座間コミニティー

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◆もみの木よ。

2014年09月26日 16時43分22秒 | 聖書

泣きわめけ。杉の木は倒れ、みごとな木々が荒らされたからだ。(ゼカリヤ一一・二)

森の中でかしの木が倒れる音がしたならば、それはきこりが歩いているしるしである。そして全山の木は、鋭い斧が明日はわが身を打つのではないかと震える。私たちはみな、伐採のしるしをつけられている木のようである。一本の木が倒れれば、杉の木のような大きな木も、もみのような小さな木も、定められた時が近づいていることを知らなければならない。
人の死をしばしば聞くことで、私たちは死に関して平気にならないようにしたい。教会の塔にいる小鳥が礼拝の鐘の鳴る時に巣を作り、厳粛な弔鐘があたりの空気を震わせる時に静かに眠るというようであってはならない。死を一切の出来事のうち最も重大なものとし、死の接近によって厳粛な思いに満たされるものでありたい。自分の永遠の運命が一本の糸にかかっているのに、戯れているのは実に軽薄である。
剣は抜き放たれてはいない。それなら、それをもてあそぶようなことはしないようにしよう。それは磨きあげられ、刃は鋭い。もてあそぶべきものではない。
死に対する備えをしない人は、単なる愚か者以下である。神の御声が園の木の間に聞こえる時、いちじくもいちじく桑も、にれも、杉も等しくその響きを聞け。
キリストのしもべよ。備えをせよ。主は、不信仰な世が全く予期しない時に不意においでになる。心して忠実に主のわざをせよ。すぐにあなたの墓穴が掘られる時が来るからである。親たちよ。用意せよ。心してあなたの子どもたちを、神を恐れるように育てあげよ。なぜなら、子どもたちはすぐに孤児にならなければならないからである。実業家たちよ。あなたの事業を正しくし、心を尽くして神に仕えるように心がけよ。あなたの地上の務めはすぐに終わり、善であれ悪であれ、あなたが肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからである。
私たちのすべてが、偉大な王の法廷に出る時、「よくやった。良い忠実なしもべだ」とのおほめのみことばをいただけるように備えていけますように。

 


「青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った

2014年09月26日 16時41分28秒 | 聖書

この人は多くの財産を持っていたからである」(マタイ19:22)

この青年は、「殺してはならない…あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」に対して「そのようなことはみな守っております」と答えた。
しかし、貧しい人達に持ち物を売り払って与えよと、言われた途端、本当の姿が現れ出た。
「隣人をあなた自身のように愛せよ」との戒めが守れていなかったわけだ。
戒めを守る事など絶対に出来ない。
主は、出来ない自分の本当の姿に気づいてほしくて、一番弱いところを突かれた。
あえてそのところをあらわにされた。
もっと聖書を読み、もっと祈れという事であれば、喜んで従ったであろう。
マルコでは、主は「彼を見つめ、いつくしんで」とある。
この青年を慈しんで、自らの姿に気づけるように取り扱われた。
私達にも同様にされる。
財産自体は罪でも何でもない。
しかし、それが偶像になってしまうと、神からあなたを離すものとなる。
財産は富だけではない、愛する人、仕事、趣味、名誉、地位…以上にそれらが心を占めてしまうなら、明確な偶像だ。
あなたの心には愛するもの、執着するものがあるだろうか。
悲しんで去って行ったということにならないために、神の御手にそれらを渡そう。
そうするなら、それを正しい位置に置いて下さる。
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一番握って離せないものは何だろう。
気づいたならそれを神様に献げてみよう。
有限の自分が握っているものを無限の御力をもつ神様が豊かに祝福し何倍にもにして返して下さるから。


