座間コミニティー

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◆主よ。私はあなたに呼ばわります。

2014年07月02日 16時19分49秒 | 聖書

私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。(詩篇二八・一)

叫びは悲しみの自然な表現であり、ほかに訴えるすべをいっさい失った時、最もふさわしいことばである。しかし、叫びはただ主に向かってのみなされなければならない。人に向かって叫ぶことは無益だからである。主が私たちの叫びを喜んで聞かれ、私たちを助ける力をもっておられることを考えるならば、私たちは、自分のすべての訴えを、ただちに私たちの救いの神に向かってなすべき十分な理由をもつ。さばきの日に、岩に向かって叫ぶことはむだである。しかし、私たちの岩であるキリストは、私たちの叫びを待っておられる。
「どうか私に耳を閉じないでください。」単なる形式主義者は、祈りの答えを聞かなくても満足するかもしれない。しかし、真の嘆願者は、単に祈りの結果心が静められ、自分の意志が征服されただけでは満足しない。彼らはさらに進んで、天から現実の答えを得なければ、心を安んずることをしない。彼らは、神のごくしばしの沈黙さえも恐れる。神の御声は、しばしば荒野を揺り動かすほど恐ろしい。しかし熱心な嘆願者にとって、神の沈黙は同様に恐怖に満ちたものである。私たちは、神が耳を閉ざされたかと思われる時、同じように自分の口を閉ざしてはならない。むしろ、より熱心に叫べ。私たちの声が熱心と悲哀に震えるとき、神は決して、長く私たちの祈りを聞くのを拒むことはされない。主が私たちの祈りに対して、永久に沈黙を守られることが万一あるとすれば、それは私たちにとって、どれほど恐ろしいことであろう。
「私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。」祈りに答える神がおられなければ、私たちは墓穴にある死人よりもあわれな状態であり、地獄の滅びゆく者たちと同じ水準になる。私たちは祈りの答えを得なければならない。たとえどんなことがあっても、それを必要とする。主は必ず、動揺する私たちの心に平和を語られる。主は決して、ご自身が選ばれた者が滅びるのをお許しにならないからである。

 


「というのは、その日は火とともに現われ、

2014年07月02日 16時18分59秒 | 聖書

この火がその力で各人の働きの真価をためすからです」(Ⅰコリント3:13)

私達が建て上げた家は、神によって試される。
テストされる。
火によって、信仰の実質がテストされるのだ。
私達はどんな家を建てているだろう。
「どのように建てるかに注意」とあるので、クリスチャンなら良いわけでなく、どのようなクリスチャンかが重要だ。
かの日の報いが、全く異なる事になる。
土台はイエス・キリストであり、金銀、宝石で建てるとは、自分の知恵と力でなく、御霊と共に、御霊に導かれて築き上げる信仰生活だ。
木、わら、草とは、自分の肉の判断、肉の力、自分の思いで築き上げる生活だ。
そして、それらはかの日に、それ相応に報いられる。
しかし、それは、この世でも賞賛を得たい、報いを得たいという肉、悪魔の誘惑との常に戦いだ。
かの日のテストと同時に、日々真価が試される試験でもある。
自分の力と自分の思いで、肉で為した事はすべて燃え尽きてしまう。
主に頼り、御霊に導かれてした事はかの日に残る。
<どのように>建て上げるかは極めて重要だ。
心して、日々を歩もう。
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どのような家を建てているだろう。
意識して歩んでいるだろうか。
今日からでも遅くない、しっかり御霊様を選んで歩もう。


今日の聖人の記念日

2014年07月02日 07時23分50秒 | キリスト教

聖クリストフォロ

3世紀ごろ

 クリストフォロは、レプローブスという名であったといわれる。カナンの上流家庭に生まれ、ローマ皇帝デキウスの迫害のときに殉教したと伝えられている。大男で、とても力持ちであった彼は、世界で一番強い王に仕えることを望み、その王に出会えることを待ちながら、旅人を背負って川を渡る仕事をしていた。そしてある暴風雨の夜、子どもの姿をしたキリストを肩に乗せて川を渡り、真の王とは誰かを悟ったのだった。このときから、クリストフォロス(ギリシャ語で「キリストを背負う者」という意味)の名を自分に付けた。

 12世紀ごろから、ドイツを中心に彼の伝説が広まり、クリストフォロが描かれた画を見た者は安全に暮らせる、とまでいわれた。彼は、旅行者や航海者、現代では自動車の運転者の保護の聖人として知られている。


