座間コミニティー

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◆しかし、御霊によって導かれるなら、

2014年09月06日 16時28分47秒 | 聖書

あなたがたは律法の下にはいません。(ガラテヤ五・一八)

律法の観点から自己の品性と位置とをながめる人は、もし賢明なら、その観察の最初から失望するであろう。もし私たちが律法の立場からさばかれるとすれば、生きている者で義とされる者は一人もいないからだ。
神の前における私の状態を考える時、問題は「私は律法の前に完全であるか」ではなく、「私はキリスト・イエスにあって完全であるか」ということである。これは、非常な相違である。私たちは「生まれつき自分に罪があるか」と尋ねる必要はなく、「私は罪と汚れのために開かれている泉によって洗われたか」ということが大切なのである。「私は神に喜ばれているか」ではなく、「私は愛する御子によって受け入れられているか」ということである。
クリスチャンは、シナイの頂で与えられた十戒に救いの証拠を探して、「私は救われているだろうか」と心配し始める。しかし、自分の肩書きをカルバリの光に照らして読むほうがはるかによい。彼は「私の信仰には不信仰が混じっている。それは私を救うことができない」と言う。しかし、もし彼が自分の信仰ではなく、信仰の対象について考えていたら、次のように言ったであろう。「主には失敗はない。だから私は安全だ」と。彼は自分の希望を嘆いて言う。「おお、私は現在の事で心労し、私の希望は痛められ、曇らされている。どうして私は受け入れられよう。」彼が、もし希望の基礎を見つめていたならば、神の御約束が厳然と立っており、私たちの疑いがどうであれ、神の誓いと御約束は決して廃されないことを見たに違いない。
ああ、信者よ。律法の足かせをつけているよりも、聖霊によって福音の自由に導かれるほうが、常に安全なのである。あなたがどんな人間であるかということより、キリストがどんな方であられるかによって、自分を判断せよ。サタンはあなたの罪深さと不完全とを思い起こさせて、あなたの平和をだいなしにしようとする。あなたはただ忠実に福音を固守し、奴隷のくびきを拒むことによってのみ、その告発に対抗できる。

 


「あなたが神の子なら、

2014年09月06日 16時28分04秒 | 聖書

この石にパンになるように、命じなさい」(マタイ4:3)

40日40夜断食し、空腹の主に、サタンは「石をパンに変えて、食べたら?」と語りかけて来た。
「神の子なのだから、何でも出来るのだから、自分の空腹を自分で満たしたら?今死んだなら元も子もないよ。
人類を救うんだろ。何としてもまずは生き延びなくちゃ」と。
御父から与えられるものによって生きるのでなく、自分の判断と自力で事を行なうように仕向ける。
又、「世界には沢山の飢餓に苦しむ人々がいる。
死んで行くそれらの人々が救えないで、何の救い主か。
食べ物を与えて、彼らを救うべきではないか」このような意味合いの誘惑であるかも知れない。
サタンはこの世の理性、常識、知識にかなった、最もらしい誘惑を持って来る。
この世の理性で対応すると、サタンに説得されてしまう。
主は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」と、神の言葉でサタンを撃退された。
最も重大な事は、もし主が石をパンに変えて食べられたなら、神によってでなく、サタンの指示によって動く事になる。
源がサタンになり、サタンが主導者になってしまう。
主はサタンの申し出を、きっぱり拒否された。
主は「と書いてある」と御言葉に立たれた。
私達はどうか。サタンと会話し、ああだ、こうだと自分の思いに誘導され、自分の思いに立つとやられてしまう。
神様!と叫び、御言葉握ろう。
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サタンは無いものを有るかのように巧みにしかけてくる。
自分で戦ってはいけない。神様に目を転じ、みことばをしっかり握って歩もう。
今日もサタンを意識しながら歩もう。


今日の聖人の記念日

2014年09月06日 08時11分51秒 | キリスト教

聖カグノールド司教

?-633年

 カグノールドは、聖コロンバンとともに宣教に励んだ人物であり、コロンバンが建てたフランスのリュクセイの修道院の司祭であった。この修道院からは多くの聖人が出て、人びとの信仰生活を導き7世紀には、フランスで最も重要な修道院といわれた。
 コロンバンは、アイルランドの厳格な修道規則に従って儀式を重んじたため、フランスのメロヴィング王家の反感を買い、さらに610年にテオドリック2世王の不道徳な行為を批判したことで、フランスを追放された。そのとき、カグノールドもコロンバンに従ってボーデン湖の近くに移り、宣教師として働いた。 612年以後は、イタリアのボッビオの新しい修道院で暮らした。615年にコロンバンが亡くなった後、カグノールドはラオン市の司教となって、教会のために力を尽くした。


◆主によりたのむために

2014年09月06日 08時10分34秒 | 聖書

耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。
あなたの心を私の知識に向けよ。
これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。
これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。
あなたが主に拠り頼むことができるように、
私はきょう、特にあなたに教える。(箴言二二17―19)

