座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

霜降(そうこう)

2016年10月18日 16時53分24秒 | その他

今年の霜降(そうこう)は10月23日。
 霜降とは秋が一段と深まり、朝露が見られる時期のことを言います。
 これからどんどん朝晩の冷え込みが厳しくなり、昼間との気温差も大きく風邪をひきやすいので体調管理には気をつけましょう


◆見よ。聞き従うことは、

2016年10月18日 15時57分08秒 | 聖書
いけにえにまさり……。(Ⅰサムエル一五・二二)
サウルは、すべてのアマレク人とその家畜を絶滅させよと命じられていた。しかし、彼はそうしないで、王の命を助け、自分の民が牛と羊の最も良いものをかすめ奪うのを許した。それについて説明を求められた時、神にいけにえをささげるためにそのようにしたと言った。これに対してサムエルはただちに、いけにえは主に直接反抗した行為の言いわけにはならないと断言した。
冒頭の聖句は、金文字で記して、今日の偶像崇拝時代の人々の目の前に掲げられるべきである。彼らは自我崇拝の美服をとりわけ好むが、主のおきてを全く無視している。救い主のご命令に忠実に従って歩むことが、どのような外面的な宗教の形式よりもまさることを心にとめよ。また、主の教えに熱心に耳を傾けることは、雄羊の脂肪をささげるよりも、またいかに貴重なものを祭壇にささげるよりもすぐれていることを心にとめよ。
キリストが弟子に与えられた戒めのうち、最小のものをあなたが守らないならば、私はあなたが不従順でなくなるように祈る。あなたが主を愛しているかのように見せかけ、信仰深そうな行為をしたとしても、それはあなたの不従順の償いにはならない。どれほど小さなことでも、「聞き従うこと」は、いけにえ――それがどんなに大きなものであろうと――にまさるのである。グレゴリオ聖歌、祭服、香、旗について語ってはいけない。神がその子たちに第一に求められることは、従順である。たとえあなたが焼かれるために身を渡し、自分のすべての財産を貧しい人のために与えたとしても、もし主の教えに耳を傾けないならば、あなたのすべての形式は、あなたに益を与えない。
幼子のように、素直に教えを聞くことは幸いである。しかし、それにもまさって幸いなのは、教えられたことを一言一句までも忠実に実行することである。なんと多くの人が、彼らの神殿を飾り、祭司たちに美服を着せても、主のみことばに従うのを拒んでいることであろう。私のたましいよ。彼らにくみしてはいけない。
 

「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」

2016年10月18日 15時56分06秒 | 聖書

(マタイ20:15)

この箇所は、ペテロの質問への答えの中で語られている。
その質問は「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってきました。
私たちは何がもらえるのでしょうか」だ。

主はそれに答えて「先の者があとになり、あとの者が先になる」と言われた。
金持ちの役人が、富を捨てる事ができず、主のもとを去った出来事のあとに続いている。

それを見てペテロは「自分たちは何もかも捨てて、従っているのだから、何をもらえるのか」と。
それを受けて、主はぶどう園の主人の話をされた。

これは天の御国の価値観であり、先の者があとになり、あとの者が先になる、この世の価値観と正反対だ。

労働時間の長さに従い、でなく、逆の順で賃金を払い出した。
1時間、3時間~12時間まですべて同額だ。この世ではあり得ない。
計算が成り立たない。天の御国は、神の恵みが支配する世界だ。

受けるに値しない者に与えられるプレゼントだ。
そして「自分のものを自分の思うようにする」神の絶対的な主権の世界だ。

「気前のいい」主人であり溢れるばかりに与えて下さるお方だ。
「天の御国は・・ぶどう園の主人のようなもの」ここでの主役は労務者でなく、ぶどう園の主人だ。
神の御国は、神が崇められ、神の栄光のための場所だ。これが御国の価値観だ。
------------------
神様は、一人でも多くの人に恵みを分け与えたいと思っておられる。
先に神様を知ったゆえの喜び恵みに感謝し、惜しみなく与えられる神様を賛美しよう。