◆あ ざ け る な

2014年07月02日 07時22分32秒 | 聖書

貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。
人の災害を喜ぶ者は罰を免れない。(箴言一七5)

インドやタイを旅して最初に心を打たれたことは、どんな人と会っても両手を合わせ、その人を拝むようにしてあいさつすることでした。その国の人々にとっては、それはただの形式にすぎなくなっているのかもしれません。しかし、どんな人をもばかにしないで、ああ、この人も神が造られ神に愛されているすばらしい大切な人なのだと心から手を合わせる。――そんな心と態度は大切な美しいものではないでしょうか。
イエス・キリストは、こんな話をされました。ラザロというみじめな病気の物乞いが、大金持ちの家の前に、いつも寝ていました。犬が寄ってきて彼の傷をなめました。その屋敷の主人は、召使に命じて、毎日残飯を投げ与えていました。そして、自分こそ、その物乞いを生かしているくらいに考えていたでしょう。ところがイエス・キリストは、永遠の世界でのこの二人の姿を私たちに見せてくださいました。ラザロは、アブラハムのふところでやすらい、金持ちは底なき淵の中で嘆き苦しむのです(ルカ一六19―26参照)。
聖書は、貧しい人を見くだして食べ物を投げてやるような慈善をけっして教えていません。貧しい人の友、悲しんでいる人の隣人、病んでいる人のそばに座る人になるように教えているのです。イエス・キリストは、私たちを見くだして号令をかけるためにこの世に来られたのではありません。罪人の友となり、彼らのためにいのちを投げ出されたのです。
神が造り神が愛しておられる人をばかにする人は、神をばかにしていることになります。そんな人は、必ず罰を受けます。それは、自分を理解してくれる隣人を失う孤独という罰です。神はまた、人の幸せをねたみ、人の不幸を喜ぶ自分中心や自分勝手をも、隣人を隣人とせず神をそしる罪として、同じように罰されるのです。

 


◆まことに私たちの心は主を喜ぶ。

2014年07月02日 07時21分29秒 | 聖書

(詩篇三三・二一)

クリスチャンが最も深刻な苦難の中でもなお喜ぶことができるのは、幸いな事実である。もし困難が彼らを取り囲んでも、彼らは歌い続ける。それだけでなく、多くの小鳥のように、かごの中にいる時に最もよく歌うのである。波が彼らの上を越えるかもしれない。しかし彼らのたましいはすぐに水面に浮かび上がって神の御顔の光を見る。彼らには、常に水の上に頭を上げていることのできる浮力があり、あらしの中でも「神はわれらと共にいます」と歌うのである。この栄光はだれに帰すべきであろうか。イエスである。すべてはイエスによるのである。
必ずしも困難は信者に慰めを与えるものではないが、神の御子が信者と共に火の燃える炉の中におられるということが、その心を喜びで満たすのである。彼が病み苦しんでいる時にも、イエスは彼を訪れ、彼のためにベッドを整えられる。彼は瀕死の場にあり、ヨルダンの冷たい水はその首まで上がってきている。しかしイエスは御手を彼に置き、「愛する者よ。恐れるな。死は祝福である。それは苦くなく甘露のように甘い。なぜならそれは神の御座から流れているからだ」と叫ばれる。聖徒が流れを渡っている時、川の波が彼を包み、その心が臆していても、同じ声がその耳に響く。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」と。彼が不可知な無限の境界に近づき、暗い世界に入ることを恐れる時にもイエスは言われる。「恐れるな。あなたがたの父は王国をあなたがたに与えることを喜ばれる」と。
このように力づけられ慰められた信者は、死を恐れない。否、むしろ喜びをもって旅立ちたいと思う。なぜなら彼は今イエスを明けの明星のように見ているが、太陽のように目のあたりに見たいと望むからである。実にイエスのご臨在こそ、とりもなおさず私たちの望む天国そのものなのである。
イエスは「私の輝く昼の栄光、私の夜の慰め」であられる。

 


第1サムエル記2章1-4節

2014年07月02日 07時20分03秒 | 聖書

2:1 この後、ダビデは主に伺って言った。「ユダの一つの町へ上って行くべきでしょうか。」すると【主】は彼に、「上って行け」と仰せられた。ダビデが、「どこへ上るのでしょうか」と聞くと、主は、「ヘブロンへ」と仰せられた。



