座間コミニティー

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◆そこにある助け。

2016年05月03日 17時12分41秒 | 聖書
(詩篇四六・一)
 
約束の祝福は見るためにあるのではなく、実際に適用するためにある。主イエスはそれを、現在用いるために与えてくださった。クリスチャンよ。あなたはキリストを当然なすべきところまで活用していない。
困難の中にある時、なぜ主にすべての悲しみを打ち明けないのか。主が同情をもたれず、あなたを慰め、救い出すことができないと言うのか。あなたは友人の間を飛び回って自分のことを話すが、あなたの最上の友、あなたの主の御胸にそれを告げようとしない。
あなたは今日の罪のために重荷を感じているのか。ではここに、血で満たされた泉がある。それを用いよ。罪の意識が再びもり返してきたと言うのか。主が罪を赦される恵みは、幾たびでもくり返して明らかにされる。きよめられるために、ただちに主のもとに来い。
あなたは、自分の弱さを嘆き悲しんでいるのか。主はあなたの力であられるのに、なぜ主によりかからないのか。あなたは裸であると感じているのか。たましいよ。ここに来て、イエスの義の衣を身に着けよ。あなた自身の義、恐れを脱ぎ捨てよ。美しく白い亜麻布を着よ。それはあなたが着るために備えられている。あなたは病気であると感じているのか。夜の祈りのベルを鳴らし、愛するいやし主を呼べ。主はあなたを力づける強壮剤を与えられる。
あなたは貧しい。が、「非常に裕福な一人の親戚」がいる。それなのに、あなたは主のもとへ行かないというのか。主はあなたに、主と共同相続人であるという約束を与え、すべての主の存在と所有物をあなたのものとして移す手続きを終えておられるのに。
ご自分の民が主を用いないで、飾り物としておくことほど主がお嫌いになることはない。主は私たちによって用いられることを喜ばれる。私たちが重荷を主の肩に置けば置くほど、主は私たちにとって尊いお方となってくださる。
私たちは主に対して率直になろう。そうすれば信仰が後退したり、かたくなになったり、また冷ややかになったりすることはない。
 
 

「あなたがたの父なる神は、

2016年05月03日 17時11分36秒 | 聖書

あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
だから、こう祈りなさい…」(マタイ6:8)

神は私たちが願う先に、必要なものを知っておられる。
では、神が知っておられるなら、求める必要が無いではないかと思う。
だから、祈らなくて良いのではと。
しかし、「だから、祈りなさい」と主の祈りが続く。
だからこそ、祈れと言われる。
祈りは重要であり、実践の中でこそ、祈りが身につく。
神は私たちの必要をご存じだが、自分が知らない。
自分はこうありたい、これが欲しい、これが絶対に最善だと思う。
自分の強い思いがある。
しかし、神の目には違っているかも知れない。
しばしば、神の思いと人の思いは大きく違う。
祈る中で、自分の願いが修正されて行く。
なかなか祈りが答えられない時、その願いの動機に視点が向く。
動機が探られる。あるいは自己中心なものかも知れない。
間違った動機が正される。
又、強い願いはあるが、今、本当に自分に必要であるのかどうかを考えさせられる。
祈りの中で、その願いがきよめられて行き、本当に自分にとって最善なものが何なのかを見つけて行く。
祈りの中で、願いが軌道修正され、神のお心に適うものへと変えられて行く。
自分自身が変えられ、祈りが変えられる。
神の心に適った祈りは答えられるので「神に願ったその事は、すでにかなえられたと知る」その祈りが答えられたとの確信が臨む。
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欲しいものと必要なものは違う。
それをはっきり示され砕かれて行くのも祈っているからだ。
自分の自我や限界を謙遜に認めていける。


今日の聖人の記念日

2016年05月03日 08時49分50秒 | キリスト教

聖フィリポ 聖ヤコブ使徒

?-78年ごろ/?-62年

 聖フィリポは、ガリラヤのベトサイダで生まれ、イエスに従った最初の弟子の一人であった。福音書には、フィリポについてわずかしか記されていないが、イエスと親しく交わり、素朴で用心深く、現実的な人であったといえる。その後の活動については、伝えによると、今のトルコのフリジアで宣教し、そこで殉教したといわれる。彼は、さらし業と帽子業の保護の聖人である。

 聖ヤコブは、使徒大ヤコブと区別するために、小ヤコブとも呼ばれる。ヤコブは、イエスの親類であり、エルサレム教会の初代司教となった。彼は市民から尊敬され、多くの人を信仰を導いたが、そのためファリサイ人の反感をかい、殉教した。最後の瞬間まで、自分を殺す者たちのために祈った。


◆しっかりした妻

2016年05月03日 08時48分44秒 | 聖書

しっかりした妻は夫の冠。
恥をもたらす妻は、
夫の骨の中の腐れのようだ。     (箴言一二4)
 
