座間コミニティー

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◆彼は次のように言った。「主はこう仰せられる。

2015年05月16日 16時46分08秒 | 聖書

『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』主がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む。』」(Ⅱ列王三・一六、一七)

三人の王の軍隊は、水の欠乏のために渇いて死にそうであった。神は水を送ろうとしておられた。そして、冒頭の聖句のように、預言者は来るべきこの祝福を告げた。これは人間の無力の実例である。すべての勇士たちによっても天から一滴の水も得られず、地の井戸からもくみ上げられなかった。このように、主の民はしばしば途方にくれることがある。被造物のむなしさを見、どこに助けを見いだすべきかを経験的に学ぶ。
人々は信じて、神の祝福を受ける準備をした。彼らはみぞを掘って、尊い水を蓄えようとした。教会は、そのさまざまな活動、努力、祈りによって、祝福を受ける準備をなすべきである。教会は池を造らなければならない。主はそれを満たしてくださる。これは、信仰によってなされなければならない。すなわち、祝福が下ろうとしていることを確信してなすべきである。
まもなく、不思議な方法をもって必要な恵みが与えられた。静かな神秘的な方法で池は満たされた。主は主権者として行動される。主は、私たちのように、方法や時に縛られることなく、ご自身が望まれるままを、人の子らの上になされる。私たちは、感謝して主がなしてくださることを受け取ればよいのであって、自分のほうから指図すべきではない。
私たちはまた、その供給のきわめて豊かなことに注目しなければならない。すなわち、それはすべての人の必要を満たしてなお余りがあった。福音の祝福においても同様である。祈りに答えてくださる神の力により、すべての会衆と全教会の必要は満たされる。そのうえ、勝利は速やかに主の軍に与えられる。
私はイエスのために何をしているのであろうか。どのようなみぞを、私たちは掘っているのであろうか。おお主よ。私を、あなたが与えようとしておられる祝福を受けるにふさわしい者としてください。

 


「あなたは、食べてはならない、

2015年05月16日 16時45分11秒 | 聖書

と命じておいた木から食べたのか」(創世記3:11)

神は、罪を犯したアダムとエバに、神の側から御声をかけて下さった。
「恐れて、隠れました」恐れて逃げ回るしかない彼らに、神の方から「あなたはどこにいるのか」と近づいて下さった。
断罪し、さばくためではなく、罪ゆえに遮断されてしまった交わりの回復を願われた。
しかし、悔い改めの機会が与えられても、回復のチャンスが与えられても、そうしたらよいとわかるが、できなくなってしまったのだ。
善悪はよくわかり、何をしたらよいかもわかる。
しかし、その善を行うことができない。
「私には、自分でしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っている」
「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っている」
自分のせいでなく、あの人がああ言ったから、この人がこうしたから、相手が悪いと、自分を正当化してしまう。
そんな罪深い私たちを救い出すために、御子がすべてのさばきを受けて下さった。
「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はして下さいました」
良い事がわかっていても、出来ない無力、そんな私たちのために神が御子によるあがないという道を用意して下さった。
神の前に、徹底無力を認める時に、御霊の力により出来なかった事が、出来るようにされる。
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自我でどうにも出来ない自分のために、悔い改める事すらできない自分のために、十字架のあがないがあり、御霊の助けがある。
徹底無力を知る事が最大の祝福だ。無力を認める時、神の力、愛を知り、恵みがわかる。


今日の聖人の記念日

2015年05月16日 08時28分03秒 | キリスト教

ネポムクの聖ヨハネ司祭

1330年ごろ-1393年

 ヨハネは、南ボヘミアのネポムクに生まれた。幼いころから司祭になることを志し、プラーグで神学、特に教会法を学んだ。司祭になると、プラーグ教会の主任司祭として活躍し、彼の博学と徳の高さが評判となって、人々の間に広まった。

 王の願いで、宮廷の聴罪司祭(罪の告白を聴き、ゆるしを与える務めをもつ)となる。しかし、王の信心は表面的で、事あるごとに民に対して横暴な態度をとるので、皇后ヨハンナが王のわがままをいさめようとしたが、かえって王の怒り招き、さらに側近からざんげんされ、無実の罪を着せられるという事件が起きた。そのとき王はヨハネに、皇后の罪の告白の内容を告げるように命令した。しかし、ヨハネは司祭として告白で聞いたことを他言することはできないと、告白の秘密を守る義務を貫いた。そのため、ヨハネは、王から残酷な仕打ちを受けて殺された。

 1719年のヨハネの列聖調査のとき、彼の舌は腐食していなかった。人々は彼の神に対する忠実さを賛え、聖堂に遺物として保存した。


◆財産のつくり方

2015年05月16日 08時26分44秒 | 聖書

急に得た財産は減るが、
働いて集める者は、それを増す。   (箴言一三11)