 イスラエルを支配する王がいなくなった今、今度は自分が王となることをダビデは認識していました。

ですから、自分がなすべき事として、まず登るべき町のことを神様に尋ねました。

それはヘブロンであると伝えられました。

ヘブロンは、当時の南のユダの大きな町で、戦略的にも重要な町でした。

そこで、彼は自分の家族を連れて移り住みました。

またそのヘブロンに行った時に、ユダの人々が来て、ダビデに油を注ぎました。

彼を王としたのです。

王としたというのは、自分たちの王としたということで、南のユダの地方の王としたということです。

 多くの地をペリシテ人が支配している中で、彼は南のユダの地方で、まず王として支配者の地位に就いたのです。

また、ダビデが主に、どこに行くべきでしょうかと聞いたことに、支配者としての意欲が示されていたのです。


申命記23章3節(コリント人への手紙 第一 7章)

2014年07月02日 07時16分56秒 | 聖書

★  アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、入ることはできない。

■O:今日のコラム

ものすごく厳しい命令ですよね。十代目の子孫さえ、決して、主の集会に入れない、この素晴らしい祝福の中に預かることができないって考えてみるだけでつらい・・・

なぜ、こんなことを宣告されてしまったのでしょうか?

それは、次の節にあるように、パンと水をもってイスラエルの民を祝福せず、また、イスラエルを呪おうとした(民数記22章)からです。ここから、イスラエルを祝福することがどれほどに重要か学ぶ事ができます。

しかし、この後に続く、7、8節にはエドム人とエジプト人について書いてあるのですが、彼らの場合、三代目には、主の集会に入れるとあります。

エドム人もエジプト人も、アモン人とモアブ人と同じように、神様に罪を犯しているし、イスラエルの民に対してよいことを行っていない、祝福していないのに、どうして、こんなにも差があるのでしょうか?

それは、アモン人とモアブ人は、神様の忌み嫌う罪をイスラエルの民に犯させ、イスラエルを汚したからです。

民数記25章に、モアブの娘たちが自分たちの神々にいけにえを捧げるためにイスラエルの民を招いた記述があります。また、31章にはミデヤン人と戦ったイスラエルの民がそこの女を生かしておいたら、モーセが激怒。なぜなら、ミデヤン人の女も、他の神々を拝み、バラクに通じる者達であり、民数記25章と同じ事がイスラエルに起こってはならないと考えたからです。

出エジプトの時代、エドム人とエジプト人は、イスラエルを嫌い、苦役を課したりしただけであって、彼らと関わり、罪を浸透させることは特にありませんでした。しかし、アモン人とモアブ人は、昨日のデボーション箇所である 第一 コリント16章にある不品行、偶像礼拝、姦淫などの罪をもって、神の聖なる民をけがしてしまったのです。ここに大きな違いがあります。

それで、主の集会に決して入れない!!と宣告されてしまったのです。

がっ、しかし。。。

皆さん、この主の集会から断絶されてしまったモアブ人から、あるヒロインが生まれているのですが、誰だか分かります?

ルツです!!

ルツはモアブ人。そして、彼女はユダヤ人と結婚しましたが、自分が生まれ育った神々をその家族に入れず、逆に夫の信じている真実な神様を信じ、この神様を「私の神です」と言いきりました(ルツ記1章16節)。これは、民数記で起こった事件の反対と言っても無難でしょう。

本当は主の集会に決して入ることができなかった民族。しかし、ルツは、イスラエルの神様を知り、自分の神々と家族をすべてを捨て、神様と神様の選ばれた民族ユダヤ人に一生仕えることを選び、その信仰と真実さのゆえに、主はボアズを通して、彼女を恵みと祝福である主の集会に入らせました。

このルツの信仰を主は認め、彼女を主の集会に入れただけではなく、彼女をダビデ、そして救い主イエス様がお生まれになる家系に入れました。

私たちも、本当は主の集会に入ることができない異邦人です。しかし、イエス様により、恵みの道が開かれ、私たちの信仰によって、その集会に入れるようになりました。

ルツにとって、主の集会に入るのは簡単なことではなかったはずです。自分の神々、家族、故郷、すべてを捨てて、主に従う信仰によって入れたのです。このような信仰を主は今の時代でも求めていると私は思います。

■A:考えてみよう

今日、すべてを捨てて、「神様、あなたに従います」という決心を主にしていきましょう。

そして、アモン人やモアブ人がしたようにではなく、イスラエルを祝福する者になっていきましょう!

また、ルツのように、「イスラエルの神こそ私の神だ!!」という人々がヨルダン(アモン、モアブとはヨルダンのことです)から沢山出てくる事をとりなしていきましょう!!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月1日(火)のつぶやき

2014年07月02日 01時46分58秒 | キリスト教