今日の聖人の記念日

2014年09月26日 07時01分00秒 | キリスト教

聖コスマと聖ダミアノ殉教者

4世紀

 コスマとダミアノは、アラビアのキリスト信者の家庭に、双子として生まれた。2人は若いころシリアで医学を学び、キリキアのエゲアで開業した。自分たちがキリスト者としてできる奉仕は、無償で人びとの治療をすることだとして、決して報酬は取らなかった。そのため「銀貨を取らない者たち」と呼ばれた。

 キリスト教徒の迫害が始まると、2人は捕まって、信仰を守りとおし処刑された。2人の遺体はシチリアに送られ、シールスに埋葬された。後に皇帝ユスチニアヌスは、コンスタンチノープルに、2人にささげた教会を建てた。フラ・アンジェリコによる2人の生涯の絵は有名である。

 彼らは、医師、薬剤師および医学の保護の聖人として知られている。


◆ちょっとだけ

2014年09月26日 06時59分43秒 | 聖書

ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、
なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。(箴言二三31)

これは、酒に魅せられた体験者のことばではないでしょうか。そうでなければ言えないような表現です。直訳すると、「ぶどう酒が赤く、その杯の中にその目を与え、まっすぐ行く時、それを見てはならない」となります。ぶどう酒が赤く輝き、ウインクするというのです。「ウインクされても見てはならない」とは、面白い言い表し方です。
酒におぼれて家庭を破壊し、自分でも死の苦しみをする人々は案外多くいます。救世軍中将山室軍平が酒の害をあげているのを見ましょう。健康を害する。能率を減退させる。人を愚かにする。人を短命にする。人を貧窮に追いこむ。人を犯罪に追いやる。家庭を破壊する。非行少年を出す。……と読んでいくと、ちょっとこわくなります。
何年か前のこと、もう夜の十二時近かった、からっ風の吹き抜けていく駅のホームで、ぐでんぐでんに酔っぱらった中年男が哀調を帯びたスーダラ節を歌っていました。奇妙なことに、時々思い出します。
 チョイト一杯のつもりで飲んで
 いつの間にやらはしご酒
 気がつきゃホームのベンチでゴロ寝
 これじゃ体にいいわきゃないよ
 分かっちゃいるけどやめられない……。
ちょっとだけ、……これは悪魔がいつも口にする、ありふれた手口ではないでしょうか。ダビデも、屋上からバテ・シェバのヌードを見た時、やはり、ちょっとだけだと、バテ・シェバを召し寄せたことでしょう。ユダが、仲間の財布から金をくすねた時も、ちょっとだけのつもりだったでしょう。しかし、ダビデもイスカリオテ・ユダも、それではすみませんでした。自分の中にあるちょっとだけという心のメカニズムを反省してみる必要があります。

 


◆谷底にあるミルトスの木……。

2014年09月26日 06時58分47秒 | 聖書

(ゼカリヤ一・八)

この章の幻は、ゼカリヤの時代のイスラエルの状態を記したものである。しかし、私たちに対する意義を考えるなら、今日の世にある神の教会について述べていると言えるだろう。
教会は谷底に繁茂するミルトスの木にたとえられる。心を留めて見ないと、それは隠れていて人目につかず、誉れを求めようともしないし、また注意をひこうともしない。教会は、そのかしらである主のように栄光をもつ。しかしその栄光は肉の目からは隠されている。教会がそのすべての光彩を放つ時は、まだ来ていないからである。
またこの聖句によって、私たちは平安を教えられる。それはあらしがどれほど山頂に吹きつけようとも、谷底のミルトスの木は静かだからである。ごつごつした岩の多いアルプスの高峰で暴風雨が猛威をふるう時も、神の都を喜ばせる川の流れる谷間では、静かな岸辺にミルトスの木が茂り、猛烈な風にも揺れ動くことはない。神の教会の内部の平静はなんとすばらしいものか。反対があり迫害があっても、教会はこの世の与えることのできない、またこの世によっては奪われることのない平安をもっている。人のすべての考えにまさる神の平安が、神の民の心と思いとを守っている。
この幻は、聖徒たちの平和な不断の成長を力強く表してはいないだろうか。ミルトスの木は落葉樹ではなく常緑樹である。そして教会も、最悪の事態に立ち至ってもなお幸いな恵みの緑を失わない。否、厳寒が来れば来るほど、ますますその緑を濃くする。最も厳しい逆境の時に、教会は最も繁栄した。
それゆえ、この聖句は勝利を暗示する。ミルトスの木は平和の象徴であり、かつ勝利を暗示する。勝利者の額はミルトスの木や月桂樹をもって飾られた。そして教会も常に勝利してはいなかったか。すべてのクリスチャンは、自分を愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となるのではないだろうか。聖徒たちは生きている時は平和の中におり、死んでからは勝利の腕の中に眠る者ではないだろうか。

