座間コミニティー

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◆さあ、主の山……

2017年04月04日 16時33分00秒 | 聖書
に上ろう。(イザヤ二・三)
私たちのたましいにとって、この現世の悪の世を離れて、さらに気高いもの、また、さらにまさったものに上ることは、非常に有益なことである。この世の心労と富の幻惑とは、ともすれば私たちの中にあるすべての善なるものを窒息させようとし、そのため私たちはいらだち、失望し、あるいはまた高慢になり肉的になる。私たちにとって、これらのいばらを刈り取ることはよいことである。なぜなら、それらがあっては天国の種はよい収穫を得ることができないからである。そして、これらのいばらを刈り取る鎌は、神とその王国のものを黙想することのほかにない。
ある渓谷に住む人々の多くは病弱で、その容貌もいかにも弱々しく見えるそうである。大気の循環が非常に悪く、空気がよどんでいるからである。しかしその一方で、そこのすぐ近くの山の上には強健な人々が住んでいるという。彼らは千古の雪をいただいた山々の頂から吹きおろす新鮮な空気を呼吸している。もし谷間の住民が、しばしば彼らの住む霧に閉ざされた沼地を離れて丘に登り、さわやかな大気を呼吸することができるならば、それは彼らにとってよいことであろう。
私は今夜、あなたをこのような山登りに招待する。どうか聖霊が私たちを助けて、恐れの霧、心配の熱病、地上の谷間に集まる一切の罪悪を離れさせ、喜びと祝福の山に登らせてくださいますように。聖霊が、この下界に私たちをつなぎ止めている綱を断ち切り、私たちが山に登るのを助けてくださいますように。
私たちは、あまりにもしばしば、岩につながれたわしのように座している。ただわしと違うところは、私たちがいつかくさりを愛するようになり、信仰を試される時、くさりが切られるのを嫌うようになることである。神が私たちを恵んでくださり、たとえ私たちが、肉体においてはくさりから離れることができなくても、霊においてはくさりから離れることができますように。そして肉体をしもべのように山のふもとに待たせ、たましいはアブラハムのように、山頂に登り、そこでいと高きお方と交わることができるようにしてください。
 

「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、

2017年04月04日 16時32分10秒 | 聖書

豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Ⅱコリント9:6)

献金は大きな祝福だ。この祝福を奪うためにサタンは必ず妨害して来る。
古い性質には欲があるため、なかなか献げられない。
ある人は「前もって用意」するよう御霊から示されていた。
銀行で下ろそうと思うが後回しなり、時間を失ってしまった。

礼拝で手持ちがなく渋った。すると帰路で車のトラブルに会い数万の出費をした。
ある時も御霊からの示しに関わらず、家計の不安をあおるサタンの声に耳を貸した。
献げられなかった帰途、交通違反で罰金に。

神の取り扱いのご愛がむしろ嬉しかったと。
別の人は困窮状態のため祈り求めていると、もっと献げよと示され、支払いも滞る状況だが、示しに従って信仰によって大胆に献げた。

すると、思いもかけない所からすべての必要額が与えられ満たされた。
身をもって従う事の祝福を知った。
肉は1から10まで自分の事だけを考え、自分の損得で動く。

絶対に損はしない。得る事に喜びを感じる。貰う事が嬉しい。
しかし、内なる新しい人は損得でなく、神の御心が判断基準だ。
例え損になっても、神に従い、御言葉に従って行く。そして大いなる祝福を刈り取る。

献げる時、必ずサタンが欲に働き、妨害して来る事を覚えよう。
御霊の示しに、信仰によって従う時、大きな祝福を見る。
又、新たに主の愛を知り、喜び満ちる。
そして必ず更に与えられる。私たちは何のために生きているのだろう。
蓄えるためか、それとも主の素晴らしさを知るためか。
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御霊の促しを感じ従った時、必ず神様からの祝福を覚える。
献げた事に神様からの応答を感じる。献げなければわからない事だ。
示された献げる思いをサタンに奪われないよう祝福に預かろう。



今日の聖人の記念日

2017年04月04日 06時44分34秒 | キリスト教

聖イシドロ司教教会博士

560?年-636年

 イシドロは、スペインのセビリアに生まれる。
 当時の最も優れた学者のひとりで、「中世紀ヨーロッパの教師」と呼ばれている。

 兄はセビリアの大司教レアンドロで、スペインをカトリック国とする基礎を築いた人である。イシドロは、兄の後、大司教を務め、青少年の教育のため多くの学校を設立し、神学書、百科事典など多数の本を著した。

聖ベネディクト修道士

1526年-1589年

 ベネディクトは、イタリアのメッシナに生まれる。彼の両親は奴隷だった。彼は18歳のとき、修道生活に入った。多くの奇跡を行い、彼が十字架の印をしただけで、目の不自由な人・足の不自由な人が治ったといわれている。


