座間コミニティー

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◆エジプトに下ることを恐れるな。

2016年05月12日 18時06分31秒 | 聖書
わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。(創世四六・三、四)
 
ヤコブは父祖伝来の住み慣れた土地を離れ、見知らぬ異教徒の中に住むことを考えて、身震いしたことであろう。それは全く新しい環境であり、いろいろつらいこともありそうであった。外国の王の廷臣の中に交じって、だれが心労なくやっていけよう。しかし、道は明らかに彼のために定められていた。それゆえ、ヤコブの一行は行く決心をした。
これは信者がしばしば直面する立場である。彼らは、これまで出会ったことのないような危険や誘惑にさらされる。このような場合には、ヤコブの例にならい、神に祈りのいけにえをささげて神の導きを求めるがよい。主の祝福を得るまでは行動してはならない。そうすれば、彼らはヤコブに伴われる方を友とし、助け手としてもつであろう。私たちの行く所に主が伴われ、屈辱や追放をも共にされるほどへりくだられることを確信するのは、なんという祝福であろうか。大海を越えても、私たちの父なる神の愛は太陽のように照り輝く。主がご臨在を約束された所に行くのを、私たちは躊躇しない。死の陰の谷すらも、この保証の輝きによって明るくなる。
神を信じて前進するならば、信者はヤコブと同じ約束を与えられる。人生の苦難からであろうと、死の部屋からであろうと、再び導き出されることであろう。ヤコブの子孫は、時が来ればエジプトから連れ出された。同じように、信仰あつき者は、無傷で人生の苦難と死の恐れを通過する。ヤコブの信頼にならおう。
「恐れるな」というのは主のご命令であり、主の導きに従って新しい海に乗り出そうとする人々に対する主の励ましのみことばである。神のご臨在と神の保護は、ただ一つの不信仰の恐れをも許さない。私たちは神なしに行動することを恐れる。しかし、神が行けと命じられる時、ためらうのは危険である。
友よ。前進せよ。恐れるな。
 
 

「さて、この地にはききんがあったので、

2016年05月12日 18時05分28秒 | 聖書

エジプトのほうに、下って行った」(創世12:10)

アブラハムは再度召しを受け、カランを出発し、カナンの地に入った。
そしてネゲブへ向かって旅を続けていた時、激しい飢饉に会った。
そこで、エジプトに下った。
飢饉が余りにも厳しく、命の危険を感じたのだろう。
エジプトに下って、アブラハムは罪を犯してしまった。
自分を守るために、サラを妹だと偽り、サラにも偽りを強要し、それゆえサラはパロの宮廷に召し入れられる事となった。
間一髪のところで主の介入があり、救い出された。
アブラハムの失敗は、厳しい飢饉に臨んだ時、神を仰がず、神の御心を求めず、自分の知恵と判断で動いた事だった。
それがエジプト行きであり間違いであった。
まず神に祈り、頼り、神に指示を求めるべきであった。
私たちも信仰をもって歩み出した途端、厳しい飢饉が臨む。
その時に驚き慌ててしまい、神が吹き飛んで、自分で何とかしなければと、立ち騒ぎ、とにかく自分を守ろうとする。
右往左往し、肉の策を考え、行動する。
その結果、失敗し、刈り取りをする事になる。
自分で動かずに、「わたしを呼べ」と言われる主を呼ぼう。
どんなに飢饉であっても、主は手だてを持っておられ、逃れの道も備えておられる。
「立ち返って静かにすれば救われ、落ち着いて信頼すれば、力を得る」ことを覚えよう。
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不意の事態にパニックに陥り、自分を守ろうと自分の都合の良いように動いて、御心をそれてしまう。
振り返った時思い当たる。
同じ失敗を繰り返さないよう、まず、主を呼ぼう。


今日の聖人の記念日

2016年05月12日 06時14分57秒 | キリスト教

聖ネレオ 聖アキレオ殉教者

1世紀ごろ/1世紀ごろ

 ネレオとアキレオは兄弟である。ローマの軍隊に入ったが、キリスト教を迫害する皇帝の残酷な命令に従うことに良心のとがめを感じ、軍隊をやめた。2人は使徒聖ペトロから洗礼を受け、皇帝の近親である皇女ドミチラに仕えた。彼らのキリスト教に基づいた態度はドミチラに良い影響を与え、彼女も洗礼を受ける。しかし、それを知った皇帝は怒り、3人に信仰を捨てるよう命じた。しかし3人とも命令に従わなかったため、兄弟は追放されて首をはねられ、ドミチラも後に殺された。

