座間コミニティー

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◆ラバンは答えた。

2014年11月14日 17時18分18秒 | 聖書

「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。」(創世二九・二六)

私たちはラバンの不誠実を許すことはできないが、彼が口実のために引き合いに出した慣習からは、ためらうことなく学ぶことができる。ものには順序があり、第二のものを得るには、まず第一のものを手に入れなければならない。第二のもののほうが、私たちの目に麗しく見えるかもしれない。しかし、天国の法則は破棄すべきものではなく、まず年長者が結婚しなければならないのである。
たとえば、多くの人は、信仰による喜びと平安というラケルを慕う。しかし彼らはまず、悔い改めという目の弱いレアと結婚しなければならない。だれでも幸福と恋愛関係を結び、多くの者はそれを自分のものにする。七年の二倍を、喜んで奉仕に当てる。しかし主の王国の規則によれば、真の幸福というラケルを得る前に、真の聖潔というレアが私たちのたましいに愛されなければならない。天国は第一の場所ではなく、第二の場所にある。私たちは、終わりまで耐え忍ぶことにより、そこにある相続地を入手することができる。冠を受ける前に、まず十字架を負わなければならない。へりくだりの主に従わなければ、栄光の主とともに安息を楽しむことは決してできない。
私のたましいよ。おまえは天の規則を破りたいと願うほどに愚かなのか。おまえは労せずに報いを求め、苦しみなしに栄誉を望むのか。怠惰な思いを捨て、イエスのすばらしい愛のゆえに、不快と思われるもので満足せよ。そうすればすべてが償われるであろう。その心をもって労働と苦難を迎えるならば、苦いものが甘く、困難は容易になることを知るであろう。おまえはヤコブのように、長年の奉仕も、イエスへの愛のゆえに、数日のように思えるだろう。待ちこがれた婚姻の時が来たら、おまえのすべての労苦は、あたかも存在しなかったかのようになるであろう。イエスとの一時問は、幾十年もの苦痛と労働を償って余りあることを深く覚えよ。

 


「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。

2014年11月14日 17時17分31秒 | 聖書

これが一日中、私の思いとなっています」(詩篇119:97)

どれだけ御言葉を聞いても、実行する事がなければ、無意味だ。
実行する事が一番大切であり、そのために御言葉がある。
行いの無い信仰は死んでいる。
ただ聞くだけなら、それは自分を欺いている。
しっかり受け止め、実際に実行しよう。
何百の御言葉を聞くより、一つの御言葉を実行する事が大切だ。
実行する事によって祝福される。
実行して初めて、自分が変えられて行く。
それは周囲にも栄光を現して行く。
幸いな人は「主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」とあるが、昼も夜も御言葉を思うこと、反すうする事、これは「意識して」行う事が必要だ。
意識して実行する事だ。それも繰り返し繰り返しだ。
この意識して御言葉を思う事が、訓練であり、これを実行し続ける時、それが身について習慣となる。
逆に言えば、習慣とするためには、意識して御言葉を思うことが大切だ。
最初は失敗するだろう。
思いがすぐにさまよい、脇道にそれ、御言葉を思い続ける事ができない。
しかし、意識してそれを続ける時、その訓練により必ず身について来る。
御心に従う者を御霊が助けて下さる。
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御言葉が価値観となり、御言葉で思考し、日々の物事を判断して行けたらどんなによいだろう。
古い価値観が御言葉に置き替えられるよう、一心に御言葉を見つめて離れないでいよう。


今日の聖人の記念日

2014年11月14日 07時00分31秒 | キリスト教

聖ヨセフ・ピニャテリ

1737年-1811年

 ピニャテリは、スペイン、サラゴサの貴族の家に生まれ、幼いころに両親を亡くし、姉のもとで育てられた。15歳でイエズス会に入り、1762年に司祭となって幼児教育や、慈善事業に携わった。特に、死刑を宣告された人びとを慰め、回心に導くなど「犯罪人の父」と呼ばれた。

