座間コミニティー

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◆しかしふたりの目はさえぎられていて、

2016年10月29日 16時41分59秒 | 聖書
イエスだとはわからなかった。(ルカ二四・一六)
弟子たちは、イエスを当然知っていなければならなかった。彼らは絶えず主の御声を聞き、御顔を見ていたのに、主を見分けることができなかったとは、むしろ不思議である。しかし、あなたも同様ではないか。あなたは近ごろ、主に会っていない。あなたは主の食卓に列しながら、主にお会いしていない。今夜あなたは暗黒の苦悩のうちにあり、主がはっきりと、「わたしだ。恐れることはない」と告げられるのに、あなたは主を見分けることができない。
ああ、私たちの目はさえぎられている。私たちは主の御声を知り、御顔を眺め、自分の頭を主の胸にもたせかけてきた。しかし、キリストがすぐ近くにおられるのに、私たちは「主がどこにおられるかを知ることができたなら」と言っている。私たちはイエスを知るべきである。私たちは主の御姿を示す聖書を愛している。しかしそれを開きながら、自分の愛する主を一目見ることさえできないとは、どういうことか。
愛する神の子たちよ。あなたはこのような状態にいるか。イエスはみことばのゆりの中におられる。あなたはそのゆりの中を歩きながらも、主を見つけることをしない。主は常に聖書の中を歩み、そよ風の吹くころ、御父がアダムと交わられたように、その民と交わられる。あなたは聖書の園の中におり、主が常にそこにおられるのに、あなたは主を見ることができない。
なぜ私たちは、主を見ないのか。不信仰のゆえである。弟子たちは、明らかに、イエスにお目にかかることを期待していなかった。そのため、彼らはイエスであることがわからなかった。私たちにイエスを見ることができるようにさせるのは、信仰のみである。「私の目を開いて、私と共におられる救い主を見させてください。」これをあなたの祈りとせよ。主にお目にかかることを願うのは幸いである。しかし、おお、主を見つめることは、はるかにまさる。ご自分を求める者に対して、主は親切であられる。しかし主を見いだした者には、主は表現できないほど親愛なお方である。
 

「苦い根が芽を出して悩ましたり、

2016年10月29日 16時41分10秒 | 聖書

これによって多くの人が汚されたりすることのないように」(ヘブル12:15)

「苦い根」が自分の内にないだろうか。
根だから、土の下に隠れて、外側からは決して見えない。
人の内側深くにあるものだ。

外側はにこやかに柔和で、優しく良い人であり、普通の社会人に見える。
しかし、何かで触発されると、その地中深くにある苦い根が、芽を出して来る。
妬み、憎しみ、批判、さばき、敵対心・・。

何かある時に、事が起こると、その苦みが出て来る。苦い根は、周囲に苦いものをまき散らす。
周囲を害して行く。周囲を傷つけ、踏みにじり、暗たんたる気持ちにさせ、恵みを消し去ってしまう。

恵みが吹き飛んで、暗いネガティブな嫌な気持ちにさせられる。
そして、苦い根はそれだけで終わらず、相手の底にもある苦み、嫌なもの、否定的なものを引き出してしまうのだ。

経験あるだろうか。相手を責めて、攻撃して行くと、相手の中の悪いものが誘発され、引き出され、双方でどんどん泥沼に落ちて行く。
憎しみは、相手の憎しみをも引き出す。

逆に相手を受け入れ、愛し、尊び、喜んで行くと、相手の良いものを引き出す。

苦い根は主の御前に持ち出して、断ち切って頂こう。放っておくなら、根ははびこる。
光のもとに出すことだ。普段は隠れているが、事があるごとに出て来る、苦い根があなたの内にないか。
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普段は隠れているが、触発される度に、出て来るものに向き合おう。
主は根から対処して下さる。苦い根は、自分で見て、認めて、主の前に出すなら、主が解決に導いて下さる。
言い訳せず、正当化せず、認めて、悔い改め、捨てよう。


今日の聖人の記念日

2016年10月29日 09時25分17秒 | キリスト教

聖ナルチッソ(エルサレム)

?-220年

 ナルチッソは、ギリシャ人であり、エルサレムの司教として任命されたのは、老年になってからであった。しかし、彼は熱心に教区の司牧にあたり、信者たちをよく導いた。彼を快く思わない者から無実の罪を着せられて訴えられたが、信者たちは、ナルチッソの無実を信じて疑わなかった。しかし彼はこれを機に、かねてから望んでいた、祈りと黙想の生活をするためにエルサレムから退いた。彼が去った後に、代行者が亡くなり、新たに司教が任命されると、ナルチッソは、再びエルサレムに戻った。

