座間コミニティー

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◆胸に金の帯を締めた……。

2017年12月06日 16時20分53秒 | 聖書
(黙示録一・一三)
パトモスにおいて「人の子のような方」がヨハネに現れた。主に愛された弟子は、主が金の帯を締めておられるのを見た。帯――イエスはこの地上におられた時、決して帯を解かれず、常に奉仕のために備えておられた。今も永遠の御座の前にあって、その聖い務めをやめず、祭司として「エポデのあや織りの帯」を締めておられる。主が私たちのために、その愛の務めをやめられないのは、私たちにとってよいことである。なぜなら、主がいつも生きて私たちのためにとりなされるのは、私たちの最も心強い安全の保証だからである。
イエスは、決して務めが終わったというふうに帯を解かれることなく、勤勉にその民のために働かれる。金の帯は主の奉仕の卓越、人格の高貴、地位の尊厳、報いの栄光を現す。主はもはや、ちりの中から叫ばれるのではなく、王として、また祭司としての権威をもって嘆願される。私たちは王座に着かれたメルキゼデクの御手の中にあって、この上なく安全なのである。
主は、そのすべての民に模範を示された。私たちは、決して自分の帯を解いてはならない。今は、横になってくつろぐ時ではなく、奉仕と戦いの時である。真理の帯をさらに堅く腰に結ばなければならない。それは金の帯である。だから、私たちの最も立派な装飾である。そして私たちは、非常にそれを必要としている。なぜなら、イエスのようにしっかりと真理をもって引き締められていない心、聖霊によってもたらされる忠実をもたない心は、たやすくこの世のものに足をすくわれ、誘惑のわなにかかるからである。
私たちは聖書を持っていても、それを帯のように巻きつけて、自分の全性質を包み、品性の秩序を保ち、全身全霊を引き締めていなければ、無益である。天国においてイエスが帯を解かれないとすれば、まして地上にいる私たちは当然そのようにすべきである。それゆえ、腰に真理の帯を締めて立て。
 

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。

2017年12月06日 16時19分49秒 | 聖書

あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。
神は、われらの避け所である」(詩編62:8)

ある人が、対人関係で、悪意ある批判を受け、非常に傷つき、腹が立った。
怒りが湧いて来る。思いが行き交う。気にするな、気にするな、と言う自分がいる。

まあ神様ご存じだし、いいや、と思う。一方、こんな理不尽な事があっていいのか。
面と向かって、一言言わないと絶対に気がすまない。
一言ガツンと言うべきだと言う自分がいる。

どれがどうなのか、どうして良いかわからない。
心は何だか苦しく、悶々状態で帰宅し、祈ろうと御前に静まった。
そして、自分の気持ちをあるがまま、主に告げた。
心の内を打ち広げ、主に従いたいと、祈っていた。
すると、ふっと心の中に「悪をもって悪に報いず」との御言葉が浮かんで来る。

「侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。
あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」。
聖書を読もうと開くと「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであってのろってはいけません」
「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず・・すべての人と平和を保ちなさい」
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」

本当にその通りだと思う。次々と語りかけられ、臨んで来る御言葉によって、あんなにいきりたっていた心が、不思議だが、穏やかにされた。
何度も何度も御言葉を反すうしていると、すっかり平安になってしまった。
自分の至らなさも反省でき、このように学べた事を感謝できた。
あなたの、その悶々をそのまま、主の御前に注ぎ出そう。

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自分で自分の気持ちを何とかしようとせず、まず、主にありのままを告げよう。
感情の嵐を自分でおさめるのでなく、主が「黙れ、静まれ」と言って下さる時、なぎになる。
御言葉を心深く受け入れる時、奇跡が起きる。まず主に思いと感情を持って行こう。



今日の聖人の記念日

2017年12月06日 06時21分42秒 | キリスト教

聖ニコラオ司教

270年-343年

 ニコラオは、有名な「サンタ・クロース」の名で知られる聖人である。
 小アジアのパタラの財産家の家庭に生まれ、信仰深い両親に育てられて、知恵にも行ないにも優れた人になった。両親が亡くなって、莫大な遺産を相続したが、優しいニコラオはそれを貧しい人びとのために使おうと決心した。

