座間コミニティー

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◆わたしの民は、平和な住まい、

2017年12月09日 16時33分48秒 | 聖書
安全な家、安らかないこいの場に住む。(イザヤ三二・一八)
新生していない者には、平和と安心はない。それは、主の民の特別な所有であり、彼らのみに属するものである。平和の神は、ご自分に心を留めている者に対して、全き平和を与えられる。
人がまだ堕落していなかった時、神は人の安らかな憩いの場として、エデンの園の、花の咲き乱れたあずまやを与えられた。ああ、罪はなんと速やかに、この無心な者たちの美しい住まいを損なったことであろう。洪水が、罪ある人類を一掃して去った大いなる怒りの日に、選ばれた家族は箱舟の中で静かに守られていた。箱舟は彼らを、古い罪の世界から虹と契約の新しい地に運んだ。これは、私たちの救いの箱舟であられるイエスの型である。主が初子を打った時、イスラエル人は血潮を注いだエジプトの住まいにあって、安全であった。また荒野にあっては、雲の柱の陰と水のほとばしり出る岩が、疲れた旅人たちに快い安息を与えた。
今この時にも、私たちは神のみことばが真理と力とに満ちていることを知って、忠実な神の御約束に憩う。主のみことばの教義の中に憩う。それは慰めそのものである。私たちは、主の恵みの契約の中に憩う。それは喜びの港である。私たちは、アドラムのほら穴の中にいるダビデ、とうごまの下にいるヨナよりも、さらにまさる恵みを受けている。何ものも私たちの避け所に侵入したり、それを破壊したりできないからだ。
イエスのご人格は、その民の安らかな憩いの場である。そして私たちがパンを裂くことにより、みことばを聞くことにより、聖書を探ることにより、祈りにより、あるいは賛美により主に近づく時、その方法がどれであっても、結果として、私たちの霊に平安が与えられることを知る。
 私は愛のことばを聞き、血潮を見つめ
 力強い犠牲を見、神との平和を得る
 永遠の平和は主の御名のように確かで
 主の御座のように揺るがず
 とこしえに変わることがない
 

ですから、愚かにならないで、

2017年12月09日 16時32分15秒 | 聖書

「主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」(エペソ5:17

神には私たちへの御心をお持ちだ。それゆえ、求める者に御心を教えて下さる。
人生での重大な決断には、必ず御心を求めるべきだ。
求める時に、まず一番大切なことは、右でも左でも、従いますとの明け渡しだ。

よく自分の心はすでに決まっていて、神からの承諾印が欲しい。
それなら自分を正当化するために御心を持ち出す事になる。
又、人は自分にとって都合の良い事を御心にしてしまうので、まず意志を明け渡す事は重要だ。

そうする時、必ず示して下さる。そして、次に御心を求めるために、自己吟味が必要だ。
時間を聖別し、主の御前に心を開き、御霊の導きに故意に拒否している事、なおざりにしている事、自分の内側をよく照らされて、罪は悔い改めることだ。

自分のしようとする事が、御言葉に反しないか。
周囲の人のつまづきとならないか。
主の栄光が現れるか。心に平安があるか。
又、自分のためによく祈ってくれている人の同意があるか。
御心は一つなので、御心なら周囲の人にも平安があり、一致がある。

不安があるなら、進まずに、まだ時間をかけて祈った方がよい。
神が必ずその不安を取り除き、平安に変えて下さる。
御心だが、神の時がまだ満ちていない事がある。
御言葉が与えられ、祈りにおいて平安があり、環境が開かれており、周囲にも一致があるなら、信仰持って前進すべきだ。
ゴーサインだ。

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愚かにならないで=光に目を閉じずに、避けずに、自分の心の状態を御言葉通して、御霊に照らして頂こう。
主は私に何を望んでおられるのか、人生を、この一日を大切に歩むために、主に喜ばれる選択を、主との交わりにより祈り求めよう。


今日の聖人の記念日

2017年12月09日 08時43分12秒 | キリスト教

聖ペトロ・フリエ司祭

1565年-1640年

 ペトロは、フランス、ロレーヌ地方のミルクールに生まれた。イエズス会の学校で教育を受けた後、1585年にアウグスティヌス修道会の会員となり、4年後に司祭に叙階された。当時、社会はプロテスタントの台頭により混乱の最中にあったため、ペトロはマタンクール村の主任司祭となり信徒たちの司牧にあたった。男子・女子・青少年のための信仰組織の基盤を作るほか、貧しい子どもたちのために無料で教育を受けられる学校の設置などをした。彼の40年間にわたる献身的な地域改革の活動は、多くの人びとから賞された。1623年には女子教育を目的とする「聖母女子修道参事会」を創設し、その精神を受け継いだ学校は現在に至っている。

