはイエス・キリストの血潮を受け取ることが必要です。恵みという言葉は、新約聖書に148回出てきます。1ペテロ5:10には、「あらゆる恵みに満ちた神」と記されていて、神様が恵みに満ちた方であることが分かります。
今、私たちの教会で「血潮の宣言」に取り組んでいますが、日々これを行うことで、神様がして下ったことに対する感謝が心の中に湧き上がってきます。今日の聖書箇所で、作者は「主が私を豊かにあしらわれたがゆえに」と言っていますが、主イエス・キリストの血潮を宣言し、受け取る時に、恵みが、日ごとに増し加わっていくのを感じます。義も自分の義ではなく、ただ神の恵みによるのだと思うと感謝、喜びが湧き上がってきます。そして、その恵みに依り頼む信仰が湧き上がってきます。
「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪が増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ5:20~21)
また、からだの各部分に主の血潮を宣言していきますが、私たちのからだが贖われていく恵みを覚えます。パウロも「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち私たちのからだが贖われることを待ち望んでいます。」(ローマ8:23)と語っていますが、血潮を宣言し、御ことばを宣言する時に、私たちのからだが贖われ、神のみことばが実現し、神様の似姿に変えられて行くと信じます。
神様が与えて下さっている恵みをイエスのキリストの血潮を通して、今日も感謝して受け取って行きましょう。
■A:考えてみよう
◯神様が与えて下さっている恵みをイエスのキリストの血潮を通して、今日も感謝して受け取って行きましょう。
◯時が良くても悪くても、みことばの種を自分自身に、家族に、神の家族に、環境に、蒔いていこう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
これはエレミヤの経験であった。冒頭の聖句の前の節によれば、記憶は彼に深刻な屈辱を感じさせた。「私のたましいは、ただこれを思い出して沈む。」しかし今この同じ記憶が、彼にいのちと慰めとを回復させた。「私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。」両刃の剣のように、彼の記憶は、まず一方の刃をもって彼の高慢を殺し、次に他の刃をもって彼の絶望を殺した。原則として、もし私たちがさらに賢明に自分たちの記憶を訓練するならば、最暗黒の不幸の中においても、ただちに慰めのランプをともすマッチをすることができる。
信者に喜びを回復させるために、神が地上に新しいものを創造される必要はいささかもない。もし彼らが、祈りをもって過去の灰をかきたてるなら、現在への光を見いだすであろう。そしてもし真理の書と恵みの御座に帰るならば、彼らのともしびはたちまち以前のように輝くであろう。私たちはいつくしみ深い主を回想し、彼の恵みのみわざを復習するようにしたい。あわれみの思い出に豊かに輝く記憶の書を開こうではないか。私たちはただちに幸福になるであろう。
記憶は、コールリッジが言ったように、「胸の中の喜びの泉」である。さらに助け主なる神がそれを用いられる時、それは地上の慰めのうち随一のものとなるであろう。
あなたがたの思いと異なり…」(イザヤ55:8)
例えば30階のビルの入口に立って、地上からビルを仰ぎ見る時、そのビルと近隣が見えるだけだ。
しかし、ビルの最上階から景色を見るなら、地平線まで見える。
遙か彼方の景色まですべて展望できる。
有限な私たちは地上で見ているごとく、ほんの少しの目先の情報でしか、物事を考えられない。
様々な計画を立てるにしても、近視眼的にしか見えていない。遙か先の事は全く見えないし、明日の事すらわからない。
しかし永遠であり、無限であり、全知であられる神はどうだろう。
明日も、私たちの将来も、行く道も何もかも完璧にご存じだ。私たちよりも遙か先を見た上で、今の状況を導き、配慮して下さっている。
自分はこの考えは絶対だ、この計画は絶対だと思う。そして自分に関わる状況を見つつ、最高の結果を期待し、自らが立てた計画通りに事が運ぶよう願う。
しかし、その通りでなく、思い通りにならないと焦り、イラ立ち、不安になり思い煩う。
が、遙かに高い神の前では、自分の計画は絶対ではないかも知れない、そのへりくだりが必要だ。
しばしば神のみ思いとは大きな違いがある。
神は私たちの事も、将来も、周囲の事すらも配慮し、最善をして下さる。
そして全主権を持っておられる神は「愛」だ。
今思い通りでない事態を、その愛なる方が最善へと導いておられる事を信じよう。
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自分の思い通りに事が運べば「愛されている」思い通りでなければ、「愛されていない」ではなく、光を造られた父から下るものが良いもの、完全な賜物だ。自分の思いと違う「良い贈り物」を受け取ろう。
聖ジェルマノ司教
496年-576年
フランス生まれのジェルマノは、34歳のときに司祭になった。後にパリの司教に任命され、同時に王室の司祭長にもなった。ジェルマノは、高い位についても今までの厳しい生活を続け、あらゆる人々、特に貧しい人々を快く迎え入れた。多くの奇跡を起こしたとも言われ、有名な詩人のヴェナンチオ・フォルトゥナートが、ジェルマノの力強く崇高な生涯をほめたたえる書物を著している。
彼の遺体は、パリで最も古く、そして最も大きいサン・ジェルマン・デ・プレ修道院に眠っている。
知恵のある者は用心深くて悪を避け、
愚かな者は怒りやすくて自信が強い。(箴言一四16)
・ いつもおどおどして、人の気持ちばかり気にしている。
・ 自分というものを持っていない。独立していない。力が出しきれない。
しかし、自信がありすぎるのも、また困りものです。
・ 人を押しのける。まずくいくと、いつも人のせいにして怒ったり非難する。自分が用いられないと気分を損ねる。
・ 事がうまくいくと、おれのせいだと、すぐ自己賛美をする。
・ 何事にも謙虚な自己反省がない。
人間にとって大切なことは、自分の力を過小にも過大にも評価しないことです。正確に、あるがままの姿を認め、つかむことです。その上で、自分の未来の姿が進歩し改革され生まれ変わる可能性に向かって、明るい希望をもって努力することが肝要です。
自分のほんとうの姿を認めることは、こわいこと・つらいことでしょう。だれでも、自分の弱さ・欠点・失敗は認めたくないのです。
私も、自分の弱点や失敗を知られた時は、母にまで反抗したことがありました。しかし母は、私のみじめさを知りながら、弱点・欠点も十分承知した上で、やはり私を受け入れ、愛し期待し、私を守ってくれていたことが、だんだんと私にも分かってきたのです。ところが、神は母親どころではありません。すべてをご承知の上で、私たちを受け入れ愛し導き、期待し力を与えてくださるのです。
神の前に自分が罪人であることを認めると共に、自分がまた、神に愛され選ばれており、神の愛と導きの中に、すばらしい可能性があることをはっきり認めること。――これこそ、人生のすばらしい力です。