 当時、ヨーロッパでは啓蒙主義が盛んであった。それに基づいて社会を改革しようとした国王カルロス3世は、カトリック教会を破壊することを企て、今まで教育などを指導してきたイエズス会を国外追放処分にした。ピニャテリは同僚とともに船に乗り、飢餓、病気などの苦しみに遭いながら、なんとか教皇の領土に着いた。そこでも苦しい生活を強いられたが、ピニャテリは、皆を励まし会員をまとめる人物となっていった。彼は、その間イエズス会の歴史を研究し、収集した文献は3000点にも及んだ。

 しかし、6年後教皇はブルボン王家の権力に屈し、やむなくイエズス会に解散を命じた。その日から25年間ピニャテリは、イエズス会会員を物質的にも精神的にも支え保護した。その後、教皇の許可がおりてイタリアの地にイエズス会が復興すると、彼はイタリアの管区長を勤めた。ナポレオン時代になると、ピニャテリは、ナポリに移ったが、教皇が追放されるとともに彼も同地を追われ、ローマで亡くなった。彼は、イエズス会の復興の父として尊敬されている。


◆き よ い 良 心

2014年11月14日 06時59分20秒 | 聖書

悪者は追う者もないのに逃げる。
しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。(箴言二八1)

国会に引き出された疑惑の証人たちが「さあ、忘れました。記憶にございません」と、のらりくらり答弁する苦渋に満ちた顔を、私たちはテレビで見ました。しかしペテロとヨハネは、七十人議会に引き出されても堂々としていました。悪びれた様子もなく、臆することもありませんでした。無学のガリラヤの漁師にすぎないのに、なぜかとみながあやしみました。そして、ああ、やはりイエス・キリストといっしょにいた人たちだったと言ったと、聖書にあります。
宗教改革者マルティン・ルターも、大勢の告発者の前でウォルムスの会議の真ん中に立ち、「私と私の良心がここに立っています。神よ、助けたまえ。アーメン」と言ったといいます。若獅子のように雄々しい姿です。
良心に責めを持つ人・ゆるされていない、きよめられないままの人はどうでしょう。
第一に、いつも不安で、人の顔を恐れ、神の顔を恐れて逃げまわります。ねたみから弟アベルを殺したカインは事業には成功しましたが、一生恐れに満ちたさすらいの人生を送りました。第二に、けがれた良心からは、人生の力は少しもわいてきません。第三に、けがれた良心のままでは、人生は破船します。罪は、必ず最後に、あなたを見つけ出すのです。
どうしたらきよい良心を持つことができますか。イエス・キリストを銀貨三十枚で敵の手に売り渡したイスカリオテ・ユダは、その金を返そうとしました。受けとってもらえないと知ると、金を捨てました。きよめられずに不安な彼は、首つりして死んだのです。良心のきよめは、どんな努力やささげ物でも買えません。イエス・キリストの血潮の中に、悔いたくだけた心を投げ出すほかに道はありません。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ一7)。

 


◆(わたしは)主に誓いを立てて礼拝しながら、

2014年11月14日 06時58分24秒 | 聖書

ミルコムに誓いを立てる者ども……を断ち滅ぼす。(ゼパニヤ一・五、六)

この種の人々は、二つの道を兼ねているから安全だと思っている。彼らは主に従う者と行動を共にし、また同時にミルコムにも頭を下げている。しかし、神は二心の者をいとい、偽善を憎まれる。偽りの神に傾倒している偶像崇拝者は一つの罪を犯すだけである。しかし、汚れた忌まわしい犠牲を主の宮に携えてきながら、他方では世と世の罪に心を傾けている二心の者は、二つの罪を犯している。だから、彼らよりもさらに罪深いのである。日常生活においても、二心の者は軽蔑される。そして信仰においては、これは極度に嫌悪されるべきものである。
今朝の聖句に宣言されている罰は恐ろしいものであるが、それは当然の報いである。なぜなら、正しいと認めてそれに従うことを公言しながら、他方において悪を愛してそれに心をゆだねている罪人を、神の義が赦すはずがないからである。
私のたましいよ。今朝おまえ自身を探り、おまえが二心の罪を犯しているかどうかを見よ。おまえはイエスに従うことを公言しているが、真に主を愛しているか。おまえの心は、神と正しい関係にあるか。おまえはあの『天路歴程』の中の「正直氏」の家族か。または「二心氏」の家族か。血筋や家系も、もし私が咎と罪に死んでいたならば、何にもならない。片足を真理の地に置き、他の足を偽りの海に置けば、恐ろしい倒壊と破滅の危険を招くことは間違いない。キリストは私たちにとって、すべてか無かのどちらかである。
神は全宇宙を満たしておられる。だから他の神を入れる余地はない。もし神が私の心を支配しておられるなら、他の支配力を入れる余地は全くない。
私は十字架にかかられたイエスのみに憩い、主のためにだけ生きているか。そうしたいと願っているか。そう決意しているか。もしそうであるとすれば、私を救いに導いた力強い恵みはほむべきかな。しかし、もしそうでないなら、主よ、私の悲しむべき罪を赦し、私の心をしてあなたの御名を恐れる者としてください。