 ペトロは村の改革に尽力したため、「マタンクールの善き牧者」と呼ばれている。

聖ホアン・ディエゴ・クアウトラトアツィン

1474年-1548年

 聖ホアン・ディエゴはメキシコのクアウティトランに生まれた。インディオ、アステカ族の農夫であった彼は、50歳のとき、洗礼を受けた。

 1531年12月9日、彼が教会へと向かっていたとき、丘の上で聖母マリアが現れた。聖母は「ここに聖堂を建設するよう、司教に伝えてほしい」とディエゴに頼まれた。彼は司教のもとに行き、このことを話した。しかし司教は疑い、「本当にそうなら、天からのしるしをもらうように」と伝えた。

 そのころ、ディエゴの叔父であるベルナルディーノが重い病にかかった。彼は、司祭を呼ぼうと、急いで教会に向かった。しかし、丘の近くに来たとき、聖母が現れた。聖母は、叔父の病はいやされると告げ、また丘に登って、花を摘み、司教のところに持って行くように言われた。冬の最中だというのに、丘にはたくさんのバラが咲いており、ディエゴはマントに包んで、司教のところに持って行った。

 ディエゴが司教の目の前でマントを開くと、かぐわしい香りとともに、たくさんのバラの花が落ち、マントの表面にはディエゴが見た聖母の姿が描かれていた。奇跡を目の当たりにした司教は、マントの前にひざまずき、信じた。そして、叔父ベルナルディーノの病もいやされた。

 聖母が出現した丘には大聖堂が建てられ、聖母は「グアダルペの聖母」として親しまれるようになった。その後、ディエゴは大聖堂の近くに住み、巡礼者たちに聖母出現のことを語り伝え、1548年、74歳のときに亡くなった。

 ディエゴは、2002年、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。典礼暦のなかでは、12月12日に「グアダルペの聖母」を記念している。


◆預けられたサイン入り小切手帳

2017年12月09日 08時40分15秒 | 聖書

神のことばは、すべて純粋。
神は拠り頼む者の盾。       (箴言三〇5)
人のことばには、偽りもあれば、間違いや思い違いもあります。クロロホルムの発見者ジェームズ・シンプソン博士といえば、当時、世界中の学者から尊敬と信頼を集めた学者でした。彼の甥のエジンバラ大学教授シンプソンのところへ、エジンバラ大学図書館から、「あなたの伯父さまの本を点検して、今では不要になったものを別に整理したいのですが、ご指導ください」との連絡がありました。甥のシンプソンは、よく調べた上で、こう言ったといいます。「十年以上たったものは、みんな抜き出して地下室へ移してください。」人のことばは、最も正確を期したことばであっても、十年たつと古びて当てにならなくなるのです。
ところが、聖書は違います。何千年も昔の古い書物なのに、一字一句ゆるがせにされず、古文書として扱われてはいません。神の誤りのない生きたことばとして、今も何千万何十億の人々の生活を生かし、力づけ、正し、導いているのです。驚くほかありません。イザヤ書はこう言います。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(四〇8)。イエス・キリストご自身は、こう言われました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マタイ二四35)。
この私も、魂の苦悩やいろいろの悩みを通って、ある日、青天のへきれきのように、聖書のことばは「炉で七回もためされて、純化された銀よりも尊い、神の混じりけのない、きよい愛のことばだ」(詩篇一二6参照)と分かるようになりました。聖書は、私の魂を穴から救い出し、滅びから生かし、暗やみから光へ引き出し、私の偽善を両刃の剣のように鋭く映し出す、神のことばだったのです。それ以来聖書を、人生の教えの書どころではなく、神からそのまま預けられたサイン入りの小切手帳のように感じています。
 

