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◆イスラエルの全家は鉄面皮で、

2017年04月28日 15時31分24秒 | 聖書
心がかたくなだからだ。(エゼキエル三・七)
これに例外はないのか。ないのである。一人もない。神の御愛を豊かに受けた民族についてさえ、このように書いてある。最善の民族がそのように悪いとすれば、最悪の者はどのようであろう。私の心よ。この普遍的非難にどれだけ思い当たるかを考えよ。そして、おまえに罪のある点において、その恥を負う覚悟をせよ。
まず第一の非難は鉄面皮である。すなわち、無神経で、恥知らずで、悪に対してずうずうしくなっている。私は回心以前には、罪を犯しても良心の責めを感じず、自分の罪を人から指摘されても、なお高慢であった。そして罪の告白をしても、そのために屈辱を感じることがなかった。罪人が神の家に行って祈り、賛美をすることを装うのは、最も悪質な鉄面皮を示すものである。生まれ変わった後にも、神の面前で神を疑い、つぶやき、だらしない態度で礼拝し、罪を犯しても嘆き悲しむことがなかった。もし厚顔無恥でなかったら、私はもっと聖い恐れをもち、さらに深い悔い改めの念を抱いたはずである。ああ、なんということか。私はイスラエルの家の一人のように鉄面皮なのである。
第二の非難はかたくなである。この点においても、私はあえて無罪を主張してはならない。かつて私は、石のような心のほか何ももっていなかった。そして恵みによって、私は今柔らかな心をもっているが、以前のかたくなさがまだたぶんに残っている。イエスの死によって当然受けなければならない影響をまだ受けておらず、友の滅亡や、現代の邪悪、また天の父の懲らしめ、私自身の失敗によって当然心を動かさなければならないのに、まだ動かされていない。おお、もう一度救い主のお苦しみと死を思い起こすことにより、私の心が柔らかくされるように。ああ、神様。このうちなる石臼、この憎むべき死のからだを取り去ることができるなら……。主の御名はほむべきかな。この病は不治ではない。救い主の尊いご宝血はすべてにわたって有効である。そして、私のような者すら柔らかくされ、私の心は炎の前のろうのように溶けるであろう。
 

今日の聖人の記念日

2017年04月28日 09時24分58秒 | キリスト教

聖ルイ・マリー・グリニヨン・ド・モンフォール司祭

1673年-1716年

 グリニヨン・ド・モンフォールは、フランス北西部の町で生まれた。敬虔で徳の高い両親に育てられ、イエズス会の学校で学んだ。哲学終了後、パリのサン・スルピス神学校に進み、司祭になった。厳格なヤンセニストに対して、人生の目的や信仰生活を人々に説いた。また聖母に熱心に祈っていた。

 グリニヨンは、『聖母に対する真の信心』『聖母の秘密』などの本を書き、聖母への祈りを広めた。

 1703年に、病人・貧しい人を世話する「英知修道会」を、翌年にはパリに「マリア宣教会」を創立した。

聖ペトロ(シャネル)司祭殉教者

1803年-1841年

 ペトロは、フランスに生まれた。早くから宣教師になることを志し、27歳のときに司祭となった。その後「マリスト会」に入会し、宣教師として大洋州に派遣される。その島は古い迷信の風習があり宣教がとても難しかったが、現地の人に溶け込み、島の王子に洗礼を授けた。しかし、そのことで王の怒りをかい捕えられ、37歳の若さで殺害された。