 


第1列王記2章10-12節

2014年11月14日 06時57分08秒 | 聖書

2:10 こうして、ダビデは彼の先祖たちとともに眠り、ダビデの町に葬られた。2:11 ダビデがイスラエルの王であった期間は四十年であった。ヘブロンで七年治め、エルサレムで三十三年治めた。



 ダビデは、若くして巨人のゴリアテと戦い、サウル王に命を狙われる身となり、ヨナタンという信頼できる生涯の友を与えられ、自分の息子アブシャロムの死に嘆き、ペリシテ人との戦いに明け暮れしました。

そのダビデの生涯は終わりました。

王としての期間は40年であったと言われています。

彼の生涯は、多くの人々が遭遇するような、いろいろな事件に関わりを持ちました。

しかし、そこには常に1つの筋が通っていました。

それは、いつも神の御心に立とうと努めてきたことです。

罪を犯した時には悔い、苦しい時には神に祈り、また道を探し求めた時には、主の御心に従おうとしました。

それは、神と共にあった人生であったと知ることができます。

そしてそれこそが、人生で一番のことです。

彼が王であったことは、与えられた使命です。

しかし、王であったということよりも、彼が主と共にあったということが、良き人生の証しです。


士師記7章7節

2014年11月14日 06時54分18秒 | 聖書

★ そこで【主】はギデオンに仰せられた。 「手で水をなめた三百人で、 わたしはあなたがたを救い、 ミデヤン人をあなたの手に渡す。 残りの民はみな、 それぞれ自分の家に帰らせよ。 」


■O:今日のコラム
私たちは毎日、意外にも同じような事を繰り返し行っていることに気づいているでしょうか。みなさんも特に平日は朝起きて、家を出るまではほぼ同じような時間に同じような事を行っているのではないでしょうか。このような繰り返しの習慣が私たちを形作っていきます。
今日の聖書の箇所では、ギデオンの軍隊が形成される様が書かれています。13万5千人というおびただしい数の強いミデヤン人を倒したのはどれほどの大勢の軍隊だったかと想像しますが、それはたった300人の軍隊だったのです。普通に考えたら考えられない勝負ですが、主は弱いところに働いてくださいます。
では、この300人はどのような人が選ばれたのでしょうか。ここでは、主が2回に分けて軍隊をふるいにかけている様子がわかります。

(1)恐れおののくもの
今、 民に聞こえるように告げ、 『恐れ、 おののく者はみな帰りなさい。 ギルアデ山から離れなさい』と言え。 」すると、 民のうちから二万二千人が帰って行き、 一万人が残った。(士師記7:3)
主はまず、恐れのある者を軍隊から外されます。黙示録21章8節にはこのように書かれています。
「しかし、 おくびょう者、 不信仰の者、 憎むべき者、 人を殺す者、 不品行の者、 魔術を行う者、 偶像を拝む者、 すべて偽りを言う者どもの受ける分は、 火と硫黄との燃える池の中にある。 これが第二の死である。 」
第二の死に定められる筆頭に来ているのがおくびょう者です。恐れを持ったものです。普通に考えても、恐れおののいている者が戦うことは出来ませんよね。私たちの信仰生活も霊的な戦いです。その戦いにおいて、敵に対して恐れを抱いていたのでは戦うことが出来ません。私たちがみことばにしっかりと立って祈る時、敵のほうが恐れおののいて去って行くことを知る必要があります。
「愛には恐れがありません。 全き愛は恐れを締め出します。 なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。 恐れる者の愛は、 全きものとなっていないのです。」(第一ヨハネ4:18)
イエス様を通して、天の父からの愛を受けて、恐れを締め出し、主の兵士として選ばれるものになりましょう。