 彼は、とても高齢になっていたが、司教に助けられ、司牧の務めを亡くなるまで果たしたといわれている。


◆ストップ、陰口

2016年10月29日 09時24分16秒 | 聖書

たきぎがなければ火が消えるように、
陰口をたたく者がなければ争いはやむ。(箴言二六20)
確かに「陰口」は、争いの火にたきぎをくべるようなものです。それなのに私たちは、よく陰口をたたきます。どうしてでしょうか。
第一に、人のよしあしを言う品定めにはこたえられない楽しみがあります。
第二に、人間には、面前にいる人を喜ばそうという気持ちが働きます。そして、いない人の悪口を言うと、人は一番喜びます。「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ」と、箴言二六章二二節は言います。
第三に、これは一番強力な陰口の動機です。人はうらみにかられて陰口をたたきます。憎い、うらめしい、怒りでいっぱいだ、怨念を晴らしたい。――そこで、あることないこと陰口をたたきます。
私自身が体験している「陰口のストップ法」を二つ紹介しましょう。第一は、陰口を言いたい時、ことにうらみの気持ちから言いたい時は、待てよ、本人に面と向かって言うとしたら、私は何と言うだろうかと考えます。必要なら、本人に面と向かえばこう言うという文章を実際に書いてみます。そして、本人の面前で言えないことは言わないと、ストップをかけるのです。こんなやり方をして、しばしばよく分かったのは、陰口の槍玉にあがる相手よりも、私自身の高ぶり・怒り・うらみ・憎しみこそ問題だということでした。
第二は、人が陰口を話すのを面白がって聞かず、ストップをかけてしまうことです。ピョートル大帝のところへある貴婦人が来て、自分の主人の悪口を言い始めました。ピョートル大帝は、「私の知ったことではない」と言いました。すると、その女は「でもピョートル大帝、私の主人は陛下の悪口も言いますの」とさそいをかけました。すかさずピョートル大帝は、「それはあなたの知ったことではない」と言ったそうです。
 

◆だから、こう祈りなさい。

2016年10月29日 09時23分24秒 | 聖書
「天にいます私たちの父よ……。」(マタイ六・九)
真の祈りは、主のすべての祈りのように、子が父に呼びかける心、すなわち「私たちの父よ」で始められなければならない。私たちが「立って、父のところに行って……」と言い得るまでは、神に受け入れられる祈りは出てこない。子どものように単純な心はすぐに、「天にいます」父の荘厳さを見させ、「御名があがめられますように」という真心のこもる崇敬を上らせる。「アバ、父」という子どもの片言が成長して、「聖なる、聖なる、聖なる」というセラフィムの叫びとなる。
全心全霊をもってする礼拝から、燃えるような宣教精神までの距離は、わずか一歩にすぎない。この宣教精神は、神への愛と、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と敬虔に主をあがめることの必然の結果である。
次に心からの神に対する信頼が続く。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」
彼は主に依存しているだけでなく、さらに聖霊の光に照らされる時、自分の罪深さを発見するので、次のようにあわれみを願う。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
そして、罪赦され、キリストの義を着せられ、神に受け入れられたことを知り、彼は常に聖くあることをへりくだりつつ懇願して、「私たちを試みに会わせないで……」と言う。真に罪赦された者は、再び罪を犯すのではないかと恐れる。義とされた者は聖くなろうとする。「私たちの負いめをお赦しください。」これは義認である。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」これは消極積極両面の聖潔である。
以上の結果として次の賛美のことばが続く。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」私たちは、私たちの王が摂理の中に支配されること、やがて、恵みによって地の果てに至るまで統べ治められ、その統治の尽きないことを喜ぶ。
 

ヨブ記22章21-30節

2016年10月29日 09時22分05秒 | 聖書


22:21 「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。
22:22 神の御口からおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。
22:23 あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る。」



 エリファズはヨブに対して、ヨブがこのような苦しみを受けているのは、それは神の前に罪を犯して、神の怒りを買っているからだと告げました。

ですから、そのヨブが持っている苦しみと痛み、そして悲しみを取り除いていただくことを求めるならば、それはあなたが神の元に立ち返ることだというのです。

この立ち返ると言うことは、神の前にヨブが謙遜になることだというのです。

 ヨブが、「なぜ自分が苦しみにあわなければならないのか?」と問うこと自体が、ヨブの持っている自分を正しいとする高慢さであると、彼の目にはうつっていたようです。

ですから、神の前に出て謙遜になって、自分の罪を悔い、神の前に許しを求めよ、というのです。

そうすれば、神様はあなたに回復をもたらしてくださるというのです。




1ペテロ2章1~2節

2016年10月29日 09時19分57秒 | 聖書


★ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。


■O:今日のコラム
日々、御言葉を朗読する事は大きな恵みです。御言葉を目で追って読む事も素晴らしいですが、御言葉を声に出して朗読する時、大きな霊的祝福を得られます。

私も日々、御言葉を10章~30章朗読し、その御言葉を告白しながら祈ります。しかし、時々御言葉を朗読していると、口では御言葉を読んでいるのに思いは違う所に行ってしまい、様々な必要や思い煩いに心が向いてしまう事があります。そんな時、一度朗読するのを止めて、「私の思いよ。今、イエス・キリストの御名によって悩みや思い煩いと繋がる回路が断ち切られ、私の全ての思いが御言葉に繋がり、御言葉が私の考えとなる事を命じる。」と自分自身に対して命じて祈り、また御言葉の朗読を再開します。

1ペテロ2章2節には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」と書かれており、私達が純粋な御言葉を慕い求める事は、霊的成長と救いの完成に至る祝福である事が分かります。しかし、それが出来ないように妨げるものがあります。それが1節に記されている「すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口」。つまり内にある肉や罪の性質です。ペテロはこれらを捨てなさい。と言っています。

日々の悔い改めの祈りは、私達が純粋な御言葉を慕い求め、御言葉と繋合わされ、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民(1ペテロ2:9)。として確信を持って生きるためにとても重要な祈りと言えます。日々、悔い改め、御言葉の朗読、主イエスの血潮の告白を続ける時、私達の奥底から命の水が川の様に流れ出し、私達の内なる人にキリストの輝きがもたらされます。日々、このシンプルな事に時間を費やしましょう。


■A:考えてみよう
毎日、御言葉を10章朗読する事が出来る様に、記録のノートを作り、御言葉を朗読する習慣を築いて行きましょう。それは永遠に対する偉大な投資となります。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月28日(金)のつぶやき

2016年10月29日 01時34分13秒 | キリスト教