◆他人をうるおす人生

2017年04月28日 09時24分00秒 | 聖書

おおらかな人は肥え、
人を潤す者は自分も潤される。   (箴言一一25)
現代人が見失っているものは、この「おおらかさ」ではないでしょうか。来客があっても、十分な時間をとって話を聞いてあげられません。また、ゆっくりと人を訪ねるゆとりもない状態です。みな時計のまわりにはめこまれたようにスケジュール第一で、仕事や時間にがんじがらめになっています。私自身、耳が痛いのですが、私たちはおおらかさを失ってしまったのではないでしょうか。
昔の人は、たゆたわず、たゆみなく流れる川を見て感嘆しました。川は、こだわりなく流れて、他をうるおします。昼夜を分かたないおおらかさです。
私たちの人生は、いつもうるおしてやまない川のようでありたいものです。おおらかで、よく働き、文句を言わず、こせこせせず、他人から信頼され、他人をうるおして恩に着せず、自らも豊かに生活しています。人々のまさつも解消し、あの人と話していると心がなごむというようなおおらかさ、それはどこから来るのでしょう。その人生は、すべての豊かな祝福の源である神につながっているのではないでしょうか。ダビデは神に向かって、「いのちの泉はあなたにある」(詩篇三六9)と言いました。
また、神につながるばかりではなく、この自分というものを終点にしません。自分のところで、せきやダムをつくって神の祝福をストップさせない生き方ではないでしょうか。
イエス・キリストは言われました。「私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(七38)。
 

◆どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。

2017年04月28日 09時23分13秒 | 聖書
あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。(詩篇一一九・四九)
あなたがどのような特別な要求をもとうと、それにふさわしい約束は容易に聖書の中から見いだせる。道が険しいために気力を失い、弱さを覚えているか。ここにあなたへの御約束がある。「疲れた者には力を与え……。」それを携えて、約束を告げた偉大な方のもとへ行き、御約束の実行を求めよ。
キリストを求め、さらに密接な交わりを渇き求めるか。あなたの上に星のように次の御約束が輝いている。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」この御約束を幾度でも御座に携えて行け。根気よく神のみもとに行き、「あなたのしもべへのみことばを思い出してください」と告げよ。
罪のため、不法の重荷のために苦しむか。それなら、次のみことばに耳を傾けよ。「わたし、このわたしは……あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」あなたには罪の赦しを求めるだけの功績は何もないが、書き記された神の御約束に基づいて嘆願せよ。そうすれば神は実行されるだろう。
あなたは初め自分を神の子と思っていたのに、いつか捨てられてしまうのではないかと恐れるか。それなら、次の恵みのみことばをもち、御座に行け。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」
救い主の臨在の実感を失い、悲しみの心を抱いて主を探しているなら、次の御約束を思い出せ。「わたしに帰れ。……そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。」「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。」
神のみことばであなたの信仰を満たせ。あなたの恐怖と欠乏がどれほど大きくても、あなたの父なる神の約束手形を携えて信仰の銀行へ行き、こう言え。「どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。」
 

詩篇35篇7-10節

2017年04月28日 09時21分54秒 | 聖書


35:10 私のすべての骨は言いましょう。「主よ。だれか、あなたのような方があるでしょうか。悩む者を、彼よりも強い者から救い出す方。そうです。悩む者、貧しい者を、奪い取る者から。



ダビデは、心に弱さを感じていました。

戦いがいつまで続くのかわからない時、また逃げ回らなければならない時、彼は悩みました。

また、追い迫る者から逃げる時には、貧しさに襲われました。

食べるものに窮することがあり、助けを求めて人の所にいったこともありました。

しかし、そうした悩みと貧しさを通して彼が深く知ったことは、主がすべてのことを通して、自分を助けて下さったということです。

苦しみと悩みから救い、また貧しさにあった時、その乏しさから解放して下さったのは、主であられたということでした。

彼はそのことを、身をもって体験しました。

ですから、「私のすべての骨は言いましょう」と語って、自分のすべてをあげて、心の底から語るというのです。

それは、主に頼る者に助けと憐れみを注いで下さる方は、この方以外におられないと。



列王記 第一 13章26節(列王記 第一 14章)

2017年04月28日 09時19分37秒 | 聖書


★その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、 それを聞いて言った。 「それは、 【主】のことばにそむいた神の人だ。 【主】が彼に告げたことばどおりに、 【主】が彼を獅子に渡し、 獅子が彼を裂いて殺したのだ。 」