「悪妻は六十年の不作」なんてことばが日本にはあります。「夫の骨の中の腐れ」とは、これも思いきった辛らつなことばです。反時代的な封建的な考えだなどと、ある人たちには言われそうです。
しかし、妻がしっかり家庭を守り、しっかり夫に仕え、しっかり子どもを育てることは、どんなに大切なことでしょうか。アメリカは人種のるつぼで、いろいろの人種が住んでいます。その中で、日系アメリカ人の間には非行の子が一番少ないのです。しばらく前までは、日系二世で刑事事件を起こす者は、ほとんどゼロだったのです。やはり、日本人の妻たち母親たちが、しっかり家庭を守ったからではないかと思います。
夫は、社会の外に出て社会全体の必要のために働き、また、家族を支えていく大きな重い責任があります。それは、だれにでもよく分かります。しかし、陰にかくれてだれにもほめられず、勲章などをもらう当てもなく、自由を縛られ犠牲を払うことばかり多い妻の仕事の責任は、どんなに重く大切なものでしょうか。
「しっかりした妻」とは、こんな陰にかくれた犠牲を払う仕事に責任をとり、いいえ、使命を感じ、喜びを覚える妻のことではないでしょうか。そして妻は、最後の責任を夫に預けて生きます。夫は、そんな妻と子に対して、責任をとって生きるのです。しかし夫も、最後の責任は神に預けて生きるのです。
危ういところで半身不随になることを免れ、入院中に、私は誕生日を迎えました。その時の妻からの誕生祝いのカードに、こう書いてありました。「たとえ、あなたが倒れて動けなくなっても、私はあなたに仕えるために生き抜きます。そして、二人で子どものため祈り抜きましょう。後の責任は、神さまがとってくださいますわね。お誕生日、心からおめでとうございます。」うれしい手紙でした。
 
 

◆あなたがたは、

2016年05月03日 08時47分54秒 | 聖書
世にあっては患難があります。(ヨハネ一六・三三)
 
信者よ。あなたはその理由を質問したいのか。仰いであなたの天の父を見、その純潔と神聖を見よ。あなたは自分がいつかそのようになるのを知っているか。あなたは容易に主のみかたちに似るものとされるだろうか。あなたは、きよめられるため、患難の炉の中で十分に鍛えられる必要はないか。あなたの汚れを除き、あなたの天の父が完全であられるように完全なものとされるのは、容易なことだろうか。
次に、主にある友よ。目を下に向けよ。足の下にどのような敵がいるかを知っているか。あなたはかつてサタンのしもべであった。どのような王であろうと、自分の臣下を喜んで手放すことはない。サタンがあなたを見逃すと思うか。否、彼は常にあなたをねらっている。サタンは「ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と記されているではないか。だから、主にある友よ。下に目を向ける時は困難を予期せよ。
また周囲を見回せ。あなたはどこにいるのか。あなたは敵国にあり、旅人であり寄留者である。世はあなたの友ではない。もし世があなたの友ならば、あなたは神の友ではない。なぜなら、世の友は神の敵だからである。至る所で敵に会う覚悟をせよ。眠る時にも戦場にいることを忘れるな。歩く時の生け垣の後ろに伏兵がいることを覚えよ。心せよ。蚊は土地の人よりも旅人のほうをよく刺すと言われるが、そのようにこの地上の試練は、あなたにとってさらに激しいだろう。
最後に、あなた自身の内を見、心の中を調べよ。罪と自我がなおあるのではないか。ああ、たとえあなたを誘惑する悪魔がなく、あなたの戦うべき敵も、陥れる世もないとしても、なおあなたを悩ます罪悪を見いだすであろう。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と記されているとおりである。
それゆえ、困難を予期せよ。しかし、気落ちしてはならない。神は共にいて、あなたを助け、力づけてくださる。「わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう」と言われるのである。
 
 

エズラ書3章8-13節

2016年05月03日 08時46分19秒 | 聖書


3:10 建築師たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。
3:11 そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。



 民の責任者であるゼルバベルと、宗教的な意味での指導者であるヨシュアと、その他の祭司やレビ人達が、神殿の建設のための責任を負って行動を起こしました。

その結果、まず神殿の基礎ができあがりました。

そこで、そのことを感謝して主を賛美する時を持ちました。

彼らはこのことが実現したことに、大きな感激と喜びを持ちました。

ところが、以前あった神殿を知っていた老人達は、逆でした。

昔の神殿の豪華さを思い起こして悲しみ、泣いたのです。

昔の神殿を知らない人々の喜びと、知っていた人々の悲しみが交差する、そうした時となりました。



ヤコブ5:20

2016年05月03日 08時43分12秒 | 聖書


★「 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」

■O:今日のコラム
ヤコブ5章は主の裁きについて書いてあります。
そしてその最後の節が今日の聖書の御言葉です。
罪人を真理へと導くこと、罪人のたましいを死から救い出すことは多くの罪をおおう。とこの箇所では言っています。

(第一ペテロ4:8)
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。 」

第一ペテロでは多くの罪をおおうということは愛であると言っていいます。 多くの罪をおおったもの。神様の愛の象徴とは一体なんでしょうか? それはイエス様の血です。

(イザヤ53:5)
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 」

(ヘブル9:12)
「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。 」

私たちのそむきの罪のために十字架の上で血を流されたイエス様の血潮。この血潮が私たちに罪の赦しを与え、罪人であった私たちののたましいを死から贖い出してくださいました。

(申命記12:23)
「ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。 」

イエス様の血潮はいのちです。神の愛そのものです。
いのちの君である方が死に囚われていた罪人の私たちの身代わりとなり、そのいのちである血を私たちのために流された故に私たちは主の愛がわかったのです。

(第一ヨハネ3:16)
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」


今日、この朝にイエス様の血潮に感謝してイエス様の血潮の注ぎ掛けを受け取りはじめの愛に帰る時間を持っていきましょう。



■A:考えてみよう
主との交わりをいつも持っているだろうか。
神の国とその義とを第一にする生活をしているだろうか。

イエス様の血潮はただ宣言したら良いというものではなく、神様との交わりの中で働くものです。
信仰を持って私たちのすべての領域にイエス様の血潮の贖いを宣言していきましょう。

(第一ヨハネ1:7)
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。 」




■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


5月2日(月)のつぶやき

2016年05月03日 01時41分52秒 | キリスト教

◆彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく……。 goo.gl/Tejgo1


「彼らはことば数が多ければ聞かれると思っています。 goo.gl/0WpHN8