座間コミニティー

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◆父がわたしにお与えになる者はみな、

2014年07月29日 15時49分35秒 | 聖書

わたしのところに来ます。(ヨハネ六・三七)

この宣言のみことばは、選びの教理を含む。父なる神がある人々をキリストに与えられるのである。それは、「有効召命」の教理を含む。与えられた人々は必ず来なければならず、また事実来るのである。彼らがいかに頑強に抵抗しても、暗やみの中から神の驚くべき光の中に導かれる。それは私たちに、信仰が欠くことのできないものであることを教える。キリストに与えられた人といっても、イエスに来るのでなければ救われないからである。キリスト・イエスという門を通る以外に、天国への道はない。父なる神が私たちの贖い主に与えられた者は、すべてそのみもとに来なければならない。したがって、キリストに来なければ、だれも天国に入ることはできない。
おお、この「来ます」ということばの含む力と尊厳よ。主は、彼らが来る力をもっているとも、来ることを欲するなら来ることができるとも言っておられない。「来ます」と言われる。主イエスはそのための使者であられる。みことばと御霊により、人々を穏やかに優しく、来ないではおられないようにさせて、婚礼の晩餐を食べさせてくださる。そしてこのことを、主は人間の自由意志を妨げることなく、恵みの力によってなさる。ある人の意志を私が支配しても、その人の意志は完全に自由であることがある。その時は強制が人間の心の法則に従って働くからである。イエスはこのことをご存じで、反抗できない議論をもって理解力に訴え、力強い理由をもって情に訴え、たましいのすべての力と情の上に不思議な聖霊の力を及ばせて、人を全く征服される。かつて反抗していた人も、愛によって征服されて、喜んで主のご支配に従うようになる。
しかし、神に選ばれた人であることをどのようにして知ることができよう。それは結果によって知ることができる。彼らが喜んでキリストを受け入れ、単純な偽りのない信仰をもってみもとに来て、救いのすべて、願いのすべてとして、主に憩うことによって。友よ。あなたはこのようにイエスのみもとに来た。

 

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「彼らはそれを聞くと、

2014年07月29日 15時48分52秒 | 聖書

年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。
女はそのままそこにいた。」(ヨハネ8:9)

 主は、姦淫の女を「石打ちの刑に」と訴えるパリサイ人や律法学者達に「罪の無い者が、石を投げよ」と言われた。
すると、石を投げる者がいなかった。
つまり、彼らは内側が照らされた。
自分を見た。そして、罪を認めたのだ。
真実が現わされようとしていた。
本当の自分の姿に正面から向き合うのか、それとも逃げるのか。
彼らは逃げた。主に導かれて、自分の罪を見たのに、それに向き合おうとせずに。
全員逃げた。しかし、女は逃げずに、そのままそこにいた。
さばきからも逃れようとせずに、どうなろうと、主のもとにとどまった。
自分の罪から逃げずに認めたのだ。
その時「罪に定めない」との赦しを受け取った。
私達はどうだろう。逃げるのか、それとも向き合い、自らの罪を認め、悔い改め、新しい歩みを始めるのか。
目をそらし逃げるなら、闇の中に陥って行き、ますます見えなくなる。
罪が見えるなら、光が臨んでいる証拠、悔い改めよう。
平安と癒しが来る。
----------------------
罪のない者、過ちを犯さない者などいない。
罪を示されたなら心から神様に祈ろう。
自分の罪、心の底の底を示された時、同時に赦しが待っているとは何という感謝か。

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今日の聖人の記念日

2014年07月29日 07時51分19秒 | キリスト教

聖マルタ

1世紀

 イエスの時代に、エルサレムの近くのベタニアに、兄弟であるマリアとラザロとともに住んでいた。彼女は、敬虔な生活を送っていた。聖書に「イエスはマルタとマリアと、ラザロを愛していた」(ヨハネ11.5)とあり、ラザロが死んだとき、マルタはイエスのもとに使いを送って、イエスへの信仰と信頼を表し、ラザロを生き返らせてもらった。その後もマルタはマリアとともにイエスに従った。

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◆借り手・貸し手

2014年07月29日 07時45分21秒 | 聖書

寄るべのない者に施しをするのは、
主に貸すことだ。
主がその善行に報いてくださる。   (箴言一九17)

韓国のすばらしい牧師で、清らかで力強い生活と働きをしている方が、こう言われたのを忘れることができません。「報いを望まないなんて、人間としてうそっぱちです。私は、やがて神さまからたくさんほめていただきたい、輝かしい冠をもらいたいのです。」そういえば使徒パウロも、「私は神から冠をいただく日をめざして一心不乱に走っています」と言いました(ピリピ三14参照)。私たちには、地上の人の報いを求めて生きるか、天の栄光ある神の報いを求めて生きるかの、二つに一つの生き方があるのではないでしょうか。そして私たちの多くは、あまりにも地上の褒賞ばかりを求めすぎるのではありませんか。
イエスは、街角に立ってラッパを吹き、自分の善行をひけらかすようなパリサイ的やり方をきらわれました。かえって、右手がしたことを左手に知らせるなと言い、また、お返しができないような飢えた者や渇いた者に、一かけらのパンや一杯の冷たい水をあげること、それこそ「わたしにしてくれたのだ」と言われました。そして、そのような人が受ける天での栄光に満ちた報いを語られたのです。
リビング・バイブルは、この箇所を「貧しい人を助けるのは神に貸すのだ。神は、すばらしい利息を払ってくださる」(英訳)という意味に訳しました。
寄るべのない人・貧しい人・病める人・困っている人が最後的に苦しんでいるのは、見捨てられた孤独と、愛されず必要とされていない苦しさです。あなたがそんな人の隣人になり、その人をも神は必要で生かしていてくださるのだと、あなたの無言の愛で分からせてあげることこそ、主に、貸しをつくるのです。そして、あなたが受ける天での報いは大きいのです。「あめにたから つめるものは げにもさちなるかな」と、讃美歌は歌います(讃美歌五一三番)。