今日の聖人の記念日

2016年10月18日 07時28分22秒 | キリスト教

聖ルカ福音記者

1世紀

 ルカは、新約聖書の中の第3の福音書と使徒言行録の著者である。聖パウロの手紙によると、ルカはギリシャ人の医師であった。またパウロの第3と第4宣教旅行に同行したことが示されている(使行16.10、20.6)。その後、パウロが2度目に逮捕されてローマに滞在していたとき、ルカだけは彼とともにいた。(2テモテ4.11)

 ルカ福音書がギリシャ語で書かれ、巧みで美しい表現に彩られていることからも、彼が高い教育を受けていたことが分かる。ルカは特にキリストの優しさを浮き彫りにし、善きサマリア人、ザアカイ、放蕩息子など、差別されている人びとを題材とした話は、独特のものである。また、キリストの幼年時代をいちばん詳しく書きとめ、聖母マリアが果たす役割を強調した。

 聖パウロの死後、ルカの活動について確かではないが、主にギリシャで宣教し、そこで殉教したと伝えられている。後世の教会の伝承によれば、ルカは画家でもあり、聖母マリアとイエスを描いたということから、ルカは、医師と画家の保護者とされている。


◆争い好きな女

2016年10月18日 07時27分15秒 | 聖書

争い好きな女と社交場にいるよりは、
屋根の片隅に住むほうがよい。   (箴言二五24)
「争いを好む怒りっぽい女と大邸宅に住むより、屋根裏部屋のすみっこでひとり住まいをするほうがいい」ということでしょうか(箴言二一19をも参照)。
このような箇所を読んで、女性蔑視だ、女ばかり目の敵にするなんてひどいと思われる方もいましょう。確かに、女性ばかりのことではありません。いっしょに住むのが苦痛のような男性もいるでしょう。
私がすぐ思い出す、一人の若い婦人がいます。とても口やかましく、夫にこごとばかり言っていました。夫のほうも愛想がつきて、ほんとうに離婚寸前という状態でした。ところがさそってくれる人があって、彼女のほうが教会に行き始めました。そして、教会の静かな雰囲気や美しい賛美歌が大好きになりました。しかし、口こごとのほうは相変わらずで、「私なんかいいけど、あんたこそ教会に来てざんげすべきよ」と夫に向かって言い続けました。日曜日になると、当てつけるようにだんなさまは、さーっとゴルフやつりに出かけたのです。一向に教会には来ませんでした。
ところがある日曜日の晩に、罪を悔い改めて神を信ずべきことを力強く単純に話す伝道者が、その教会に来たのです。心刺されたその婦人は、悔い改めて神を信じ、神の愛を受け入れました。その日以来、口こごとがぴたりとやみました。こんな男と結婚したのが私の不幸の始めと思いもし言いもしていたのが、こんな私を主人はよく我慢していてくれる、と思うようになったのです。お勝手で賛美歌が聞こえ、寝室で祈る声が聞こえるようになりました。ご主人も教会に来て、神を信じました。ご主人が、教会の牧師にこう言ったそうです。「私のうちのお勝手で、イエスさまが賛美歌をうたって歩いていました。それで、私も信じたのです。」
 

◆あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。

2016年10月18日 07時26分22秒 | 聖書
(詩篇六五・一一)
あぶらがしたたっている主の道は多い。特に祈りの道においてはそうである。絶えず密室にある信者は、一人も「私はだめだ。なんと私は不幸なことか」と叫ぶ必要はない。飢えたたましいは恵みの御座より遠く離れて生きているのであり、かんばつの乾ききった畑のようになる。神と格闘するような熱烈な祈りをする人は、たとえ幸福になれなくても、強くなることは間違いない。天国の門に最も近い場所は天の恵みの御座である。あなたがふだんより孤独になれば、さらに大きな確信を得るだろう。イエスと共にいることが少なければ、あなたの信仰は浅くなり、多くの疑いや恐怖によって汚され、主の喜びの輝きは失せる。
たましいを富ませる祈りの道は、最も弱い聖徒にも開かれており、高度の学識や造詣は必要ない。あなたが信仰に進んだ聖徒であるがために招かれているのではない。あなたが聖徒であるならば無代価で招かれている。それなら愛する読者よ。個人的な祈りの道にいそしめ。しばしばひざまずいて祈れ。エリヤが飢え苦しむイスラエルの地に雨を呼び下したのも、祈りの結果であった。
歩む者の上にあぶらのしたたるもう一つの道がある。それは隠れた神との交わりの道である。ああ、イエスと交わることの楽しさよ! イエスの胸によりそうたましいの聖なる静けさを表現できることばは、この地上にはない。この境地を知るクリスチャンはきわめて少数である。多くのクリスチャンは低地に住んでおり、ネボ山頂に登ろうと試みることはほとんどない。彼らは外庭に住まい、聖所に入ろうとしない。遠くに全焼のささげ物を見るが、祭司と共にそれを食べようとせず、全焼のささげ物のあぶらを賞味しようとはしない。
しかし、読者よ。絶えずイエスの陰に座れ。そのなつめやしの木のもとに来て枝を手に取れ。あなたの愛する方を林の中のりんごの木のように大切にせよ。そうすればあなたは脂肪と髄に満ち足りるであろう。
おお、イエス様。あなたの救いをもって私たちに臨んでください。
 