■O:今日のコラム
サウル、ダビデ、ソロモンと、イスラエルを統一した王朝は3代で終わりを告げ、ソロモンのがもたらした偶像礼拝の罪により、イスラエルは北と南に分裂してしまいます。北イスラエルの初代王となったヤロブアムは、人々の心を神に向けるのではなく、自分に引きつけるため、律法に背き、勝手に祭壇を作り、人々の中から勝手に祭司を選び、礼拝させました。
いつの時代でも、このような罪に対して、主は黙っておられません。王に対して道を正すようにその時代、その時代に預言者を遣わし、神の言葉を告げ知らせます。ところが残念ながら、多くの場合、その預言者の言葉は王に受け入れられません。
今日の聖書の箇所も同じような事が見られます。預言者である神の人がやってきて、ヤロブアムの悪事に対して、神からのメッセージを伝えます。神の人は人に対してではなく、祭壇に向かって預言します。(2節)
それを聞いたヤロブアムは祭壇から手を伸ばして、「神の人を捕らえよ」と命令します。すると、その伸ばした手が萎れてしまいます。(4節)焦ったヤロブアムは神の人にしなびた手を元に戻すように祈ってもらい、見事に癒やされます。(6節)
今まで迫害しようとしていた神の人が自分を癒やし、その力に圧倒されたのか、今度はヤロブアムは神の人を食事に誘います。(7節)しかし、神の人は次のような神からの命令を守ります。

「すると、 神の人は王に言った。 「たとい、 あなたの家の半分を私に下さっても、 あなたといっしょにまいりません。 また、 この所ではパンを食べず、 水も飲みません。【主】の命令によって、 『パンを食べてはならない。 水も飲んではならない。 また、 もと来た道を通って帰ってはならない』と命じられているからです。 」(8、9節)

なんだかこういうの、ちょっとかっこいいですよね。ピンチの人を助けて「礼はいらないぜ!」と言って去っていくヒーローのようです。
この光景を見ていた、ベテルに住む別の年寄りの預言者の息子が父に報告します。「お父さん、神の人がやってきてさ、祭壇に向かって預言したらヤロブアムがキレてその人を捕らえろって言うんだ。そしたら、ヤロブアムの手はしなびたんだ。でも、神の人が祈ったら手が瞬間的に癒され、もとに戻ったんだ。かっこよかったー!」(ここは私の想像です)(10節)
報告を受けたベテルの老預言者は神の人に会いたくてたまらなくなり、神の人に出会いに行きます。(11-12節)
そして、神の人にうちに来てくれと頼むと、上の8、9節と同じ言葉をもって断ります。しかし、ベテルの老預言者は「御使いが私に語った」と嘘を言って神の人を家に招きます。
その食事の席で一緒にパンを食べ、水を飲んでいる時に老預言者に神の言葉が臨みます。

「 彼らが食卓についていたとき、 その人を連れ戻した預言者に、 【主】のことばがあったので、 彼はユダから来た神の人に叫んで言った。 「【主】はこう仰せられる。 『あなたは【主】のことばにそむき、 あなたの神、 【主】が命じられた命令を守らず、 主があなたに、 パンを食べてはならない、 水も飲んではならない、 と命じられた場所に引き返して、 そこであなたはパンを食べ、 水を飲んだので、 あなたのなきがらは、 あなたの先祖の墓には、 入らない。 』」

そして、神の人は帰り道に獅子に出会い、裂かれて殺されてしまいます。

いや、いや、いや、いや、ツッコミどころ満載です。ベテルの老預言者は神の人をだまして引き返させました。水も与えました。パンも与えました。なのに、客に向かって「あなたは神の声に背いた」と。
これを読んで、私は「いや、そうさせたのはベテルの老預言者ではないか。裁かれるべきはベテルの老預言者ではないか」と思わされました。みなさんはどう思うでしょうか。ここから何を学べるでしょうか。できたら、ご自分で列王記 第一の13章全体を読んで、少し考えてみて下さい。



