座間コミニティー

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◆シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。

2014年06月24日 16時32分38秒 | 聖書

「……王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず……。」(ダニエル三・一六、一八)

この三人の聖なる子どもたち、否、むしろ戦士たちの男らしい勇気と、驚くべき救いの物語は、悪政下に苦しみ、死のあごにはさまれながらも堅く信仰に立ち、真理を掲げるクリスチャンを大いに励ます。特に若いクリスチャンは、信仰上の、また職業上のどのようなことにおいても、良心を犠牲にしないことをこの実例から学ぶべきである。誠実さを失うくらいなら、あなたはむしろすべてを失ったほうがよい。たとえすべてを失っても、澄みきった良心だけは、人間の胸を飾る最も高貴な宝石として大切に抱きしめるようにせよ。
狐火に惑わされてはならない。北極星のように神の権威に導かれよ。どんな危険を冒しても、正義に従え。たとえ今、何の益も与えられないように思われても、見えるところによってではなく、信仰によって歩め。主義のため損害を受けることがあっても、神に信頼せよ。神があなたの債務者となられるかどうかを見よ。主がこの世においても、次のみことばを行われるのを見よ。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
神の摂理によって、あなたが良心に従ったため損害を受けることがあったとしよう。主が、もしこの世の繁栄という銀貨を支払ってくださらないとしても、霊的な喜びという金貨をもって、必ず約束を果たされることを見いだすであろう。人のいのちは、その所有物の多い少ないによらないことを覚えよ。潔白な精神、罪過なき心、神の恵みと笑顔、それらをもつことは、オフィルの金山も産出できない、ツロとの貿易によっても得ることのできない莫大な富をもつことである。「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」一オンスの安らかな心は、一トンの金に相当する。

 


今日の聖人の記念日

2014年06月24日 09時56分38秒 | キリスト教

洗礼者聖ヨハネの誕生

1世紀

 ヨハネは、キリストに先立つ荒野の預言者といわれる。
 聖母マリアのいとこエリザベトは、エルサレム神殿の祭司ザカリアと結婚するが、子どもに恵まれなかった。あるとき、ザカリアは天使から、男の子が授かるだろうと言われた。年をとっていたが、エリザベトはみごもって男の子を産み、その子をヨハネと名付けた。

 ヨハネは、らくだの毛衣をまとい、腰に皮帯をしめて荒野に行き、いなごと野蜜を食べて暮らしながら、イエスの到来に備えて人々を改心させるために、教えを宣べていた。多くの人々が、ヨハネに罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けた。イエスも、ヨハネから洗礼を受けられた。イエスは、「女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現われなかった」と彼について述べている。ヨハネは、ヘロデ王の悪い行いを戒めたことがもとで捕えられ、処刑された。彼は、「イエスを栄えさせ、自分は姿を消すもの」としての生涯を送ったのであった。


◆へりくだりと幸い

2014年06月24日 09時55分23秒 | 聖書

へりくだって貧しい者とともにいるのは、
高ぶる者とともにいて、
分捕り物を分けるのにまさる。    (箴言一六19)

自分は、あんな若造・無教養の人・貧乏な人・力のない人の仲間ではない。もっと高級なえらい者の仲間だと背伸びしている人がいます。そして、そんな人たちとより豊かな富・高い教養・大切な仕事などの分捕り物の分け前にあずかっていると思いこんでいるのです。いいえ、人ごとではありません。あなたや私の中にも、そんな心があるのではないでしょうか。たとえば「今の若い者は」と言い、「自分はキャリアが違う」「女子どもなんか」などと言って、自分を一段違ったところに置いて見ていませんか。
イエス・キリストは、「心が柔和な、へりくだった人は地を相続する」(マタイ五5参照)と言われました。へりくだった人こそ、この世界で、人生の一番よいうるわしいものを相続するというのです。そういう人は、若い後輩の中に、自分の妻や子どもや部下の中に、貧しい人々や教養のない人々の中に、すばらしいものを見つけます。心は開かれていて人々と心から何でも語り合い、愛や励ましや導きを受けることができます。また、与えることもできるのです。
しかし高ぶった人は、心を開いて話せる人がなく、血の通った交わりがありません。自分の妻とも深い話ができないし、自分の子どもとすら話せないのです。高ぶった人には人が理解できず、愛とかいのちとかが分からないからです。
修養や我慢によっては、へりくだりは学べません。ほんもののへりくだりは、神でありながら人となり、罪人・酒飲み・遊女の友となってくださったイエス・キリストからのみ学べるのです。その生涯の最後に十字架にかかってくださり、恥多き死を経験されたイエス・キリストこそ、人の心をくだき、ゆるし、きよめ、へりくだらせてくださるのです。

 


◆群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。

2014年06月24日 09時54分32秒 | 聖書

「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ一一・二七、二八)