 

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◆しかし私は絶えずあなたとともにいました。

2014年07月29日 07時44分22秒 | 聖書

(詩篇七三・二三)

「しかし」――アサフが神に告白したすべての愚かさと無知にもかかわらず、彼が救われ、受け入れられ、常に神の御前にある恵みを得ていたことは真実であり、確かである。自らの招いた損失と、心の虚偽、下劣さを十分に意識しつつも、なお輝かしい信仰の力により、彼は「しかし私は絶えずあなたとともにいました」と歌った。
主にある友よ。あなたはアサフの告白と感謝に入らなければならない。彼と同じ精神で、「しかし、私はキリストのものであるので、絶えず神とともにいました」と言うように努力しなければならない。
これは次のことを意味する。すなわち、私が常に主のみこころの中にあること――主は常に私のことを思い、私の益を図っておられるということ。次に、常に主の目の前にあること――主の目は決して眠ることなく、いつも私の幸いを見守っておられるということ。そして、何者も私を奪うことができず、絶えず私は主の御手の中にあること。祭司長が不断に十二の部族の名を胸につけていたように、常に主の心に記念として刻み込まれていることである。
おお、神様。あなたは常に、私をみこころに留めてくださっています。あなたの愛の心は絶えず私をあわれんでくださいます。あなたは常にその摂理により私の益を図ってくださいます。私を封印のようにあなたの腕につけてくださいます。
驚くべき恵み! 神様。あなたはキリストの中に私を見られます。そして私は軽蔑すべき者であるのに、私をキリストの衣をまとい、キリストの血で洗われた者として見てくださいます。こうして私は御前に受け入れられて立ちます。このように私は常にあなたの恵みの中にあり、「絶えずあなたとともに」います。
ここに試練と患難の中にあるたましいへの慰めがある。
「しかし」――友よ。このことばを心の中で言え。そしてこのみことばの与える平安を受け入れよ。「しかし私は絶えずあなたとともにいました。」

 

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第2サムエル記7章12-17節

2014年07月29日 07時43分00秒 | 聖書

7:12 「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家
を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」



 ダビデに対して、さらに主の言葉が告げられました。

それはダビデが死んだ後、主がダビデの王国のために一人の跡継をたてて、ダビデの王国を堅固なものとするということでした。

またその人物が、わたしの名のために一つの家を建てると告げられたのです。

 ここでは、その主の宮を建てるのはダビデではなくて、彼の跡継ぎであると語られています。

しかし、ダビデが主の宮を建てることが出来なくても、あなたに約束したとおりに、あなたの名を挙げ、祝福をして、この民と王国を守り、栄えさせようと告げてくださいました。

 人は事を図りますが、実現させてくださるのは主です。

ですから、私たちは主のために何もなしえなかったと言って焦る必要はなく、むしろ主の導き中で主の恵みに感謝して、主に従って生きることこそ大事だと知るのです。

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ガラテヤ人への手紙5章1節、詩篇59篇9、16-17節

2014年07月29日 07時40分07秒 | 聖書

 ★ガラ5:1  キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

★詩59:9、16-17  私の力、あなたを私は、見守ります。神は私のとりでです。

しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。

私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。神は私のとりで、私の恵みの神であられます。

■O:今日のコラム

7月29日の朝です。今日1日も天のお父さんの愛によって、イエス様の御名によって、聖霊様の力によって、一歩一歩歩んでいきましょう。僕らは、奴隷のくびきを負わされてはならないからです。

何故なら、
・イエス様の十字架が僕らを解放してくださったからです。
・主が僕らの力だからです。

・主が僕らのとりでだからです。別訳には「高きやぐら」となっていました。見張り台です。主御自身が、僕らのために絶えず見張り、とりなし祈ってくださるのです。聖霊様が僕らの内側で、深いうめきの中でとりなしてくださるのです。

ダビデさんは、この詩篇を賛美した時、サウル王からいよいよ追われ始める時でした。だからこそ、ダビデさんは、主を見続けることを宣言し、主も自分を見守り共に居てくださることを宣言しました。

・イエス様の復活によって、マイナスの奴隷から解放され、御子の御霊につながれ、義の奴隷、そして神様の子供とされているからです。

・御霊によって歩むことができるからです。
・僕らの内側に住んでくださる御霊の実を、僕らを通して結ばせてくださるためです。
・僕らが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて進むことができ、僕ら自身の力ではないからです。

だから、賛美しましょう。主の力を宣言し続けましょう。恵みを感謝しましょう。

僕らは、絶えず、聖霊様を歓迎しましょう。聖霊様によって、歩み続けていきましょう。

■A:考えてみよう

聖霊様を歓迎し、祈っていきましょう。イエス様を見続けていきましょう。天のお父さんの子供として、どの様に歩んでいけば良いか、聖霊様に聞いて進んでいきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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7月28日(月)のつぶやき

2014年07月29日 01時42分30秒 | キリスト教
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