聖パンクラチオ殉教者

289年ごろ-304年

 聖パンクラチオは小アジア(トルコ)のフリジアで生まれた。両親はローマの市民権を持っていた。母親のクレオニアはパンクラチオが生まれる際に亡くなり、パンクラチオが8歳のとき、父親は彼を残して去ってしまった。彼は叔父に育てられ、後にローマに移り、そこで受洗した。その後熱心な信者となったが、ローマ皇帝ディオクレティアヌスのときに捕らえられた。ローマの神々に犠牲をささげ、皇帝に忠誠を誓えば、富と権力を与えると約束されたが、彼は拒否した。パンクラチオの強い信仰は皇帝の怒りを買い、最後は首を斬られて殉教した。

 遺体はカタコンベ(ローマ)に埋葬され、500年、聖シンマコ教皇は聖パンクラチオの墓の上に大聖堂を建てた。現在、大聖堂にはパンクラチオの遺骨が収められている。


◆親切なことば

2016年05月12日 06時13分58秒 | 聖書

心に不安のある人は沈み、
親切なことばは人を喜ばす。    (箴言一二25)
 
「忘れられない親切なことば」を、アンケートで集めたら、たくさんの人からすばらしい思い出が集まるかもしれません。心を明るくしたことば、沈んでいたのに励まされたことば、悲しみ絶望していたのに慰められたことば、困っていたのに助けられたことば、私も、そんな思い出がたくさんあります。
・ 大荷物を持ってプラットホームで困っていた時、あるおじいさんから「お荷物を持たせてください」と声をかけられました。私が遠慮すると、「イエスさまは、私の罪の重荷を負ってくださいました。ぜひ、あなたの荷物を私に持たせてください」と、なおも言われたのです。ドイツのフランクフルトでのことでしたが、忘れられません。
・ アメリカに初めて行った時、あるアメリカ人の友達が、町の中に日本人の家庭を見つけ出し、私を連れていきました。そして、その家の人に「この人に日本食をつくって食べさせてください」と言ったのには、びっくりしたり、少し恥ずかしかったりもしました。しかし、見も知らない人にこうたのんでくださった親切が忘れられません。
心に不安があり沈んでいる人の心からは、こんな親切なことばは出てきません。外側は貧しくても、病気や試練に会っていても、内側には愛と希望があり、ゆるされて満ち足りた心から、親切なことばがわきあふれるのではないでしょうか。
イエス・キリストはこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ七37―38)。
 
 

◆わたしもその人を愛し、

2016年05月12日 06時13分15秒 | 聖書
わたし自身を彼に現わします。(ヨハネ一四・二一)
 
主イエスはその民のため特別にご自身を啓示される。仮にこのことが聖書に書かれていないとしても、自らの体験からこの真理を実証できる多くの神の子たちがいる。主が、筆やことばをもって表現できない特別な方法で、彼らにご自身を現されたのである。
有名な聖徒の伝記に、イエスが特別な方法で彼らのたましいに語りかけ、その驚くべきご人格を彼らの前に示された多くの実例を見ることができる。彼らのたましいは、無上の幸福にひたり、さながら天国にあるかのように思った。事実天国に入ってはいなかったが、その門口にいたのである。なぜなら、イエスがご自身をその民に現される時、それは地上の天国であり、楽園の胚芽であり、祝福の初めであるからである。
キリストが特別にご自身を現されることにより、信者の心に神聖な感化が与えられる。その一つは謙遜である。もしだれかが「私はこれこれの霊的な経験をした。私は偉大な人物である」と言うならば、その人は実はイエスとは没交渉なのである。なぜなら、「主は……低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます」と記されているからである。神は彼らを知るために近づかれる必要はなく、したがって愛のことばをおかけにならない。
もう一つの結果は幸福である。なぜなら神のいます所には、尽きない喜びがあるからである。聖潔もまた、必然的にもたらされる結果である。聖潔をもたない人は、この神の顕現に接した者ではない。ある人は大言壮語する。しかし、私たちは、口先のみで行いの伴わない者を信じてはいけない。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。」神は悪い者の上にその恵みを注がれることはない。神は、全き人を捨てられることはないが、悪を行う者は尊ばれない。
以上述べたように、主に近づいた結果、三つのもの――謙遜、幸福、聖潔がもたらされる。神があなたがたにこれらのものを与えてくださるように。
 
