座間コミニティー

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◆あなたがたが新しく生まれたのは、

2015年05月04日 16時39分44秒 | 聖書

朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり……。(Ⅰペテロ一・二三)

ペテロは散在している聖徒たちに、強いことばで「心から熱く愛し合う」ように勧めた。彼がその理由を、律法、自然界、哲学に求めず、神がご自分の民の中に植えられた崇高な神のご性質に求めたことは賢明であった。王子たちの賢明な家庭教師は、王子たちの地位と血統のゆえに、彼らのうちに王の精神と威厳を養うことに努める。それと同様に、ペテロは神の民を、栄光の相続人、王の血統を受け継いだ皇族、王の王なるお方の子孫、地上の最も真実な古い貴族と見て、このように言う。「あなたがたは互いに愛し合いなさい。なぜならそれは、あなたがたの高貴な血統のゆえである。すなわち、あなたがたは朽ちることのない種から生まれたからである。次にそれは、あなたがたの家系のゆえである。あなたがたは万物の創造主なる神から下った立派な家柄から出たからである。そして、次にあなたがたの不滅の運命のゆえである。たとえ肉の栄光が衰え、肉の存在が終わることがあっても、あなたは決して死ぬことがないからである。」
へりくだって、新生した性質の尊さを真に認め、それに従って生活することは、すばらしいことである。
クリスチャンとは何であろうか。クリスチャンを王に比較するならば、彼は王の品位のほかに祭司の聖潔を兼備しているのである。王の尊厳はしばしばその王冠にのみあるが、クリスチャンにとっては、その最も深い内なる性質にまで王の尊厳が注がれる。
クリスチャンが新生することによって他の人と異なっているのは、人が動物と異なっているのと同様である。たしかに彼は、すべての行動において多くの人々のようであってはならない。クリスチャンは、この世から選ばれた者、主権者の恵みによって抜てきされた者、「選びの民」の一人として記された者であるから、他の人々のようにちりの中にあくせくし、この世にまねて生活する者であってはならない。
あなたの性質の尊厳、あなたの未来の輝きを思って、いよいよ聖潔を重んじ、悪を避けよ。

 


「御霊で始まったあなたがたが、

2015年05月04日 16時38分50秒 | 聖書

いま肉によって完成されるというのですか」(ガラテヤ3:3)

あるカルト教会から脱会した人が、指導者から 最後に言われた言葉があった。
「もし信じるだけで救われるのなら、誰も何もしない」。
それなら教会にとって困るわけで、神に対する恐怖をマインドコントロールで植え付け、信徒は、献金や伝道や活動を恐怖に駆り立てられて行ってゆく。
しかし、マインドコントロールゆえ、それらすべて自分の自由意志で行っていると思っている。
そこに愛はない。「信仰による救い」が全面否定されている事になる。
しかし、もし私達も、献金や、伝道活動や、奉仕する事により、神の愛を得ようとし、神に、又、人に認めて貰おうとしているなら同じだ。
恵みでなく律法の下にいる。
何かを提供して、見合うものを自分の手に入れるのは、それは報酬だ。
それなら雇用関係だ。私達は雇い人であり、主人に労力と時間を提供して給料をもらう。
あなたの信仰生活はこの状態だろうか。
恵みは違う。一方的に与えられるものであり、プレゼントだ。
誕生プレゼントを貰ってお金を支払わない。
恵みとは一方的な神からのプレゼントだ。
労働なしに給料をもらい、ボーナスまで貰う事だ。
驚くべき恵みだ。そして奴隷や雇い人でなく子であり、父親の愛を全身に受け、莫大な財産を受け継ぐ。
救いのために何もしなかったように、信仰生活とは恵みによって、御霊に導かれ、自発的自由意志で、感謝ゆえに神の愛に応えて行くものだ。
そこには愛があり、いつも喜びと平安がある。
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福音に「強いられて」というのは一切ない。
微塵もない。最初から最後まで自発的自由意志で、動機は愛だ。
信仰が重荷で、ねばならない状態なら肉であり、福音からそれている。
恵みに立ち返ろう。