 司祭になったニコラオは、エーゲ海に面したミーラで宣教した。ミーラの町の飢饉を何度も救い、また信仰の面でも優れた保護者であった。貧しい靴職人のため娘3人の結婚を援助するなど、人びとを愛し、困っている人を見るとすぐ助けた彼は、人びとに推されて司教になった。
 ローマ皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害時代には信徒たちとともに投獄されたが、313年、コンスタンティヌス大帝が信教の自由の勅令を発布したことによって、ニコラオらは釈放された。そして教会の復興にとりかかり、また325年にはニケア公会議に出席し、アリウス派の異端と戦うなど亡くなるまで、教会と人びとのために生涯をささげた。

 彼の遺体はミラノ大聖堂に葬られ、そこは巡礼の中心地となった。1087年、東ローマ帝国に侵入したイスラムの破壊から守るため、遺体はイタリアのバリ市に移され大聖堂が建てられた。

 12世紀から、ヨーロッパ、とくにスイス、フランス、ドイツ、オランダでは聖ニコラオの祝日である12月6日が子どものための祝日となった。かつてニコラオが助けた3人の娘の話がもとになって、聖人の祝日の前夜、子どもにそっとプレゼントをする習慣が始まったのである。

 宗教改革のころから、プロテスタントの地域では、司教服の色である赤色の頭巾と服をつけたおじいさんが贈り物を入れた袋を背負うという形に変え、クリスマスと結びつけた。名前もオランダ語なまりで、「サンタ・クロース」と呼んだ。

 酒屋、無実の罪に苦しむ人の保護者である。


◆指導者の謙遜

2017年12月06日 06時20分28秒 | 聖書

人の高ぶりはその人を低くし、
心の低い人は誉れをつかむ。    (箴言二九23)
箴言二九章は、上に立つ人・支配者・治める人について中心的に教えている箇所です。その観点からきょうのことばも考えてみると、よく分かります。今までに会った、ほんとうの指導者は、みな謙遜だったように思います。
そうです。人の上に立つ人は、謙遜でなければなりません。「出るくいは打たれる」で、自分を鼻にかけすぎると、必ずたたかれ、痛い目に会います。私たちは、自分を鼻にかける人をきらいます。最後までは従おうとしません。しかし、それだから謙遜にしていることが必要だというわけではありません。
似て非なる謙遜も、いろいろあります。コマーシャル的な腰の低さとか、いんぎん無礼とかがあふれる中で、あなたをほんとうに高くし、誉れある者とし、指導者とする真の謙遜さとは、どんなものでしょうか。
第一に、自分自身を知りきっているゆえの謙遜です。自分がどんなに弱く自分勝手な罪深い者であるかを神の前にはっきりと知っています。そんな自分をも愛しゆるし救ってくださる神の恵みを知った人は、人を理解し、愛するのです。これこそ、上に立つ人の不可欠の資格ではないでしょうか。
第二に、自分の能力・地位・成功のすべては、神が与えてくださったものであり、何一つ自分のものはなく、自分がやったと誇るものがないことを悟りきっています。頭がいい。――神の賜物です。めぐり合わせがいい。――神の配剤です。家柄も健康も容貌も土地財産も、何一つ、自分のかせぎ出した自分のものといえるものはありません。神が与え、神が人の上に立つ者として、人と仕事を管理するように任せてくださったと思う時、へりくだって恐れおののくのです。
水が低いほうに流れるように、神の恵みと誉れは謙遜な人に流れこみます。
 

◆天からの者はみな、

2017年12月06日 06時19分39秒 | 聖書
この天から出た者に似ているのです。(Ⅰコリント一五・四八)
頭と器官は同じ性質のものであって、ネブカデネザルが夢の中で見た大きな像のようなものではない。彼の見た像の頭は純金であったが、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土であった。キリストの霊妙なからだは、このように相いれないものの奇妙な結合ではない。器官は死すべきものであった。それゆえ、イエスは死なれた。栄光のかしらは不滅である。したがって、からだも不滅なのである。なぜなら、「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」と記されているからである。私たちの愛するかしらとからだ、また器官の各部分は同じ性質をもつ。かしらが選ばれているなら器官も受け入れられ、かしらが生きているならば器官も生きているのである。もしかしらが純金であれば、からだのすべての部分も純金である。このように、同一の性質が、たぐいない密接な交わりの基礎となっているのである。
敬虔な読者よ。しばしここにとどまって思え。惨めなあなたを、御子の栄光との幸いな結合にまで高められた主のへりくだりを思う時、どうして喜びと驚きとを覚えずにおられよう。あなたが、自分のもつ卑しさと死すべき性質を思うならば、朽ちるものに向かって、「おまえは私の父だ」と言い、虫に向かって、「おまえは私の妹だ」と言わざるを得ないかもしれない。しかしキリストにあるなら、あなたは尊ばれ、全能の神に向かって、「アバ、父」と言うことができ、受肉された神に向かって、「あなたは私の兄弟であり、私の夫です」と言うことができる。
もし、由緒ある高貴な家系と関係のあることが、人々を何か偉い者のように思わせるとすれば、私たちは、それらのすべてにまさって誇りを感じるべきではないか。最もさげすまれる信者もこの特権に頼るがよい。怠惰によって、自分の光栄ある系図をたどることをなおざりにしてはならない。愚かにも現在のむなしさに引かれて、キリストに結合されているという栄光の誉れを忘れてはならない。
 