ヨブ記16章6-17節

2016年10月18日 07時25分04秒 | 聖書


16:9 「神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる。
16:10 彼らは私に向かって口を大きくあけ、そしって私の頬を打ち、相集まって私を攻める。
16:11 神は私を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれる。」



 ヨブは、自分の心の内にある苦しみが何であるのかということを、友人に語りました。

それは、神が私に怒りを発して私を責め、私の身体をむしばませている。

そして、その姿の醜さが、神が私を痛め苦しめている証拠であるのだ。

この神の怒りの結果、人々は私のことをあざ笑い、激しくわたしのことを責める。

ヨブは神を侮ったからだと言う。

神はこうして、私を悪者の手に渡されたのだ。

これが私の苦しみなのだ、とヨブは言うのです。

私は神に逆らって歩んできたのではない。

ましてや、神を侮ることを喜びとしたのでもない。

それなのに、なぜ神は、この私を敵とするのか。

なぜ、このような悲惨な状況に置くことを良しとするのか。

私には全くわからないというのです。


ヨエル書1章5節、8~9節、13~14節

2016年10月18日 07時22分57秒 | 聖書


★『酔っぱらいよ。目をさまして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。』(ヨエル1:5)

★『若い時の夫のために、荒布をまとったおとめのように、泣き悲しめ。穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒は主の宮から断たれ、主に仕える祭司たちは喪に服する。』(ヨエル1:8~9)

★『祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒もあなたがたの神の宮から退けられたからだ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。』(ヨエル1:13~14)


■O:今日のコラム
5節は世のぶどう酒に酔って、まどろんで、眠っている信仰者に対して悔い改めを迫っている様子と言えます。涙を流して、悔い改める事は、霊的な目を覚まさせます。
  8~9節も悔い改めを訴えています。荒布をまとう事は、悔い改めを指します。その者は、失った夫のために泣く乙女のようであり、かつては熱心に主を求めていた信仰者のようです。
  13~14節は、やはり悔い改めを迫られますが、祭司として主に仕える事をしている者に対してです。
  つまり、どんな状態にある信仰者も、悔い改めを迫られているのです。15節に『主の日は近い』とあります。主の日を迎えるために全ての者は、涙を流して悔い改めるべきです。
    主が来られる備えのためにバプテスマのヨハネが来たのは、悔い改めのバプテスマのためでした。主が来られる時にイザヤ61章が実現するのですが(初臨のときも、イエス様はこの御言葉が実現しました、とおっしゃいました)そこには、こうあります。

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』(イザヤ61:1~3)

  悲しんでいないでどうして慰められるのでしょう?灰をかぶっていなくて(悔い改めを表す)どうして『灰の代わりに』なのでしょう?悲しんでいなくて(御心に沿った悲しみとは、悔い改めを指す)どうして『悲しみの代わりに』なのでしょう?
  他の箇所でも、『主は私たちの涙を拭ってくださる』とあります。泣いていなくては、それは実現しないのです。


■A:考えてみよう
今こそ、涙を流して、悔い改める時です。主に感情が触れられ、泣くまで悔い改めましょう!神の御心に沿った(原語では、『神による』)悲しみが深い、熱心な悔い改めを生むのです(2コリント7:11)


■P:祈り
毎日、私の心に触れてください。悔い改めてあなたが来られる備えをさせてください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月17日(月)のつぶやき

2016年10月18日 01時32分57秒 | キリスト教