◆口から出ることば

2017年04月04日 06時43分31秒 | 聖書

正しい者の口はいのちの泉。
悪者の口は暴虐を隠す。      (箴言一〇11)
口は泉。――そのとおりだと思います。心の中にあるものが、口からことばになって流れ出ます。
私たちの口は、時々心にもないことを言います。心で「あんなやつ」と思っていても、つい、お世辞が出てきたり、心の中で「すばらしい人だ」と尊敬していても、「何だあんなやつ」なんて言ってしまうこともあります。しかし、よく見てじっくり自分を反省してみると、分かってきます。ヤコブが「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか」(ヤコブ三11)と言ったように、やはり心の中にあるものが、外に出ているのです。
スマートでハンサムで、話題の豊富な男がいました。いつも彼のまわりには笑い声がわき起こり、たくさんの友人に囲まれているように見えました。しかしやがて、ほんとうの友達が一人もいない、寂しい男だと分かりました。後から考えてみると、彼のことばは、自慢か、人の心に刺さる軽蔑かのどちらかでした。
また私の身近に、口が悪いと思われているご婦人がいました。お世辞を使わず、ずばり直言します。しかし、彼女のところへ行き、心の底を打ち明けて相談する人が多く、人々はいつまでも友人となっています。彼女の口からは愛のこもった真実のことばが流れ出ており、その心には、「私」がありません。相手を愛して、その人の喜びを喜びとし、その人の成長を祝福する心があふれています。
そんな人になりたい、それにはまず修養、と思う人が多くいます。あなたも、そう思っているかもしれません。しかし私は、修養が役に立たず、それはめっきのようなものだと思い知らされています。心の奥底に神の愛の泉を持てば自然なのです。
「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)。
 

◆神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。

2017年04月04日 06時42分48秒 | 聖書
それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント五・二一)
悲しんでいるクリスチャンよ。なぜ泣いているのか。あなたは自分の腐敗を嘆くのか。しかし、あなたの完全な主を仰ぎ、あなたが主にあって完全であることを覚えよ。あなたは神の目から見れば、かつて一度も罪を犯さなかったように完全である。否、そればかりでなく、私たちの義である主は、あなたに神の衣をまとわせられたのである。だからあなたは人の義以上のもの、すなわち神の義をもっている。
生来の罪と堕落とを悲しむ者よ。あなたの罪は決してあなたを罪としないことを覚えよ。あなたは、罪を憎むことを知ったと同時に、罪があなたになく、キリストの頭に置かれたことをも知った。あなたは自分で立っているのではなく、キリストのうちにあって立つ。自己の力によって受け入れられたのではなく、主にあって受け入れられた。あなたは罪の身を嘆くが、すべての汚れを除かれて御座の前に立つ時と同じように、今神に受け入れられている。
あなたに勧める。「キリストにあって完全」というこの尊い思想を銘記せよ。あなたは「キリストにあって、満ち満ちている。」救い主の衣をまとっているあなたは救い主のように聖い。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
主にある友よ。心から喜べ。愛する御子によって受け入れられているのに、何を恐れることがあろうか。常に微笑をたたえ、主に近く住み、天の都の郊外に住め。やがて時が来ると、あなたはイエスの座しておられる所に上げられ、勝利の後イエスが父なる神の右にお座りになったように、イエスの右にあって統べ治める。これはみな、神が「罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた」からである。それは「私たちが、この方にあって、神の義となるため」であった。
 

詩篇29篇1-9節

2017年04月04日 06時41分18秒 | 聖書


29:3 主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます。
29:4 主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。
29:5 主の声は、杉の木を引 き裂く。まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。



ダビデは、何度も「主の声は」と言って、主の声のことを語っています。

彼には、人の声を聞くように、主の声が聞こえたのでしょうか。

そうではありません。

彼が言っている「主の声」とは、主が彼に示された、その御心のことです。

声というのは言葉と同じで、その人の意思を表すものです。

ですからそのことを語って、声と言っているのです。

そして、ひとたび主がその意志を現されるならば、そのお心にあることは、その通りに実現すると言っているのです。

「光あれと言われた。すると光があった。」と、言われる通りです。

主が示された意志とご計画を阻むものは、何もないのです。

ですから、主の声である御心を知ることが、真に大事なのです。

そして、その聞くべき御声というのは、今、神の言葉である、聖書の言葉なのです。



ローマ書7章13節(エレミヤ書35章)

2017年04月04日 06時38分12秒 | 聖書


★では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

■O:今日のコラム
この良いものとは何でしょう?それは律法です。律法は、私たちを罪に定めます。これは悪い事ばかりではありません。律法によってハッキリ罪と示されるからこそ、私たちは悔い改める事ができるのです。
  この(ローマ7:13)で言うところの『死』とは、私たちの古い人が死ぬ事であって、それは良い事なのです。文字は私たちを殺すのです。
  この続きには、戒めによってその罪が更に大きく示される事が書かれています。この戒めとは何でしょうか?原語には定冠詞(英語で言うなら『THE』)が付いています。THE戒めと言ったら何でしょうか?
 
『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』(ヨハネ13:34)

  私たちにとっての、THE戒めは、この御言葉です。この御言葉を握るなら、つまずくことはなく、またあらゆる罪に光を当てるともしびとなるでしょう。ぜひこの御言葉を握りましょう!昼に夜に口ずさみ、思い巡らすのです。

『また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。』(2ペテロ1:19)


■A:考えてみよう
ヨハネ13:34を携帯やスマホのメモに入れ、口ずさみ、思い巡らしましょう。罪が示されれば悔い改めましょう。


■P:祈り
ヨハネ13:34を行う者であらせてください。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


4月3日(月)のつぶやき

2017年04月04日 01時28分43秒 | キリスト教