詩篇79篇1-4節

2017年12月06日 06時17分50秒 | 聖書


79:2 彼らは、あなたのしもべたちのしかばねを空の鳥のえじきとし、あなたの聖徒たちの肉を野の獣に与え、
79:3 聖徒たちの血を、エルサレムの回りに、水のように注ぎ出しました。彼らを葬る者もいません。


神の民と言われたイスラエルの民が、異国の人々の侵入にあって苦しめられ、多くの人々がその敵によって殺害されました。

しかもその死は、残忍な方法によってもたらされました。

その死体の肉は野の獣に投げられ、その血は神殿の周りにまき散らされました。

真に神殿が、侮辱される行為によって、卑しめられたのです。

なぜこのように神の都が卑しめられ、神の民と言われた人々が侮辱を受けたのでしょうか。

それは、異国の民に力があったからではありません。

主の民自身が真の神であられる主を侮り、偶像礼拝に溺れ、主の御心をないがしろにする歩みを日常的に繰り返したからです。

その悔い改めることがない姿勢と思いに対して、主が怒りをもたれて、彼らに裁きのみ手を延べられたのです。

異邦人の敵対行為は、主のその認可に寄ったのです。



ダニエル書12章9~10節

2017年12月06日 06時13分15秒 | 聖書


★彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。


■O:今日のコラム
思慮深く悟らなければならない、今が終わりの時です。この箇所で「思慮深い人々は悟る。」とありますが、思慮深いとはどのような人なのでしょうか?

「夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。」(箴言10:5)

なぜ、夏のうちに集める者が思慮深いのでしょうか?それは、集められない冬が来ることを知っているからです。でも、知るだけではもちろん不十分です。知っているなら、備え行動をしなければ意味がありません。

それと同じように、終わりの時と知っているなら、私たちは実際の行動が変わらなければなりません。「身を清め、白くし、こうして練られる。」とあるように、知っているなら行わなければ何の意味もありません。

私たちは今、主が戻って来られても良い準備をしているでしょうか?

知っていても、出来ない性質が私にはあります。学生の時も、勉強しなければ良い高校に入れないと分かっていても、周りから「勉強しなさい」と言われても、勉強しないのは私です。そして、受験前に悟ります。本当に勉強すれば良かったと。そして、自分の蒔いた種を刈り取りました。

「あの時こうしてれば良かった。。」こんな風に後悔したことが、誰でもあると思います。でも、後悔してもしても、決して取り返しのつかない永遠の後悔が存在します。その刈り取りは耐えられるものではないでしょう。

「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。」(ルカ13:24-25)

私たちの内に、知っていても出来ない性質、妥協から抜け出すにはどうしたら良いのでしょうか?キャンプでしょうか?セミナーでしょうか?それらはきっかけにはなると思います。でも継続するためには、自分の決断しかありません。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

この「心の一新」が私たちに毎日与えられますように。一日で変わる人なんていません。だから毎日自分が決断したことを、聖霊様に助けてもらう必要があります。

今が終わりの時と知っているなら、思慮深く悟り、「身を清め、白くし、こうして練られる」実際の行いをもって従っていきましょう!



■A:考えてみよう
・24時間私たちは誰に従い、何をしているだろうか?
・主の御心を知っていながら、従えていないことはあるだろうか?
・決断しなければならないことはあるだろうか?



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月5日(火)のつぶやき

2017年12月06日 02時36分31秒 | 仏教