◆それゆえ、

2017年12月09日 08時38分54秒 | 聖書
主はあなたがたに恵もうと待っておられ……。(イザヤ三〇・一八)
神はしばしば祈りに対する答えを延期される。聖書にはこの実例が幾つかある。ヤコブは、夜明けまで天使から祝福を得られなかった。彼はそのために夜を徹して格闘しなければならなかった。スロ・フェニキヤの貧しい女は、初めのうちは、一言の答えも得られなかった。パウロは「肉体のとげ」が取り去られるように三度も主に祈ったが、取り去られる保証は与えられず、その代わりに、「わたしの恵みは、あなたに対して十分である」との約束が与えられた。
恵みの門をたたき続けても、何の答えも得られないことがある。なぜ力強い創造主が戸を開いてあなたを中に入れてくださらないのか。父なる神は、このように私たちを待たせられる特別の理由をもたれる。
その一つは、神の力と主権を示すため、すなわち、主は与え、主は取られる権利をもつことを人々に知らせるためである。多くの場合、遅延は私たちにとって益となる。神は、遅延があなたの願望をさらに強いものとすることをよく知っておられる。私たちはこれにより、自分の必要をもう一度明確に自覚し、さらに熱心に求めるようになり、恵みの尊さをいっそう身にしみて感じるようになるのである。
別の理由としては、あなたのうちに何か悪いものがあって、主の喜びを与えられる前にそれが取り去られる必要のあることが考えられる。あるいは、神の福音のご計画についてのあなたの考えが混乱しているためかもしれない。あるいはあなたが、単純かつ全面的に主イエスにより頼むことをしないで、ある程度自分自身に頼っているためかもしれない。そのほか、神は最後にご自分の恵みの富をさらにあなたに示すため、その答えをしばらく猶予しておられるのかもしれない。
しかしあなたの祈りは、天においてことごとく記録されていて、絶対に忘れ去られることはない。ただちに答えられないにしても、やがては必ず答えられて、喜びと満足をもたらすであろう。失望して沈黙することなく、熱心な嘆願を執拗に継続しようではないか。
 

詩篇79篇9-13節

2017年12月09日 08時34分32秒 | 聖書


79:9 私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。


作者は、主のことを「私たちの救いの神よ」と呼びかけています。

主こそが自分たちを救い、助けることが出来るお方であることを知っていたからです。

 彼は、今受けている苦しみが皆、自分たちの罪に寄ること、また主の御心に逆らって歩んできた、その歩みに寄っていることをよく知っていました。

ですから、その罪を赦してくださいと祈っているのです。

そして、その赦しと共に、自分たちを助けて下さいと願っているのです。

この願いを申し上げるのは、主の前に助けを求めることが出来る資格が、自分たちには何もないと思ったからでした。

ただ助けを主に求める理由は、それは主が自分たちをご自分の民としてお選びくださった、その憐れみと恵みの故に、今罪を悔いる私たちを赦し、その苦しみから解放をしてくださいと祈っているのです。

主の憐れみしか、自分たちが立つ事が出来る所はないからです。


ヨハネの福音書2章4~7節

2017年12月09日 08時31分59秒 | 聖書


★すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。


■O:今日のコラム
イスラエルに与えられた最も大切な戒めは、「シャマ」と言われる旧約の第一の戒めです。それは、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただ一人である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という申命記の御言葉です。神を愛することは、聞き従うことであり、それは聞くことから始まります。

ベタニヤのマリヤも「どうしても必要なことはただ一つです」とイエス様が言われる「主の足元で御言葉を聞き入る」ことを選び取り褒められました。

私たちの聞く耳が祝福されますように。持っている者はさらに与えられ、持たない者は持っているものまでも取り上げられるのは、聞く耳を指しています。

聞く耳とは、自分のために知識を蓄えるための耳ではありません。聞く耳とは、神のために聞き従って、神をもっと愛したいと願う耳なのです。

そのためには、心の割礼、耳の割礼が必要です。つまり悔い改めることです。自分の欲望のために生きることに死に、神のために生きることを喜ぶ者に生まれ変わる、神の恵みと力を体験していくことは重要です。

このヨハネの福音書2章4~7節のやりとりは、聞く耳のことをよく表している箇所だと思います。母マリヤはイエス様に期待し、ぶどう酒がないことを伝えました。しかしイエス様は「まだ私の時ではないのです」とおっしゃいました。つまり断ったのです。母マリヤは食い下がります。イエス様が言われるなら何でもする、という心構えを持っていたのです。その2節後には「イエスは彼らに言われた」と御言葉をお与えになりました。「4節で断ったのは何だったの!?」と思うかもしれません。

一つ言えることは、主は従おうという心構えを持つ者に語らずにいられないということです。



■A:考えてみよう
勉強のためではなく、聞き従って主をもっと愛するために、祈り、御言葉を朗読しよう。


■P:祈り
主よ。あなたをもっと知り、あなたをもっと愛するために知恵と啓示の御霊を注いでください。そして私の聞く耳を開いてください。あなたの口の言葉に聞き従い、あなたを愛します。何をして欲しいですか?何を願っておられますか?

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。