 


第2サムエル記18章28-30節

2014年09月26日 06時57分30秒 | 聖書

18:29 王が、「若者アブシャロムは無事か」と聞くと、アヒマアツは答えた。「ヨアブが王の家来のこのしもべを遣わすとき、私は、何か大騒ぎの起こるのを見ましたが、何があったのか知りません。」



 アヒマアツは、イスラエルがアブシャロムに対して勝利したことを伝えれば、ダビデ王はとても喜ぶと思っていました。

従って、その喜びを王に伝えて、自分も王から何か賞賛の言葉でも与えられることを望みました。

 ところが、ダビデ王が民の勝利を聞いた時、まず心配したことはアブシャロムのことでした。

彼には予想外のことでしたので、この王の息子の死については、そのことを告げることが出来ませんでした。

ですから、自分がヨアブから遣わされる時に、何か大騒ぎがありましたということのみを語るのが精一杯でした。

王に悲しみをもたらすことが出来なかったのです。

ダビデはアブシャロムの反乱を恐れていました。

しかし、彼も自分の息子ですので、彼の死それ自体を望んでいたわけではありません。

従って、彼にとっては、戦いの勝利よりも、親として息子の命そのものの方が、より心配であったのです。


テモテへの手紙 第一 3章2節(イザヤ書39章)

2014年09月26日 06時54分50秒 | 聖書

★ ですから、 監督はこういう人でなければなりません。

■O:今日のコラム

皆さんはスポーツ観戦は好きですか?サッカー、野球、バスケットボール、アメリカンフットボールなど、特にチームプレーのスポーツは見ていても、とてもエキサイティングです。そこではトレーニングされたプロフェッショナルの選手通しの高いレベルの戦いと共に、彼らをまとめあげる監督の采配も大きく試合を左右します。今日は、監督のことについて、聖書から学んでみたいと思います。

監督は扇の要のような存在です。いくら素晴らしいメンバーがいたとしても、肝心の要が弱ければ崩壊してしまいます。聖書は監督になる人の資質はどうであると言っているのでしょうか。

「ですから、 監督はこういう人でなければなりません。 すなわち、 非難されるところがなく、 ひとりの妻の夫であり、 自分を制し、 慎み深く、 品位があり、 よくもてなし、 教える能力があり、酒飲みでなく、 暴力をふるわず、 温和で、 争わず、 金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、 十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。--自分自身の家庭を治めることを知らない人が、 どうして神の教会の世話をすることができるでしょう-- 」(2-5節)

ここに書かれていることをひとつひとつ丁寧に説明する必要はないでしょう。書かれているそのままの人が監督の資質です。わかりにくいのであれば、その逆を考えてみるとわかりやすいかもしれません。「いつも人から避難され、たくさんの女性と関係を持ち、自分勝手で、遠慮がなく、下品であり、全く人のことを顧みず、人を教えても何を言ってるのかさっぱりわからず、大酒飲みで、暴力をいつもふるい、怒りっぽく、争い好きで、お金のことしか考えず、自分の家庭をなすがままにして、子どもにへつらい好き勝手にさせている人です。」こんな人に従いたいと思うでしょうか?私は遠慮しておきます。