■A:考えてみよう
私はここから、幾つかのことを学びました。その一つは召しを最後まで全うするということです。
信号を渡る時、特に歩行者用の信号は点滅をします。横断歩道に差し掛かっていたら、途中で赤信号になってしまい、焦って走ります。しかし、不思議と多くの人があと少しで向かいの歩道に入るというところで歩きはじめてしまう光景をよく目にします。
私たちはゴールを目の前にすると、気が緩んでしまうという傾向があると思います。
以前、学校でかけっこのときは、「ゴールのテープで立ち止まるのではなく、その10m向こうがゴールだと思って走り抜けろ」と先生に教えられ、実際にそのようにするとタイムが上がりました。
「イエス様が間もなく戻ってこられる」という期待感が高まるに連れ、「もうイエス様が戻ってこられるからいいか」と言って信仰の歩みを緩めてしまうのではなく、むしろここから加速する勢いで信仰のレースを走り抜いていきたいと思います。

もう一つ学んだことは、何かを成し遂げた後が危険だということです。
神の人は祭壇に預言し、ヤロブアムの手を癒やした時に、もしかしたら「自分は成し遂げた」と思い、そこから主に感謝を捧げることをしなかったのかも知れません。全ては主がしてくださったことなのに、それをあたかも自分がしてしまったと勘違いしていたのかもしれません。
王から誘われたときはうまく断れた神の人も、同労者であるベテルの老預言者から「御使いが語ったから」と言われたときには、その誘いに乗ってしまいました。私は、もしかしたら、先に偉大な御業を行っていなかったら、この誘いも断れたのではないかと思いました。
ヤコブの手紙1章13~15節にはこのように書かれています。

「だれでも誘惑に会ったとき、 神によって誘惑された、 と言ってはいけません。 神は悪に誘惑されることのない方であり、 ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、 おびき寄せられて、 誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、 罪が熟すると死を生みます。」

自分の中に「欲」があると、それによって誘惑され、罪を生み、それが死に至るのです。
神の人も、もしかしたら何かしらの「欲」があったのかもしれません。
イエス様はご自分を無にされ、実に死にまでも従われたお方です。そこにご自分の「欲」はありませんでした。それであれば、キリストに従う私たちも自分の「欲」を捨てて、すなわち自分に死に、自分の十字架を背負ってイエス様について以降ではありませんか。これこそ、キリストの弟子としての歩みです。

昨今、アジア諸国の緊張状態が続き、マタイの24章にかかれている「戦争のうわさ」をよく耳にします。しかし、私たちはうわさに流されないようにもしながら、自分のいのち、特に永遠のいのちに関して考えておく必要もあります。
もし、今日、ミサイルが飛んできたらどうするでしょうか。私たちの命は今日取られるかもしれませんし、あるいは何年も地上に残されるかもしれません。それは神様のご計画なので私たちにはわかりません。
しかし、今日でも、また何年先になっても、いつでもイエス様の御前に立つことができるよう、自分自身の信仰を建てあげて行くことは大切なことだと思います。
主とお会いした時に問われるのは地上での神様との関係です。どれだけ神様とともに歩んだかを問われます。今日という日に主を求めて祈り、みことばを朗読し、賛美し、主を礼拝していきましょう。



■P:祈り
愛する天のお父さん、今日、私が存在し、この場所に生かされているという大きな恵みを心から感謝します。今まで私は自分の力で生きていると思っていました。しかし、自分の力では心臓を動かし続けることはできません。自分のいのちを1秒でも伸ばすことはできません。私は主に生かされているという事を認め、感謝します。
どうか、私があらゆる惑わしから守られるよう、助けてください。悪から救い出して下さい。そして、御国を私の心の中心に来たらせてください。
私の内から目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢をキリストの完全な愛によって締め出してくださいますように。今日も自分に死に、キリストと共によみがえる、復活の力が私の内に働くことを感謝します。
今日も変わらない愛で私を愛し、見守って下さる主が、私とともにいてくださるので、私は恐れません。
全てを支配し、全てをお持ちである主が私の主であり、私の中に生きてくださっています。それなので、私はもう、他のものを求めません。全てをお持ちである主よ、あなただけを求めていきます。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


4月27日(木)のつぶやき

2017年04月28日 01時35分29秒 | キリスト教