 

エズラ書6章13-15節

2016年05月12日 06時12分08秒 | 聖書


6:13 このように、ダリヨス王が書き送ったので、川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚たちとは、これをまちがいなく行った。
6:14 ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨスと、ペルシヤの王アルタシャスタの命令によって、これを建て終えた。



 ダリヨス王からの命令が下ったので、総督とその同僚達はユダヤの人々を支援しました。

なぜなら、王の命令に背くならば、自分たちの命が危うくされたからです。

従って、彼らにとりましては、王に確認の調査を頼んで、ユダヤの人たちの働きを妨害しようとしたことが、自分たちには虻蜂取らずの結果に終わってしまったのです。

このように、主の民は、預言者の言葉と、代々のペルシャ王達の命令に助けられ、また幾多の困難を乗り越えて、ついに主の宮を建て、また町を建設することを成し終えたのでした。



民数記25章1節、26章10節

2016年05月12日 06時09分56秒 | 聖書


★ イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。

★ そのとき、地は口をあけて、彼らをコラとともにのみこみ、その仲間は死んだ。すなわち火が二百五十人の男を食い尽くした。こうして彼らは警告のしるしとなった。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!5月10日の朝です。今日一日も、神様の御国とその義とを第一に求めていきましょう。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、僕らの神様、天のお父さんを、主の主、王の王、御子、救い主なるイエス・キリスト様、助け主なる聖霊様を愛していきましょう。主は、僕らと共に歩みたいと願われているからです。主が、僕らを愛しているからです。

主が共にいて、主と共に歩むとき、主が喜ばれることをやりたいと思います。主への賛美が満ち溢れます。苦しいときでさえ、主を求める飢え乾きがおこります。でも、僕らの心には、悪い考えがあります。悪い考えは、僕らを主から引き離そうとしていきます。主を求めているときに、主からの答えがないとき、僕らは焦ります。そして、だんだんと主の声を聞く耳が鈍ってきます。

イスラエルはシティムにとどまっていました。シティムは、アカシアの木の複数系の言葉です。モーセさんの幕屋にはアカシアの木がふんだんに使っていました。その神様の臨在のすぐ近くにいても、その場所に偶像が入り込んでくるのです。僕らの心の中に神様中心ではなく、自己中心の悪い考えがあるからです。自己中心は、自分のやりたいことだけをやろうとみだらなことをし始めるのです。

「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」(マタイの福音書15章18,19節)

口から出るものが、主への叫びではなく、主を求めないものになっていきます。悪い考えは、僕を殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりへと導きます。僕の心は、人を汚します。

僕はすぐに、イエス様以外のもので満たされようとしてしまう者です。近くにある身近なモノで満たされようとしてしまいます。主に従いたいけど、主にすべてを委ねられない頑固な者です。主の声を聞きながら逆らってしまうコラのようです。(民数記16章参照)主に反逆する者です。そして、時に、主がたてられた権威に逆らおうとしてしまう者です。

だから、僕には、イエス様の十字架による血潮と復活の勝利が必要です。毎分毎秒、イエス様が必要です。イエス様の十字架による血潮によって洗われていく必要があります。悔い改めが必要なのです。イエス様と共に歩まなければならない心貧しい者です。

イエス様が必要だと信じ、飢え乾き、求め続け、捜し続け、叩き続けるならば、僕らは、与えられ、見つけ、開かれていきます。天のお父さんの御国とその義とを第一に求めていくならば、それに加えてすべてのものが与えられるのです。

モーセさんの次世代リーダーのヨシュアさんは、シティムから二人の偵察を送りました。シティムから約束の地へと出発していきました。アカシアの木が使われている神様の幕屋から新たに出発することができるのです。

■A:考えてみよう
天のお父さんの御国とその義とを第一に求めていきましょう。
自分の心にある悪い考えを悔い改めていきましょう。
イエス様の十字架による血潮を受け取っていきましょう。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


5月11日(水)のつぶやき

2016年05月12日 01時40分26秒 | キリスト教