神のことばに心の耳を傾けよ。神のことばを心の中にためておけ。いつもそれを口に唱えることができるように、暗唱せよ。そうすれば、いつでも神によりたのむことができて、力強く生き抜くことができる。――このようにいわれています。
神によりたのんで生きることを、多くの人は弱々しい女々しい生き方だと思っています。しかし、策略・金権・エゴなどの人間的な力にたよらないで、目には見えませんが、主の正しさ・きよさ・愛にのみよりたのんで生きることほど、勇敢で力強い生き方はないと、私は心の底から思います。
さて、いつでも神を神として認め、どんな時にも神によりたのむ方法があります。第一に、普段から神のことばに耳を傾け、第二に、その神のことばを心の中に蓄え、第三に、自然とくちびるにのぼるよう暗唱しておくことだと思います。
有名な、古い話があります。四十歳くらいの実業家が破産して、にっちもさっちもいかなくなりました。ある夜、神戸の六甲山で、いよいよ自殺を決行しようとしたのです。しばらく瞑想していると、自然に「すべて労する者・重荷を負う者、我に来れ、我なんじらを休ません」ということばが、くちびるから出てくるではありませんか。いったい、だれのことばだろう。いったいだれがこう言っているのだろう。――考えていると、やっと分かりました。何年か前、神戸の湊川の教会へ行って覚えた、聖書にあるイエス・キリストのことばだったのです(マタイ一一28)。その人は、自殺を思いとどまって帰り、また教会に行きました。そして、力強い新しい人生に向かって出発したのです(箴言三5―6参照)。

 


◆曲がった邪悪な世代の中にあって……

2014年09月06日 08時09分49秒 | 聖書

彼らの間で世の光として輝くためです。(ピリピ二・一五、一六)

私たちは物を明白にするために光を用いる。クリスチャンはこの世において光り輝き、一週間も相手と共にいるならば、必ず福音を知らせるというようでなければならない。彼の会話は、それを聞く者のすべてが、彼はだれのものであり、だれに仕えているかを明確に知り得るものでなければならない。また日々の行動には、イエスの御姿が反映していなければならない。光は導くためにある。私たちは暗黒にいる周囲の人を助けなければならない。彼らにいのちのことばを伝えなければならない。罪人に救い主を指し示し、疲れた者に聖なる安息所を教えなければならない。人々は聖書を読みながらも、その意味を理解できない場合がある。ピリポのように、私たちは問う者に対して、いつでも神のみことばの意味と救いの道と信仰生活の何たるかを答える準備ができていなければならない。
光はまた警告のために用いられる。岩の多い所や浅瀬には必ず灯台が建てられている。クリスチャンは、この世の至る所に多くの偽りの光が輝いていることを知るべきである。したがって、正しい光が必要である。サタンの配下は、常に諸方を巡り、不信仰な者を快楽の名のもとに罪に誘惑している。偽りの光を掲げている。私たちは、すべての危険な岩に真の光を掲げ、あらゆる罪の一つ一つを指摘し、その結果がどれほど恐ろしいかを告げ、すべての人の血に対して責任のない者となり、世の光となって輝かなければならない。
光はまた人を非常に力づける。クリスチャンもそうである。口には親切なことばをもち、心には同情を抱いて人を慰める者でありたい。行く所に光をもたらし、周囲に幸いをまき散らさなければならない。
 恵みの御霊なる主よ。私に宿ってください
 そうすれば、私も恵みに進み
 人を助け、いやすことばをもって
 あなたのいのちを内に現し
 雄々しく、柔和な行いで
 救い主キリストを証しします

 


ルカによる福音書20章47節(イザヤ書20章)

2014年09月06日 08時07分07秒 | 聖書

 ★  また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」

■O:今日のコラム

この箇所は別訳で見ると、「見せかけの長い祈りをする。」と書かれています。
見せかけでも長い間祈ることは忍耐も必要だし、祈らないより全然マシだよなぁ。と思いますが、

人はうわべを見るが、主は心を見る。(サムエル記 第一 16章7節)です。
主は心を見るお方です。動機が何であるかを問うお方です。

私たちはなぜ祈るのでしょうか? なんで24時間眠りを捧げてまで祈り続けるんでしょうか?

それは、花婿なるイエス様を愛しているからです。私たちを命をかけて愛してくれたイエス様と共に時間を過ごしたいからです。

ここで言われている律法学者たちのように人からの評価、長時間祈っていてすごいね~!と言われるためでは決してありません。

SHOPに長時間いると、なんで祈ってるんだ? とふと思う時があります。
でも毎回ここに帰って来ます。

イエス様を愛しているから、最も愛する方と共に時間を過ごしたいから祈るんだと。
私の住まいは主の臨在であり、主の臨在に全ての解決があります。

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(詩篇27篇4節)

気が狂いそうな程忙しくても、どれだけ落ち込んでも、人間関係上手くいかなくても、目の前の現状が良くても悪くても、主の御前に進み行き、主の御顔を拝する時、新しい力、答え、主にある喜びを得ます。

よくメッセージの中で共に時間を過ごすものに似て行くという例えを聞きますが、主と共に時間を過ごすのであれば主の似姿に変えられていく、栄光から栄光へとつくり変えられると信じます。

ここで言われている律法学者たちのように人によく見られたいから、何か評価されたいから長く祈るのではなく、純粋に花婿イエスを愛するから共に時間を過ごしたいと願います。

■A:考えてみよう

私たちが祈る時、人に評価されたいから祈る、人に言われたから仕方なく祈るではなく、花婿イエスを愛するから祈る、もーっと主よあなたと共にいたい、あなたを知りたい、味わいたい!その飢え乾きが起こりますように!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月5日(金)のつぶやき

2014年09月06日 01時49分54秒 | キリスト教