社会において、自分が管理職などの立場に立っているのであれば、前者のような監督を目指しましょう。そうすると、部下は喜んであなたに協力してくれるようになり、最高のチームになることができると思います。では、どうすればこのような監督になれるのでしょうか。このみことばを宣言するのです。何度も何度も、毎朝仕事が始まる前に最低4回は声に出して宣言して、「主よ、私を今日、このような監督に変えて下さい。人々に仕えるリーダーとさせて下さい。」と祈りましょう。

また、皆さんが監督の下にあるのであれば、監督がこのような人になることができるよう、とりなし祈りましょう。もし、あなたの監督が後者のように悪い監督であると感じるなら、実は問題はその監督ではなく、あなた自身にあります。まず自分の目の中の梁(はり)を取り除いてから、人の目の中のちりを取り除きましょう。人を批判したくなった時に私たちが取る態度はそれを口にだすのではなく、すぐさまに自分自身が悔い改め、とりなすのです。

例えば、「主よ、あの監督は自分勝手でなりません。しかし主よ、まず私が悔い改めます。あの監督をさばいてしまう私を許してください。そして、あなたの視点でその人を見ることができるよう私を造りかえて下さい。あの監督の弱さである、自分かってな部分に主が触れて下さり、助けて下さいますように。イエス様のお名前で。アーメン。」というように。

残念ながら、人を変えることはかなり難しいことです。もっと簡単な方法は自分が変わることです。主によって変えられることです。私たちは主に愛され、天にある全てのものを受けつぐ資格を得たものです。であれば、その特権を充分に用いて、良い監督を目指し、また、監督のためにとりなすものとなりましょう。
また、このようにも書いています。「また、 信者になったばかりの人であってはいけません。 高慢になって、 悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、 教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。 そしりを受け、 悪魔のわなに陥らないためです。」(6-7節)

監督の資質として、経験というものも必要だということです。上のような良い資質を持って長い間仕える者は、自分の仕えている範囲を超えていい影響を及ぼしていくでしょう。もし、その監督の影響が内にのみでとどまっているなら、その監督はもう一歩ということになります。本当に素晴らしい監督は自分が仕えている時だけいい監督なのではなく、むしろ自分が仕えていないところで良い監督として振舞っている人でしょう。つまり、良い資質がその人の生き方そのものに鳴っているので、頑張って良い監督を演じなくても、自然に良い監督になっていくのです。

私たちにとっての最高の良い監督とは誰でしょうか。そうです、イエス様です。「あなたがたは、 羊のようにさまよっていましたが、 今は、 自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(1ペテロ2:25)イエス様は良い羊飼いです。天でも地でも一切の権威を持っている主の主、永遠の大祭司なるお方です。そのような王の王であるお方が誰よりも仕える姿を取り、死にまで従い十字架にかかって下さり、力強く死を打ち破りよみがえられました。私たちはキリストの弟子であるなら、師匠の足あとに従う必要があります。

私たちが良い監督になるために必要なこと。それは主イエスを見つめ続けるということです。はとのように、ただ主だけ一点を見つめて歩む時、私たちは主に似たものと変えられていくでしょう。私たちは王家の血筋を引く祭司として呼ばれています。であれば、それぞれが置かれている場所で私たちすべての者は良き監督としてその場を治めなければなりません。これは来るべき日に備えた訓練です。主が戻って来られた後は私たちは王としてこの地を治めるようになります。だから、今からその訓練と経験を沢山つんでおきましょう。


■A:考えてみよう

私たちが来るべき日に王となるために、今からできる訓練はなんだろう?毎日の生活を今までと歩んでいていいだろうか?同じような生活の中にもたくさんの主の奇跡があり、またたくさんの祈りの必要があるはずです。そのことに気づく信仰の目が開かれていきますように。そして、みことばに従順して栄光から栄光へと主の似姿に変えられていきますように。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月25日(木)のつぶやき

2014年09月26日 01時34分04秒 | キリスト教