ある人たちは、主の母になることは非常な特権であるように考える。主の母が、私たちにはおよそ望めない方法で、主の心を洞察できたと想像するからである。これは一応もっともであるが、よく考えるとそうではない。マリヤも、他の人以上には知らなかった。彼女はその知っていることだけを心に留めていた。しかしどの福音書を開いて見ても、彼女がキリストの弟子たちより信仰の進んだ信者であったとは記されていない。彼女の知ったすべてのことを、私たちもまた見いだすことができるのである。
このように語るのは、大言壮語のように思えるであろうか。否、ここには適切な証しの聖句がある。「主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」
さらに次のみことばを覚えよ。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
このように主は神のことを腹蔵なく私たちに語り、私たちの益になることは少しも隠すことをされない。さらに「もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう」と言われるのである。今日主は、ご自身を世には示さないで、私たちに示してくださるのではないだろうか。たしかにそうである。
ゆえに私たちは、無知にも「あなたを産んだ腹……は幸いです」と叫ぶことはないようにしよう。みことばを聞き、それを守ることによって、第一に、イエスの母マリヤと同様な救い主との真実の交わりに入り、次に、彼女が得たと思われるキリストの心の秘密を知り、それゆえに、神をたたえよう。
こうした特権を得たたましいはまことに幸いである。

 


第1サムエル記30章16-20節

2014年06月24日 09時53分16秒 | 聖書

10:17 そこでダビデは、その夕暮れから次の夕方まで彼らを打った。らくだに乗って逃げた四百人の若い者たちのほかは、ひとりものがれおおせなかった。
30:18 こうしてダビデは、アマレクが奪い取ったものを全部、取り戻した。彼のふたりの妻も取り戻した。



 若者に導かれて、アマレク人が集まっている所にいってみると、彼らは沢山の分捕物をペリシテ人やユダの人々から奪い取っていたので、それを使ってお祭り騒ぎをしていました。

またその人々は、広がっていました。

そこでダビデは共に行った人々と共に、酔っている彼らに油断が生じる夕方になってから襲い、翌朝まで彼らを打ち続けて勝利を勝ち取りました。

その結果、民の家族の者達を奪い返すことができ、またダビデも自分の妻達を取り戻すことができました。

さらに奪われていたもののみではなくて、彼らが持っていた羊や牛なども奪い取ることができました。

大勝利を獲得することができたのです。

彼は、こうした戦いの勝利は、神様が彼に勝利を約束してくださった、その結果であったことを自覚しておりました。



ローマ人への手紙14章23節(申命記14章)

2014年06月24日 09時50分52秒 | 聖書

★  しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

■O:今日のコラム

信仰からでていないことは、みな罪です。

この信仰と訳されている言葉は、ギリシャ語で『ピステス』で、忠実、誠実、貞節とも訳される言葉です。

ヘブル語で信仰と訳される言葉も似ています。ヘブル語で『エムナ』で『信仰』と訳される以上に、『しっかり』とか『忠実』『誠実』と訳される言葉です。

だからこの句をこうも読めます。『誠実』さから出ていないものは、みな罪である、と。
信仰とは、神に対する誠実さでもあります。私たちのすべてを尽くして、主に誠実であり続けましょう!

『信仰がなければ神を喜ばせることができない』とはどういう意味か、『わたしは、いけにえを喜ばず、わたしは誠実を喜ぶ』とはどういう意味か、この原語の意味を噛みしめると理解がとんでもなく広がります。

もちろん誠実さは、どんどん成熟していくものです。だから、人と比べて落ち込んだりする必要はありません。どれほど誠実を尽くしているかは、主と自分にしか理解はできませんから。

そして誠実が成熟すると確信にいたります。(アブラハムは信仰が強くなって、堅く信じるようになったとあります。)

この確信は、御国をもたらし、イエス様のもとに導く力です。
『なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。』(テサロニケ人への手紙 第一 1章5a節)ともありますから。

私たちは霊的にアブラハムの子孫です。
アブラハムがまずその誠実によって義と認められたからです。

ヘブル語のエムナを誠実と訳するならば、次の句の意味は大きく変わるでしょう。

『彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。』(ローマ人への手紙4章20-22節)

誠実でいるのが難しい状況、疑うほうが楽な状況で誠実を尽くし、主をお喜ばせすることを選びましょう!

それが、私たちの信仰の父、アブラハムの信仰です。そうあれるように主に求めるなら、必ず主は成し遂げてくださいます。
何でも御心にかなった願いは、かなうということが主の約束だからです。

■A:考えてみよう

主に誠実を尽くす。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


6月23日(月)のつぶやき

2014年06月24日 01時45分39秒 | キリスト教

申命記13章18節(ローマ人への手紙 13章) goo.gl/tFdRFE


第1サムエル記30章11-15節 goo.gl/1LrvBN


◆エフライムは生焼けのパン菓子となる。 goo.gl/wFxNQw


これからDVD上映会、ひまわり、と言う名画です。


『「あなたの神である主を試みてはならない」』 goo.gl/chfXFJ