今日の聖人の記念日

2015年05月04日 07時20分23秒 | キリスト教

聖十字架発見の記念

 

 312年に「ミラノ勅令」で信教の自由を保証されたコンスタンティヌス大帝の母聖ヘレナ皇后は、熱心なキリスト信者であった。彼女は、イエスの釘付けられた十字架を一目見たいという望みにかられ、ゴルゴダの丘を発掘させ、3つの十字架を見つけた。その中の一つに触れると病気が治ったりするなど、かずかずの奇跡が起こったので、その十字架こそ、キリストがはりつけられた聖十字架であるということが確証された。コンスタンティヌス大帝は、キリストが十字架に付けられた場所と復活された場所に、キリストの死と復活を記念する十字架聖堂と復活聖堂を建てた。


◆公 正 な 計 画

2015年05月04日 07時19分03秒 | 聖書

正しい人の計画することは公正で、
悪者の指導には欺きがある。     (箴言一二5)

社会全体でも職場でも家庭の中でも、指導力は大切です。ほんとうのリーダーシップとは何でしょうか。ふつう、三つのことがいわれているようです。
・ 先が見えること。
・ 計画が立てられること。
・ 人を説得できること。
確かにそうだと感じます。この三つがそろえば仕事は伸びていくし、人もついてきます。しかし、ほんとうのリーダーシップには、このほかに二つの大切なことがあるのを、多くの人々は忘れています。第一は、正しさ。第二は、無私。私心がないということです。この二つを合わせて、「公正」と言い表せましょう。
まず、正しさです。三年ほど前、大がかりな会社ぐるみの密輸事件が起きました。結局、社長と二、三のリーダーたちが正しさを好まず、曲がった欺きを好んだことがその原因でした。こんなリーダーは、いつも下の者に不安を与え、人々はついていかなくなります。不正には、やがて破たんが来ます。この世ではびこっても、最後には神のみ前に言い逃れができず、ぺしゃんこになるのです。
次に、無私ということです。その人が無私であることがはっきりすると、ほかの人はついていきます。何でも自分第一で自分のよいようにしか動かず、名誉や功績はみな自分のものにするような指導者には、結局人はついていきません。
しかし公正さは、公正でなければ人がついてこないという理由のためにのみ必要なのではありません。公正こそ、世界を造り世界を治め、人を造り、人を愛しておられる神の要求であるからです。神を知り、神を恐れ、神の中に喜びといのち、愛と使命を見いだした時、人はほんとうに公正に生きられるのではないでしょうか。

 


◆人間は、

2015年05月04日 07時18分09秒 | 聖書

自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない。(エレミヤ一六・二〇)

昔のイスラエル人が常に陥った一つの大きな罪は、偶像礼拝であった。そして、霊的なイスラエル人である私たちも、ともすると、同じ罪に陥りそうになって悩む。ロンパの星は光を失い、女たちはもはやタンムズのために泣かなくなったが、マモン(富の神)はなお金の子牛を押しつけ、高慢の神殿は見捨てられていない。自我は手を変え品を変えて、選民をその支配下に置こうとし、肉は少しでも空き地があれば、その祭壇を据えつけようとしている。
信者は子どもへの愛にⅥれてしばしば罪を犯す。主はそのような愚かな愛に心を痛められる。アブシャロムがダビデの悩みの種であったように、子どもたちは私たちの悩みの種であり、またそれが取り去られると、家はどうにもならない寂しさにおおわれる。クリスチャンが、枕の中にいばらを詰めて夜ごとに眠れないようにしたいと思うなら、その愛児をⅥ愛すればよい。
「そんなものは神ではない」とは実に至言である。なぜなら、私たちの愚かな愛の対象は、非常に疑わしい祝福であり、それより受ける慰めは危険であり、それが困難の中にある私たちに与える助けは、まことに心細いものだからである。
それなら、なぜ私たちはむなしいものに心を奪われるのか。石の神をあがめる異教徒をあわれみながら、自分自身は黄金の神を礼拝している。肉欲の神と木で作られる神との間にどれだけの隔たりがあるのか。その根本原則、罪、愚かさはいずれの場合も同様であり、私たちの場合には多くの光を受けながらも罪を犯しているため、それだけ罪が深い。異教徒は偽りの神の前に頭を下げるが、彼らは真の神を知らない。私たちは生ける神を捨てて、さらに偶像に向かうという二重の罪を犯している。主よ。私たちすべてをこの重大な不義からきよめてください。
 私の最も愛した偶像がたとえ何であろうと
 私を助けてそれをあなたの御座から引き離し
 ただあなただけを礼拝する者としてください