(2)水の飲み方
次に主が兵士を選ばれた方法は水の飲み方です。水の飲み方と戦いと、一見関係無いように見えるかもしれませんが、実は大きく関係しています。
戦いの最中は、一瞬の判断が命取りになり、自分だけでなく見方の軍隊に大きな影響を与えてしまいます。そこで試されるのは普段からの訓練の成果です。消防士の皆さんも、普段から何度も何度も訓練を繰り返していることで、どんな危険な状態からも人の命を救うことが出来ます。同じように、戦いの前からよく訓練されたものが実際の戦いで力を発揮できます。
荒野の中、戦いに出向いている中で水を見つけるというのは本当に嬉しい事で、ふと気が緩んでしまう時でしょう。そういう時こそ、普段の行動が出てきてしまいます。主はギデオンに水の飲み方でその習慣を見分けさせたのではないでしょうか。多くの兵士の中で、犬のように舌で水を舐めるもの、また、人を押しのけ我先にと水を飲もうとするものはここで不合格となりました。
私たちは、普段の生活の隅々まで主にご介入して頂いているでしょうか。ふとした時に出てくる口のことば、振る舞いにも塩味が効いているでしょうか。これは、即席につくり上げることが出来ません。常に自分の心を見張って、本当に日々の小さなことに忠実にならなければ形作られないものです。
「力の限り、 見張って、 あなたの心を見守れ。 いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)
また、水とは聖霊様の象徴でもあります。それを直接口で舐めるのではなく、手ですくって飲むとは、聖霊様に対して敬意を持って接しているかどうかということでもあります。
「わたしを信じる者は、 聖書が言っているとおりに、 その人の心の奥底から、 生ける水の川が流れ出るようになる。 」これは、 イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネの福音書7:38-39b)
私たちは、聖霊様をけがすことは赦されていません。
「しかし、 聖霊をけがす者はだれでも、 永遠に赦されず、 とこしえの罪に定められます。 」 (マルコ3:29)
日々の生活の中で、聖霊様に敬意を持って接しているでしょうか。瞬間、瞬間、神様と共に歩んでいるでしょうか。普段の生活の忠実な神への従順を続けていくなら、あなたは神の軍隊として招集されていくでしょう。そして、あなたの前に立ちはだかるおびただしいミデヤン人は、主の方法で打ち倒されていきます。

■A:考えてみよう
あなたは普段の生活で、どれほどの時間神様のことを考えていますか?聖書には次のようにあります。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、 感謝しなさい。 これが、 キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5:16-18)
「いつも」とはどれくらいの頻度でしょうか。ドイツのある医者はこれを研究し、10分ごとに感謝すれば「いつも」に該当するのではないかという研究の成果を発表したそうです。それを普段の生活に適応してみてはどうでしょうか。
私は教会の姉妹に習い、iPhoneのアプリで15分ごとにタイマーが鳴るようにしています。そして、タイマーが鳴るごとに「主よ!感謝します!あなたを褒め称えます!」と短く感謝と賛美を捧げています。それを続ける中で気付かされるのは、普段の生活でどれほど神様を忘れてしまっているかということです。
この方法は聖書に書かれているわけではないので、それぞれが吟味して受け取って欲しいのですが、試してみる価値は充分にあると思います。まずは3日間、何をしていても10分、もしくは15分ごとにタイマーをセットして、主に目を向けてみてください。もし可能であれば、1ヶ月ほど続けてみてください。そうするなら、あなたは意識しなくても主を見上げる習慣がつくのではないかと思います。
私も出来る限りチャレンジしていこうと思っています。共に主を見上げ、神が望まれることに応答していきましょう。


■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


11月13日(木)のつぶやき

2014年11月14日 01時42分03秒 | キリスト教