日本にも、「悪銭身につかず」ということばがあります。あぶくのように消えていく「あぶく銭」と言うのも、同じことを言っているようです。
お金や土地建物ばかりが財産ではありません。有形無形いろいろな財産があります。聖書は財産を持つことを否定していません。いいえ、財産を殖やすことをすすめています。
主イエス・キリストは、こんなたとえ話をされました。ある主人がしもべたちに、ある人に五タラント、ある人に二タラント、ある人に一タラントを、それぞれの能力に応じて預けて旅に出ます。しもべたちは、預かったものを大切な元手として一生懸命働きました。五タラントの人はもう五タラント、二タラントの人はもう二タラントを殖やしました。帰ってきた主人は大喜びで二人をほめました。ところが、一夕ラントを預かった人は、なくしたら叱られるからと、地面を掘ってうめておきました。主人はこのしもべを不忠実な者として叱責しました(マタイ二五14―30参照)。
この背後に、大切な真理がかくされています。
・ 神は私たちそれぞれに、能力や財産を預けられる。
・ 神は、人が、神から預けられたものを忠芙に管理し、神のため人のために有益に用いるために、殖やすことを期待しておられる。
・ 人は、その能力に応じて、使命を感じ、働いて神が預けられたものを管理する。それを守り、用い、有益に働かせる時、神から報いを受ける。
すべての財産を神から管理を任されたものとして見、その神の期待に答えて、一生懸命働くという人生観は、実際に私たちの人生を変え、世界を変えるでしょう。

 


◆私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

2015年05月16日 08時25分29秒 | 聖書

(Ⅰテモテ六・一七)

私たちの主イエスは常に与えてくださる。一瞬でもその御手を引かれることはない。主は常に輝く太陽であり、宿営の周囲に降り注ぐマナである。またその打たれた脇腹より絶えずいのちの流れを注ぎ出している荒野の岩である。主の恵みの雨は降り続き、その寛大な川は尽きることなく流れ、その愛の泉はこんこんとわいて尽きない。
主は決して死ぬことのない王であるが、その恵みも決してとだえることはない。私たちは日ごとに主の恵みの果物を取って食べる。そして日ごとにその枝は恵みの実を豊かに結び、私たちの目の前にたれ下がる。主の一週間は七日とも豊作であり、一年中通しての祝宴である。主からの祝福を受けることなく玄関払いされた者が一人でもあるだろうか。空腹のまま食事が下げられ、心ゆくまで楽しむことなく、主のふところから追い出された者が一人でもあるだろうか。
その恵みは、朝ごとに新たであり、夕ごとに改められる。だれが主の恵みの数を知り、その賜物の内容を極めることができようか。刻々と落ちる砂時計の砂でさえも、主の恵みの豊かさを表現できない。私たちの時の翼は、主のいつくしみの銀に包まれ、主の愛の黄金におおわれている。永遠の山から流れ出る時という川は、主の恵みの砂金を運ぶ。数えきれない星は、無限の祝福のごく一部分を代表するにすぎない。
だれがあのヤコブに与えられた真砂のような恩寵を数え、あのイスラエルに示されたあわれみの一部でも言い尽くすことができよう。日ごとに、身に余る恵みを私に与え、いつくしみで私を囲まれる主を、私はどのようにしてほめたたえることができるのだろうか。
ああ、私の賛美が主の恵みのように絶え間なくわき出るように。あわれな私の舌よ。なぜおまえは沈黙しているのか。おまえに懇願する。目を覚ませ。そうでなければ、おまえは私の光栄ではなく恥辱である。
「私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。」

 


第2列王記13章10-13節

2015年05月16日 08時23分34秒 | 聖書

13:10 ユダの王ヨアシュの第三十七年に、エホアハズの子ヨアシュがサマリヤでイスラエルの王となり、十六年間、王であった。
13:11 彼は主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行い続けた。



 北イスラエルでは、王のエホアハズが死んだ後、南の王と同じ名前の王であるヨアシュが王となりました。

そして16年間王として君臨しました。

ところが、そのヨアシュの治世の間、北イスラエルでは、偶像礼拝が絶えることなく続いて、主の御心が無視されていました。

 彼は本来、自分の父であるエホアハズが経験したことから学ぶべき人でした。

北から軍隊が侵入してきたのはその偶像礼拝のせいであったこと、また主の憐れみと恵みによって、父が願った時に主が助けてくださったこと。

そうしたことの1つ1つが、彼にとっての良い教訓であったはずです。

しかし彼は、その父の生涯に学びませんでした。

彼は、自分の地位の保全は、民の行っていることを是認することにある、と思ったようでした。


エゼキエル3章23節(マルコの福音書3章)

2015年05月16日 08時18分37秒 | 聖書

★私はすぐ、谷間に出て行った。すると、そこに、主の栄光が、かつて私がケバル川のほとりで見た栄光のように、現れた。それで私はひれ伏した。

■O:今日のコラム
主の栄光が現れた!これは全ての事をランキングで表すのであれば間違いなく1位に値することです。
前に7000カンファレンスで「主の栄光が全てです!!」という事が語られていましたが、本当にその通りだと思います。

私たちは栄光の領域に入るとき、主が偉大すぎて、圧倒的過ぎてひれ伏すしか出来ません。

私は絶えずこの栄光の領域で生きたいと切実に願っています。栄光の中で生きる、わくわくします!!

3:14
霊が私を持ち上げ、私を捕らえたので、私は憤って、苦々しい思いで出て行った。しかし、主の御手が強く私の上にのしかかっていた。

エゼキエルは主の栄光を見る前、苦々しい思いで、主の御手がのしかかっている中出て行ったとあります。
祈りも、礼拝も、聖書を読むことも、神様なんて嫌だ!と苦い思いと同時に、主の御手が共にあることは分かっているけれども…という中を歩んでいましたが、栄光の領域に入り、全てを手放し、ただひれ伏し、回復し、解決に導かれる事体験しました。

主の栄光の中には全ての解決があります!ハレルヤ!

■A:考えてみよう
私たちはますます、深みに、父の愛、安息へ、栄光の領域に入って行くことが出来ますように。
栄光の中で回復し、解決が与えられていくと信じます。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


5月15日(金)のつぶやき

2015年05月16日 01時41分13秒 | キリスト教