 


第2列王記10章28-31節

2015年05月04日 07時16分44秒 | 聖書

10:28 このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。 10:29 ただし、エフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることをやめようとはしなかった。



 エフーは主の言葉に従って事を忠実に行い、バアル礼拝という偶像礼拝を根絶しました。

それは主の喜ばれることでした。

ですから、彼から後4代に渡って、主は豊かな恵みを注いで下さることを告げました。

 そうしたエフーでしたが、すべての面で良かったとは、告げられていませんでした。

彼があえてしなかったことがあったというのです。

それはヤロブアムの罪である、ベテルとダンにある金の子牛に仕えることをやめなかったというのです。

彼はバアルを滅ぼしながら、なぜこれをやめなかったのでしょう。

それはヤロブアムと同じように、北イスラエル国の王として任職されたからです。

彼も、自分の国の民の心が、南の国に向くことを好まなかったのです。

彼の私欲による罪です。


列王記第二7章2節(列王記第二8章)

2015年05月04日 07時12分17秒 | 聖書

★ しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

■O:今日のコラム
サマリヤは、飢饉に見舞われていて、その上アラムが町を包囲していました。
 彼らの飢えは相当なものでした。自分たちの子どもさえ食べなければならない状況でした。鳩の糞300ccが銀5シェケルで売られているのに、明日には上等の小麦7600ccが1シェケルで売られるとは想像できないのは、理解の出来る話です。
 しかし、神のことばは、必ずその通りになるのです!この侍従は、王が腕に寄りかかるほど、つまり王に最も信頼を置かれている侍従でした。しかし、彼は主に信頼する事が出来なかったのです。主に信頼する者は、失望させられることがありません!
 この侍従は、『主が天の窓を作られるとしても、ありえない。』と宣言してしまいました。この宣言にゆえに、この侍従は、この事の傍観者になり、神の用意した奇跡を味わう事がなかったのです。この天の窓ということばは、アルバという語で聖書で9回しか使われません。その内の一度は、ノアの洪水のときの『天の水門が開かれた』の水門がそれです。
 ノアのときにも、『そんなことはありえない』とあざけた者たちは、その救いの箱舟を見るが、その救いを味わうことは無かったのです。
 みことばの通りに宣言する事は、クリスチャンが、主の救いのわざの数々を味わうために重要なことです。これをあざけて否定させようとする力は、反キリストの霊です。
『偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。』(1ヨハネ2:22~23)
 この御子を告白する、という言葉は、ホモレゴーという言葉で、『同じことを言う』という意味です。反キリストも主の奇跡をみるでしょう。しかし、味わう事はないのです。ホモレゴーすること、主の言葉に同意する者は、癒しを見、奇跡を身、それを味わうのです。


■A:考えてみよう
みことばに反する言葉を口にしない。みことばに基づいた宣言をする。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


5月3日(日)のつぶやき

2015年05月04日 01時41分12秒 | キリスト教